どんなに世界を疑っても、自分の感情は疑わない。
世の中、疑い始めたらキリがない。何が真実かなんて、誰も知らない。
どんなに心理学を学んだって、他人の心を読むには限界がある。相手の言葉が信じられなくなったら、それが本当だろうと嘘だろうと、私にとっては嘘なのだ。
ニュースで報じられていることだって、教科書に書いてあることだってそうだ。メディアは情報を歪んで伝えているとか、教科書に書いてあるけれど聖徳太子はいなかったかもしれないとか、周知の事実から都市伝説的なものまで、何かを疑う話は尽きない。
そして、自分自身のことだってそう。
自分が世界を都合の良いように解釈して生きていることなんて、わかっている。だから、「あなたは人のためにやったと思い込んでいるだけで、本当は自分のためにやったんだよ。」と言われたら、そうかもしれないと受け入れる。他人の方が私を客観的に見ているという事実に、異論はない。
でも、一つ疑ってはいけないことがある。それは、自分の感情だ。
それが他人のためではなく、自分のためでも。きれいな理由ではなく、傲慢で汚い自己中心的な理由でも。一時的なものでも、浅いものでも。あなたが何かを感じたと思うのなら、それは真実だ。
何かに対して「好き」とか、「素敵だ」とか、「美しい」と感じたら、それは誰になんて言われようと、本当にそう思う!!と言い切っていいと思う。1ミリたりとも疑う必要はないし、むしろ自分の感情は、自分で守らなければいけないのだ。
そんなもの守る必要もないと思うかもしれない。でも、それくらいの強い覚悟でいないと、感情への自信はすぐに揺らぐ。
「本当は好きじゃないんだよ。」
「それを美味しいと思うのはおかしい。」
「それくらいのことで感じる悲しみなんて、本当の悲しみじゃない。」
自信満々に、かつ変に納得できそうな説明と一緒にこんなことを言われたら、本当は好きじゃないのかな、私の味覚はおかしいのかな、悲しいと言うべきではないのかなと、私は思いそうになる。
でもそこは、うまく説明できないけれど、でも確かに好きなんだ!美味しいんだ!悲しいんだ!私の感情は、私のものだ!と信じる。
これは、周りに構わず自分の好き嫌いを騒ぎ立てるのとは、もちろん違う。そもそも、私の感情が間違っていると言う人は、私には真実が見えていないと思っているので、どう説明しても納得してくれるはずがない。だから、反論すらしなくても良い。
ただ、自分の中で、優しく抱いてあげればいい。
確かに、人よりは表に出ないかもしれないけれど、明日には違う気持ちを持っているかもしれないけれど。
でも、自分の心が何かに出会って動いたというのは、この世で数少ない、私が自信を持って信じられる事実なのだ。
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