私がフリーライブラリアンをしている理由 【表編】
自己紹介とはなんなのだろうといつもとまどうけれど、私の中にすっくとあるものを、昨日のごあいさつの片われとして掲載します。投げ銭形式で最後までお読みいただけますので、なにか互いの中で揺れるものがあれば幸いです。
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【裏編】では、調べ方が届いてないところに届けたいという、いわばネガティブから始まった動機を書いた。それはそれで強い動機だが、さらに根底に何があるかというと、届く原体験が自分の中にあるからなのかもしれない。
働いた大学図書館の現場でも自分のいた大学院でも届いていない場面を何度も何度も見てきたけれど、同時に、すごく届けてもらった体験もしてきた。それは自分が学生だったときにかぎらない。
子どもの頃から私には、いつも次から次に、読みたい本があった。物理的にわが家が本だらけだったこともあるが、それでも次は何にしようかなと迷うとき、母がこれはどう?とさしだす一冊は、きまって私のそのときの気持ちにひびいて、私の読書の綱はいつもするすると伸びていった。
思えば、母は私にとって最初のライブラリアンだったのだ。それからいつしか関係は逆転し、私が母の次の一冊を示すことの方が増えた。そして、あれはなあにこれはどういうこと、ああそうだこういうことを調べておいてよ、と母が聞いてくれるたびに、私は司書として育ててもらったのだと思う。
私の実家は、家庭文庫である。家庭文庫とは、主に子どもの本を蔵書として子どもたちやその親御さんに向けて本を貸し出したり読み聞かせたりしたりする、小さな図書館のようなものだ。ものごころつくと家庭文庫をしていた母が働きはじめて忙しくなったとき、高校生だった私が代わりに文庫のお姉さんをすることになった。そこで私は、本を手渡す喜びを知った。子どもの様子やその子が今楽しんで読んでいる本を観察しながら、聞かれれば次の1冊をすっと手渡す。そのピースがすっとはまって、子どもが新しい本を読む喜びにはまったときの、心に風が吹くようなそれでいてどっしりした歓び。
別に決まった図書館の司書でなくてもいい。誰かと本が資料が出会えるように。本が情報がその本や情報を待つ誰かと出会えるように。ライブラリアンは、ただそのためにいる。