社会問題について議論をするために必要な二つの目
最近社会情勢が不安定だ。
これからの時代、そんな風に溜め込んだ社会問題がどんどん表層化するのが当たり前になっていくのかもしれない。
そんな時、私は眠れないよるに、社会のことを考える。
それは、私には社会は変えられる。もしくは社会を変えるために個人も行動しなければいけないという認識があるからだと思う。
人は、思っていても行動しない
とはいえ、おそらく日本で開催されるBlack Lives Matterのデモに参加するかといえば、できないと思う。昨晩、人種差別が残っている現状に思いを馳せ、悲しんでいたはずなのに、だ。
これは単純に恥ずべきことなのだろうが、今回は棚にあげる。棚に上げて思うのは、思うと行動するには大きな壁があるということだ。
「他人への想像力とは、知識、能力と態度。」というnoteでも書いたけれど、想像力を持つにはたくさんの労力と時間がかかる。想像できるようになっても、本人ほどの熱量を持つのは至難の技だ。
多くの人が、他人の痛みを感じるためにそこまでの努力ができるとは思わない。大切な人の痛みくらいしか、心から一緒に分かち合いたいと思えないのではないだろうか。
なんなら自分のことでさえ、人はなかなか行動できない。遅刻してはいけないとわかっていても朝は起きられないし、痩せなければと思ってもなかなか目の前のご飯を我慢することができない。
だからこそ、文章やコピーでは「どれだけ人の行動や習慣を変えることができるか」という点で価値を測る。一方的な言葉で、単なる見せ方の違いで、どこまで人を行動させられるかに全力をだす。
個人の目と社会の目
また、それは個人範囲の話。個人が自分の行動を変えるために努力をし、他人の行動を変えるために頭を振り絞る。私は、社会問題について考える際には個人の目と社会の目を分けることが大切だと思っている。
性犯罪とかがわかりやすいと思っているのだけれど、親や彼氏がなるべくパーティーの場で露出の多い服を着ないようにとアドバイスするのは個人の目だ。
アメリカに行く前に、先輩やらOBやらアドバイザーやら多くの人にどうしたらレイプを未然に防げるかを教えられた。
お財布を見えるところに出しっぱなしにしておかない、玄関には鍵をかけるというのもそうだろう。
個人の目とは、周りの人の行動は変えられないという前提に立って、では悪人の前でどれだけ自分を守れるかを考える視点だ。
とても大切な視点である一方で、それが足りないと犯罪の被害者を責める理由にはならない。悪いのはどうやったって加害者だからだ。ドアを開けていたからといって、人の部屋に入って物を盗んでいいわけない。
そこで出てくるのが、社会の目だ。社会全体で、どうしたらそういう犯罪や社会問題を解決できるかを考える視点だ。
女性が自衛したところで、レイプの犯人がそのままでは犯罪は減らないし、女性が制約を受けるのはおかしい。(当たり前だけど男女逆の場合もあるからね、ただ私が女性視点で語りやすいので)
だから、レイプの犯人を法律で取り締まろう。警察に巡回してもらおう。レイプが起きたときに女性を責めるのをやめよう。それが社会の目から見た対策法だ。
黒人の家庭の多くでは、警察に理由もなく殺害された事件を子供に教え、警察に対して武器を持っていないことを主張する方法を学ぶそうだ。女性も小さい頃から、暗いところを一人で歩かない、露出が多い服を着ないことが当たり前として教えられる。
現状完璧ではない社会だから、個人として大切な人のためにそういった自衛を教えること、アドバイスすることは正しい。
個人でこんなことができるよと提示することもできる。
しかし、社会全体でこういう問題があると提示したときに、でも個人がもっと対策をすればいい、この人はもっとこうすれば被害に遭わなかったのにという意見を出すのは、少しずれているように感じる。
本当に問題を解決するために考えなければいけないのは、間違った社会で被害者がどう生き残るべきだったかではなくて、間違った社会をどう正していくかだからだ。
最初にも書いたように、人はなかなか行動しない。他人を善意をもとに行動させるのは至難のわざだ。だからこそ、構造的に、制度を使って、どうやって社会を良くしていくかの議論が大切になっていく。
個人の目と、社会の目。何か大きな問題を考えるときにとても重要だと思うので、ぜひ意識してみてほしい。
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