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村上さとこ@四国中央市 プロフィール

村上 智子(むらかみ さとこ)⇒公式HPはこちら
1976年7月生まれ、かに座、0型 

1976年 福岡県飯塚市生まれ
1995年 福岡県立嘉穂高等学校卒業
1996年 文化服装学院入学(東京)
1999年 卒業後、アパレル企業のファッションデザイナーになる(下記)
2006年 東京で結婚・出産
2009年 主人の地元愛媛県四国中央市に、主人と娘と猫2匹と移住
2010年 (一社)愛媛県法人会連合会 えひめ結婚支援センターに勤務し、愛媛県の少子化対策としての婚活を行うコーディネーターとなる
2017年 婚活の仕事を継続しながら、フリーランスライターとなる

【職業遍歴】
ファッションデザイナー ⇒ コーディネーター(婚活) 兼 フリーランスライター

【デザイナー歴】
・BETTY'S BLUE BOY (ベティーズブルーボーイ)デザイナー
・BLACK BY MOUSSY(ブラックバイマウジー)デザイナー
・UNITED ARROWS green label relaxing
(ユナイテッドアローズ グリーンレーベル リラクシング)デザイナー
・FACADE UNITED ARROWS(ファサードグリーン ユナイテッドアローズ)ディレクター

【婚活コーディネーター実績】
婚活イベント企画、婚活セミナー企画、婚活・恋愛相談、講演会講師他。

【ライティング実績】
愛媛こまち様、ここまち新居浜様、ここまち西条様、愛媛経済レポート様、企業パンフレット従業員インタビュー、クラウドファンディング記事(WEB)、LOVE SAIJOお仕事コンテンツ様(WEB)、イマナニ様(WEB)、愛媛新聞様(伊予弁)等。

【公的な委員歴】
2013-2022年   四国中央市子ども子育て会議委員
2015-2021年   四国中央市協働推進会議委員
2015-2016年   四国中央市あったかなまちづくり活動支援事業審査員
2017-2020年   愛媛県東予地方局地域政策懇談会委員
2018-2024年7月 四国中央市男女共同参画会議委員(2022年より委員長)
2023-2024年3月 四国中央市警察署協議会委員 
2023-2024年6月 四国中央市ゴミ処理施設整備検討委員会委員

【ボランティア活動】
〇子どもの夢叶えますプロジェクト 代表(子どもの夢を叶える活動)
〇四国中央登山ムーブメント 代表(登山で地域振興・防災対策)
〇東予東部登山道整備プロジェクト
〇もりあげ隊 四国中央市 メンバー(イベントの情報発信と交流)
〇シトラスみんなの応援隊(人権尊重活動)
〇平家の里切山活性化(イベント開催などで地域活性)
〇愛媛県キンボールスポーツ連盟 広報(SNSなどで発信)
〇読み聞かせボランティア(小学校にて児童に絵本や新聞の読み聞かせ)
〇貧窮する友人への金銭的支援のための個人クラウドファンディング(noteでパーソナルインタビュー)
〇水引ガールズ マネージメント(伝統産業の継承と発信)
〇あたりまえの食卓(親子向けイベント開催)
〇野菜ソムリエ活動(食育講座実施)

【ストーリー】
■福岡~東京
 福岡県飯塚市で生まれ育ちました。

昭和の小学生はブルマ(笑)

 小学校、中学校までは親の手のかからない子だったと思いますが、大学に行くつもりで進学した県立高校3年生のときに、自律神経失調症による不登校になりました。初めての挫折を味わい、それまで描いていた人生設計が崩れ落ち、無気力な日々。今のようにスマホもなく、何もすることがないので、自宅の本棚にあった太宰治の「人間失格」や「斜陽」を読んでは、私以上の苦しみを抱えている太宰に救われました。
 そんな中で、唯一心がトキメク時間がありました。それはテレビ東京で放送されていた「ファッション通信」を見ているとき。毎回VHSに録画して、何度も見返して、自分とは対極的な華やかな世界に憧れ、いつしか「ファッションデザイナーになりたい!」と思うようになりました。
 デザイナーになるには、ヨウジヤマモトや高田賢三などの有名デザイナーを輩出した文化服装学院に行くしかない!と資料を取り寄せると、受験の条件に高校卒業とあったため、何とか高校に復帰して、遅刻早退を繰り返しながらも単位ギリギリで卒業しました。

