私がライターである理由(1)
このnoteでは、社会のセイフティーネットから漏れた友人支援ための「寄付などの返礼品としてのインタビュー」を、ご本人の了承を得て掲載していますが、インタビューをして記事を書く度に、その人をことばで表現することの責任の重さをひしひしと感じるようになりました。そこで、よりいいインタビュー記事が書けるように、私がライターになったきっかけをくれた、作家であり、友人でもある高田ともみさんにインタビューをしてもらうことにしました。プロの技を盗む気満々でインタビューに臨みましたが、当日は、ただただおしゃべりが楽しくてあっという間に時間が過ぎました。そして、出来上がった記事を読んで、私が話した言葉以上のことをしっかり受け止めてくれた深い受容力と、ことばの表現力に感動。誰かと通じ合えた時、何よりも幸せを感じますが、この記事はまさにその幸せな体験そのものでした。ともみさんにインタビューしてもらって本当によかったです。ありがとう。以下、ともみさんが書いてくれたインタビュー記事です。
「ライターやってみたいんよね」。
智子さんがそう言った時、正直、半信半疑だった。
人の話を聞き、記事にまとめ、時に修正、校正……と、基本的には表に出ることはない、地味な仕事だ。
当時、私が智子さんをどう認識していたかといえば、
・元ファッションデザイナーで
・20歳年上のご主人と自然栽培の農業を営み、
・結婚支援センターで仕事をバリバリこなす
・二人の女の子のお母さん。
食や教育への関心はもちろん、地域事業にも積極的でネットワークもとんでもなく広い。そんな智子さんに、「この仕事、で、できるのかな」と。
それが今や、である。
地域メディアで何本も記事を抱え、地元新聞ではコラムを執筆。加えて、noteで友人の支援のためのインタビュー企画も立ち上げ。
めっちゃライターやった(笑)。あの時は疑ってごめんなさい。
でも今はわかる。なぜライターだったのか。日向にいるとばかり思っていた彼女の、そうではない部分があったことを含め、彼女はそうなるべくしてライターになった。
そんな、友人でもある村上智子さんという女性を、取材させてもらいました。生き方の、一つのヒントになれば幸いです。
(取材・執筆:高田ともみ)
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●ファッションが、唯一残された自分のやりたいこと、だった。
福岡県飯塚市。福岡県のほぼ中央に位置する、人口12万ほどの町。
炭鉱で栄えた、農業も産業も程よくある地域で、智子さんは、会社員の傍ら畑で野菜を育てる父や、洋裁が得意だった母のもとで穏やかに育った。
食も服も手作りできてしまう、「丁寧な暮らし」がわりと身近にあったという幼少期。
そこから、なぜファッションデザイナーの道に進んだのか。いきなり本題のような質問を投げかけたところ、意外な答えが返ってきた。
「実は私、高校3年生で不登校になっちゃって」
なんと。受験のプレッシャーからか自律神経を崩し、過敏性腸症候群という病気を発症。多感な10代のこと、トイレが近くなり、恥ずかしさのあまり学校に行けなくなってしまったのだという。
「もう何もやる気が起きなくなって。周りが進学を決めていく中、私は人生終わったと思った」と智子さん。藤原新也の『インド放浪』に共鳴し、このままインドに行こうかと思うほど、思い悩んだという。
「でも、ファッションだけは好きで。『ファッション通信』だけは録画してかかさず見てたんよね。そのとき、引きこもっている娘を見かねて、母が進めてくれたのが洋裁教室で」
近くのお寺で開催されていた教室に、一人通うようになった智子さん。事情も聞かれないまま、おばあちゃんたちと一緒に黙々と縫い物をする時間に、少しずつ心が癒されていったという。
やがて、服が自分で作れることを知った智子さんに、むくむくとファッションへの情熱が芽生えていく。もともとお洒落好き。子どもの頃からお下がりや手づくりの服に不満がくすぶり、「もっとかわいい服が着たい」という欲求も強かった。
「進路が絶たれて、将来のことを考えた時、私には選択肢はなかった。ファッションはその時、自分の身近にあるもので、興味があり、やりたいと思える唯一のことだった」。
この決断力と行動力で、智子さんはその後も自分の人生を切り開いていくのだ。
●デザインより、プレゼンを褒められることが多くて。
1996年、文化服装学院へ進学した智子さんは、徹夜続きの厳しい課題や授業をこなし卒業。
ティーンズブランドを皮切りに、デザイナーとしてのスタートを切る。そして、当時急成長していた「BLACK by MOUSSY」や「united arrows green label relaxing」といった名だたるブランドでキャリアを積んだ。
一方で、「私は決してクリエイティブなデザイナーではなかった」と冷静だ。
「ゼロから服のデザインやアイディアを起こすクリエイティブなデザイナーもいるけど、私はそうじゃない。市場調査やデータに基づいて、マーケティングを踏まえたやり方のほうが得意で」。
世の中のニーズを、きちんと汲み取り、デザインに落とし込んでいく。時流をつかんだ智子さんの服は「本当にバカ売れ」したそうだ。
「そんなだから、実はデザインよりもプレゼンを褒められることが多かったよね(笑)。服も好きなんだけど、プレゼンの準備が面白かったり、引かれるのはアパレルブランドの広告やキャッチコピーだったり。子どものころから書くことは好きで。言葉への興味はずっとあったんだと思う」
服を通して流行の最先端にいながら、智子さんの内側を揺さぶるのは、繊細な言葉の響き。そんな智子さんが、"売れる服づくり"に疑問を持つようになるのは、ごく自然なことだったかもしれない。
転機が訪れたのは28歳の時。
「ブランドの広告コピーに惹かれて」という動機で、united arrowsに転職して1年が経つ頃。そのデザイン力を高く評価した会社から、智子さんをディレクターに新ブランドを立ち上げると告げられた。
デザイナーで、しかも新ブランドで、ディレクター。
ファッション業界を目指す人なら、欲しい全ての用語が詰まっている状況……だが、仕事は過酷を極めた。
「ディレクターとして新ブランドの立ち上げは嬉しかったけど、あのまま仕事を続けていたら私、死んでたと思う」
作れば作るほど売れて、手応えもやりがいもあった。既存ブランドのデザインに加え、新ブランド立ち上げ業務が加わり、仕事量は二倍、いや三倍どころの話じゃなく、毎日御前様が当たり前。仕事に追われ、もうデザインのアイディアも何も出てこない、というところまで追い詰められてもいた。
ところが、いよいよ約半年間かけて準備した新ブランドの店舗がオープンするというタイミングで、当時交際していた現在のご主人、村上誠さん(パタンナーだった業務上のパートナー、当時バツイチ、20歳年上…と、このくだりだけで1冊書けそう)との間に、妊娠が判明。
子育てしながらできる仕事じゃない、と、退職を決意した智子さん。仕事には後ろ髪引かれる思いだった一方で、「長女には本当に命拾いをした(笑)」。
そして、新ブランド立ち上げを見届け、会社を離れて以降、デザイナー、もとい、ファッション業界には戻っていない。
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