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努力の価値は、走った人だけが知っている。

結果を求めて頑張るほど、結果がどうでもよくなる。


哲学の論文を書くのに、とても時間と労力を費やした。

たった2ページや5ページだけれど、きちんと資料を理解していないと間違ったことを書いてしまうので、何度もなんども読み直して、全体の流れを理解しようとした。

授業のノートや過去に読んだ論文を引っ張り出してきて、知識を総動員してテーマについてのベストな自分の答えを出そうとした。


まず完璧なアウトラインを作って、論文の流れを決める。

そのあとは資料を行ったり来たりして、自分の主張を証拠で固めていく。

一度書き上げたら、それを印刷して、論理に漏れがないか、変な表現がないか確認する。

段落の順番を思いっきり変えたりもした。

そしてまた印刷して、最終チェック。

あとは大学のライティングセンターという所に持って行って、英語の文法を整えてもらって、やっと完成した。


私は、自分が今できる限りの完璧な論文を書くために、ここまで苦労した。でも、書き上げた今となっては、論文の中身は結構どうでもいい。

なぜかというと、その資料を行ったり来たりする間に、論文を書く前よりも授業で習ったことが理解できたから。

初めはざっくりとしたアウトラインしかなかったものが、言葉にするうちにきちんと反論や弱点もカバーした綺麗な主張になったから。

そうなると、この論文に書かれているのは、私の頭の中に詰まっているものを表面的に表したもので、私の中では価値がなくなる。来た道に残る、ただの足跡でしかない。


もちろん、何かを書くということは誰かに何かを伝えることなので、それを通して私が学ぶだけではなく、誰かに影響するという結果も必要になる。

でも、それは他人にとっての価値でしかない。

自分にとっての努力の価値は、ゴールを求めて一生懸命走った時点で生まれていて、結果は思ったより大したことないのだ。

そんなふうに考えたら、走りやすくならないだろうか。

大型連休も、特番も、新元号に盛り上がる空気もアメリカの大学にはなかったので、いまだに令和を感じられていない私だけれど。

でもせっかくの節目。令和も駆け抜けていきたい。

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