人生の中で未来のためだけの時間はあっても良いのか
書き始める前からわかっているのは、きっとこのnoteの最後に結論は書いていないということ。
今断片的に頭の中にあることを書いていくので、一緒に考えてもらえたら嬉しいです。
未来のためだけの時間
私が今いる大学は、アメリカのオハイオ州の田舎にあります。全校生徒2000人くらいの、小さな大学。
毎日過ごしていて、悩み事がたくさん出てきます。そして夜悩んで悩んで眠りにつくと、翌朝なんでこんな片田舎の4年間まで楽しもうとしているんだろうって思うんです。
出された課題をこなして大学を卒業すれば、食べたいものが食べられて、会いたい人にすぐ会える日本に帰れる。
別にこの4年間を楽しまなかったとしたって、人生80年と考えれば対して長くはない。ただ未来のための投資として、今を過ごせばいいのではないか。無理に楽しんだり状況を良くしようとする努力こそが無駄なのではないかと。
理想は、ゴールに向かって進んで、かつその道のりを楽しむことなんですよね。でも、たまにはその道のりを楽しむことを諦めても、ただゴールに近付くためだけに歩いてもいいんじゃないかな。本当にいいのかなって迷っています。
今を楽しむことを諦めてしまえば、何も期待しなくなるから、期待してがっかりしてと足掻くよりも、少しは楽になる気がする。
過去への後悔に囚われている人を「過去を生きている人」と呼ぶなら、未来のために今を犠牲にしている人は「未来を生きている人」になるんだろうか。
未来を生きたくない理由
未来を生きたくない、というか今を生きることを諦めたくないのは、いつ死んでも後悔しない自分でいたいという思いがあるからです。
この間友達に「人間は結局いつか死んじゃうんだって思って悲しくなることない?」と聞かれ、私はいつ死んでも後悔しないように生きているからねと答えました。
例えば余命宣告とか、実際目の前に死が来たらどうなるかはわからないけど、でも曖昧なものとしての死に対する恐怖は、あまりないんです。
そう、今まで常に今を生きて来たから、未来のために今を犠牲にするべきなのか悩んでいるんですね、きっと。
うーんやっぱり、今を生きないのはリスクが高すぎるなぁ。
未来を生きてしまうと、未来が来なければ今の意味がなくなってしまう。
もしゴールが叶わなかったら、もし今急に事故にあって死んだら、未来のためにあったはずの今が、なんであったかわからなくなっちゃうんですよね。
今が過去になった時に、目標を達成するために意味なかったものすべて、無駄な時間になっちゃうんですよね。あの時楽しんだからいっかってならないから。
それは寂しいな。
というわけで、私は今を楽しむ方法をまた考えた方が良さそうです。
答え、出ましたね。
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