2年生までは楽しい高校生活でした

 そして、1年間のバイトを経て、親を説得し、晴れて東京の服飾専門学校に進学しました。 

入学式

 大都会東京での学生生活は、とても刺激的でした。学校には全国から集まった多種多様な人がいて、福岡の田舎から出てきた私は、ホームシックにはならなかったものの、カルチャーショックを受けました。
 翌年には建て壊しが決まっていた古い寮は、2段ベッドが2つ入る狭さで、3年と2年の先輩との相部屋でしたが、作業室なる共同部屋があり、夜はその部屋にみんなで集まって、徹夜で宿題や課題制作をこなしました。
 東京での暮らしは、初めての彼氏、クラブデビュー、読者モデル、金髪、原宿、代官山、ファッションショー開催など、田舎にいたらできないことがたくさん経験できて刺激的な日々だったので、お父さん、お母さん、本当にありがとう!

カットモデルで雑誌掲載

 授業では、日々服作りの基礎を学びました。決して優等生ではありませんでしたが、デザイン専攻課の卒業制作ではヴィオネをモチーフとした、布のドレープ性を利用したシンプルなドレスを制作したところ、先生から絶賛され、学校に寄贈することになりました(そこだけは親に顔向けできたかな)。

これは寄贈作品ではありませんが、ドレスにペイントした作品


 就職活動では、イッセイミヤケを受け、1次試験を通過。2次試験では憧れの津村耕佑さんの面接とあり、緊張しすぎて何を話したのか全く記憶にありませんが、結果は採用ならず。その後に受けた(株)レモン(現キャン)は、ティーン向けメンズ服BETTY'S BLUE BOY (ベティーズブルーボーイ)の立ち上げのタイミングで、メンズ服のデザイナーを募集していました。
 面接には、当時付き合っていた彼氏のために作った、手編みのポケットを付けたウールのハーフパンツを持参したところ、彼氏が雑誌「SMART」にそのパンツをはいてスナップされていた写真を、ディレクターさんが切り抜いていたことから「これ見たことある!」と盛り上がり、めでたく採用となりました。
 デザイナーという肩書の入った自分の名刺をいただいたときのうれしさは、今でも忘れられません。何しろちょっと前まで、お先真っ暗の不登校児だったのですから、人生どうなるかわかりませんね。
 ブランド立ち上げメンバーは、atoでパタンナーをされていた凄腕のパタンナーさんや、skaやrocksteadyなどの音楽が好きで、カルチャーに長けたパタンナーさん、後に彼氏となるニット&カットソー担当の新卒のデザイナーさんなど、多彩な人に恵まれとても楽しい職場でした。月に1度のデザイン出しでは、様々なデザインを描いて、その中からディレクターのあべ真司さんに選ばれたものが商品化されます。自分の描いたデザインが洋服になり、商品として店頭に並んだ時のうれしさは言葉になりませんでした。

展示会にて


 BETTY'S BLUE BOYはパンクテイストのブランドでしたが、20代も後半にさしかかると、自身のデザインの好みが変化してきたことから年相応のブランドに転職することに。前ブランドで一緒に働いていたパタンナーさんからの紹介でセクシー系OL服BLACK BY MOUSSY(ブラックバイマウジー)のデザイナーとなりました。
 このときの面接官が今までに見たことないくらい大きなアフロヘアーのお兄さんだったことに驚きましたが、この会社ではそれくらいでは驚いていられないほど刺激的なことがたくさんありました。ギャル全盛期のギャルブランドをいくつも抱えた会社だったので、会社中ギャルだらけ。福岡の片田舎で、人の目を気にしながら生きてきた長女気質の私は、誰これ構わず、ため口でフランクに会話するギャルのコミュニケーションを日々目の当たりにしながら、自分の殻をちょっとずつ破ることができたように思います。
 その後、当時の彼氏の紹介で、憧れの(株)ユナイテッドアローズがデザイナーを募集していることを知り、転職して、UNITED ARROWS green label relaxing(ユナイテッドアローズ グリーンレーベル リラクシング)のデザイナーとなりました。

