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誰かが、わたしを思い出すとき。

文豪・川端康成の小説に、こんな一節がある。

別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。 花は毎年必ず咲きます。

これは、別れた恋人である必要はないし、言ってみれば花である必要もない。

とにかく、誰かに自分を刻むために、定期的に目にするものと自分をくっつけてしまえという、ちょっと強引だけれども効果的な方法だ。

恋人であるうちは、相手の嫌いなものも、ふとした一言も、癖や仕草も、勝手に刻まれるかもしれない。でも、それはその人への思いがなくなると同時に、どんどん薄れていく。

だから川端康成は、一生に一度しかない「初めて」を使って、より深く刻みなさいと言った。

でも、初めてを使わなくても、いつまでも私の心に刻まれている人たちがいる。それが、自分の好きをどんどん表現している人だ。

何かを見て、そこにいない誰かを思い出すとき、物と人は大抵「好き」でつながっている。

あの子が好きだと言っていたバンドだな、あの人が身の回りのもの全てをこのブランドにしていたな、ここはあの人のお気に入りの場所だったな、というように。

私からその人への特別な感情がなかったとしても、その人から物への特別な感情が伝播して、私の中に刻まれる。

高校生の時に嵐・櫻井くんのファンだった萌ちゃんは、今はもう嵐以外のアイドルを追いかけているかもしれない。アイドル自体に興味がなくなっているかもしれない。

でももし同窓会で会って、本人にそう言われたとしても、きっと私の心から高校生の萌ちゃんは消えない。私の記憶の中では、高校生の萌ちゃんが櫻井くんを好きでい続けるし、櫻井くんを見るたびに、高校生の萌ちゃんを思い出す。


私は、どんなものと一緒に思い出されたいだろう。

私のことを思い出さずにはいられないくらい、私を刻みこめる、私の好きはどこにあるんだろう。

そんなことをふと思った。

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