今、あらためて「書く」を考える
2001年に岐阜で「文章を書く場」を設けてから、もう20年。たくさんの人が、いろんな理由で私の場を訪ねてくれた。
主語がよく抜けてしまって、何を話しているのかわからない
よくしゃべるのに、作文になるととたんに書けなくなる
(お母さんが)作文が苦手だったから、こどもには…
作文を教えられないから、プロに頼みたい
入試科目の小論文が書けるように
推薦入試の作文・面接のため
国語の点が低いから
「読む・書く」は学びのすべての基本になるから
将来、書く・話すは絶対に必要になるから
いろんな考え方に触れる機会を作りたい
書くことに自信を持ってもらいたい
ことばの楽しさを知ってほしい
20年経っても、受講理由はあまり変わらない。ネットでどんなに多くの言葉が氾濫しても、「ことば」とつきあうときに気になる面は、それほど変化していない、ということだ。
文章を「聞く・話す・読む・書く」ことは、非常に個人的な体験だと思う。テクノロジーが発達して、私たちの代わりにいろいろやってくれる時代になったけれど、感情や感覚が、私たち固有の「からだ」と直結して生じるものであるかぎり、「感じる・考える」は、生まれた時から、すべて最初から、体験を積み上げていくしかない。
感じることも、考えることも、言葉に置き換えることも、機械にやってもらうことはできないし、一足飛びに熟達することもできない。
だからこそ昔も今も、「文章を書くこと」は、その人固有の思考と内面を、ゆっくりと熟成させていく道の一つなのだと思う。近道はきっとない。近道がないことだから、いま改めて、20年間、人の文章を読み続けて思うことを、書いてみようと思う。