UNITED ARROWS green label relaxing

 デザイナー着任後、驚異的に売り上げが伸びたことからFACADE GREEN UNITED ARROWS(ファサードグリーン ユナイテッドアローズ)のディレクターにも抜擢され、2つのブランドを掛け持つ激務に追われていました。

FACADE GREEN UNITED ARROWSのイメージビジュアル。フォトグラファーはLeslie Kee


 20代後半で責任のある仕事を任せていただき、やり甲斐はありましたが、いつも帰りは午前様。100人近くいるフロアのカギを最後にかけて帰り、朝はタクシーで出社するような日々でした(タクシー代を稼ぐために働いていたんじゃね?!)。
 ところが、ディレクターとして新しいブランド立ち上げ準備中に妊娠が発覚。後で気づいたのですが、買い付けのためのヨーロッパ出張の時にはお腹に赤ちゃんがいたようで、そんなことも気づかず仕事をしていました。
 ともあれ、出産の2ヵ月前にはブランドを全て引継ぎ、退職。出産後は2年間ほど東京で子育てをした後、主人の手術などを機に、主人の実家のある愛媛県四国中央市に引っ越すことになりました。

長女が2歳のときまで東京で子育て

■愛媛 
 愛媛では主人の就農に伴い、野菜ソムリエの資格を取得するなど、家業に携わる一方で、家計を支えるために(一社)愛媛県法人会連合会に就職し、婚活の仕事をはじめました。少子高齢化という社会課題に向きあう仕事柄、行政の審議会委員にもお声がけいただくようになり、そういった場で様々な情報を知り得たことで、少子高齢化以外の社会課題にも関心を持つようになりました。
 また、野菜ソムリエの資格を取得したことや、主人が自然農法農家であることから自然派の友人ができ、仕事とは別の活動として食育活動や環境保全活動なども行いました。
 子育ての方は、東京で出産した長女が小学5年生で不登校になり、当初は、娘と一緒に泣きながら学校に引きずっていくようなこともしましたが、「徹底的に甘やかす!」という主人の宣言を受けて、私も考え方を切り替え、彼女が興味を持てる活動が見つかればと、様々な体験をさせました。
 そんな中、地元の伝統工芸士さんに水引の手ほどきを受ける機会に恵まれ、それを機に長女が水引アクセサリー作りを始めました。すると、友人や知人からオーダーをいただいたり、マルシェ出店や水引講師を頼まれたりと、様々な活躍の場を与えていただきました。その様子は愛媛新聞様やテレビ局様に度々取り上げていただくなど、普通に中学生をしていたのではなかなかできなかった経験をさせていただきました。

 中学もほぼ行けませんでしたが、水引を通して社会とつながり、多くの方に応援していただいたおかげで、中学卒業後は自ら志願した内子高校小田分校に入学し、現在は寮生活をしながら教師を目指しています。 
 長女を通して、地域の方々の応援の力を目の当たりにし、この力を長女だけでなく、多くの子どもたちに還元できないかと考えたのが「子どもの夢叶えますプロジェクト」です。

 そこで、市が主催するまちづくりワークショップで提案したところ、数名の方にご賛同いただきチームを結成。メンバーやご協力者様とともに、これまでに約40人近くの子どもたちの夢を叶えることができました。 

 また、コロナ禍ではじめた登山で、ガイドさんと山に魅了され、友人たちと四国中央登山ムーブメントを結成。市の「あったかなまちづくり助成金」を受け、2022年より地元の登山ガイドの松本智広さんの案内による親子登山を開催するようになりました。
 2023年には、大谷翔平選手の活躍にあやかって、切山地区の大谷山登山を企画したところ、タイミングよく大変話題となり、テレビや新聞などメディアにたくさん取り上げていただきました。

 東京では、デザイナーと子育て以外の活動をしていませんでしたが、愛媛に越して、様々な人との出会いがあり、仕事や様々な活動ができることを大変ありがたく思っています。そして、また新たに人生最大ともいえるチャレンジをしようと思っています!⇒https://msatoko.com/

山仲間に撮ってもらった奇跡の1枚

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