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第二十二章 確保

 息が苦しい。落ち着かない肺の動きがいまいましく、切らした息の下、喘ぐ自分の呼吸の音が耳障りだ。 
 彼は絹糸のように長く流れるおのれの黒髪を長い指先ですくって耳にかけた。ばらばらと顔に散りかかる、それらの乱れもいたく気に入らない。喉が乾く。皮でも剥けそうに喉の中がからからだ。
 立って歩いているとは言えないかも知れない覚束ない足取りで前屈みになりながら、彼は宵闇の中、木々の間を縫ってひとり彷徨うように進んでいた。枝々の隙間から射し込む青白い月の光さえ、彼の血を凍らせそうに冷たく見える。
 水・・・だ・・・。
 彼は水の流れを聞き付け、ようようそちらに歩いていった。やがて広い川原を持った、緩やかな清流に行き当たった。滑るような水面が月の光を浴びて、さわさわと音をたてている。彼は石ころを踏んだ足に痛みを覚えながら一歩一歩、水の流れに近付いていった。
 のどを湿し、人心地をつけよう。そうすればすぐにまた彼は、いつものような自分を取り戻すだろう。今はそう、水さえあれば・・・。
 ざ、と大きな水音がした。
 彼は足をとめ、黙って、突然彼の前に現れた、不思議なものの姿を見遣った。それは川の中にまだ半身を沈めたまま、水に濡れたその身体を月光にさらしてまっすぐに立ちこちらを見ていた。月の光を背から浴びて、そのものの両の目が炎のように青く輝いているのを彼はただ、美しいと感じ見返していた。そうだった。月が一番似合うもの。でもあれは・・・。
 もう一度、ざ、と水が揺れる音がした。

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 さらさらと小さく流れ続ける清水のたてる音。わたしにはこの上もなく落ち着く音だ。
 改めてそう感じながら、ケイアはそばに眠るふたりのお人形の少女の姿をふと見遣り、それから大きくため息をついた。横になってすぐ落ちるように眠ってしまい、それから身動きひとつもしない。ふたりともそれはもう、疲れてしまっているのだろう、無理もない・・・。
 妹の魔術者に助けられて兄の魔術者から逃れたあと、ケイアが手を引いて川の中をうまく“移動”し、三人はあの、元の山の、本来王女たちを奪回すべく待機していたヴィルギスの一群のいる箇所へ戻っていた。しかしそこで彼女たちが見たのは、散らばって倒れる人、人、人の姿・・・。レンダ兵もヴィルギスの民も混ざりあい、すでに終わった戦いのあとがわずかその熱を漂わせて空しく広がっているだけの光景だった。
 その情景に言葉もないケイアたちに、呼び掛けるひとつの声があった。
 「ケイア・・・。」
 「マライ!」
 ケイアは彼女の名を呼んだ、地に倒れたままのひとりの若い男のそばに駆け寄った。ふたりの王女も彼女に続き、男の近くに急いで走り寄る。
 「ケイア、それが・・・王女さまたちか。」
 「そうよ、ご無事なの。大丈夫なのマライ、あなたは・・・。」
 「俺も大丈夫さ、ちょっと足やられちまってね、動けないけど・・・それだけだから。とにかく良かったおふたりが無事で・・・。この調子じゃあんたら三人も只じゃ済んでないんじゃないかと思ってたよ。」
 「マライ、一体何があったの。」
 「良くわからん。ただこの待機所にいきなりレンダ軍の奴らが攻撃をかけてきたんだ。どうして連中が俺たちのことを知っていたのかわからない。俺たちの目的がおふたりの奪回にあったことを知っていたのかもわからない・・・とにかく攻められて応戦して、それだけだ。どっちもこの有り様で勝ったのか負けたのかもはっきりしない・・・そのうち奴らは引いていった。これが引き分けってやつなのかね。
 動ける奴らは今水を汲みに行ってるよ・・・戻って来たら手当てをしてくれるはずだ。あんまり残んなかったんだ、満足に動ける奴。それからテートとオレンダは里に遣いに行った。ふたりがこの状況を知らせてくれれば里からもすぐに救けが来てくれるだろう・・・そしたらもう何も心配はいらないさ。
 ケイアあんたたちもすぐ里に向かえ。丁度いい、さっきテートたちが紅玉使ったばっかりだからさ、道はまだ開いてると思うよ。」
 「それは・・・でも・・・。」
 「早く行きなよ、道塞がっちゃうよ。平気平気、もうすぐ里から人がいっぱい来る。そうしたら俺たちも・・・まともに救助してもらえるからさ。」
 「・・・そうね・・・。」
 まだ心を残しながら、マライの側についていた膝を、ゆるゆるとケイアは伸ばしそこに立った。
 「でもこんな・・・。」 
 「おーいケイア?」
 「こんな・・・。」
 青ざめたくちびるを噛み締め立ち尽くすケイアに、倒れたままのマライが敢えてのようにのんびりした声をかけた。
 「おーいってばさケイア、落ち込むのあとで一緒にゆっくりやろうぜ。今はそんな場合じゃないだろ、優先順位は間違わない。情に篤いが情には流されない、これヴィルギスの模範ね、しっかりやんな。」
 「そうね・・・。」
 まだ固い顔つきのまま、それでもケイアは少し笑った。
 「その通りね、行ってくるわ。いいこと約束よ忘れないで。次会ったら一緒にとっぷり落ち込んでくれるわね。」
 「そん時まで落ち込みが持続してりゃね。車座で気の済むまでやろうぜ。じゃあまあ気をつけて。」
 「あなたこそ。」
 「そだね・・・ああお姫さま方はじめまして。こんな格好で失礼しますよ。なんかずぶぬれだよね、気の毒だけど・・・。里に行けばお湯も使えるし服も乾かせると思うから、もすこしご辛抱くださいね。次ゆっくりお話しましょう、いろいろ大変だっただろうけど・・・。」
 「ええぜひ。でもこんなこと・・・。」
 「わたしたちのせいで・・・。」
 「お構いなく、俺たち自分らがやりたくてやったんですから。こっちこそすみませんね、大して役に立ってなくて。
 さて追い立てるみたいで悪いけど、ホント、道がもうすぐ閉じるよ。普通の道、歩いてなんて行ってられないでしょ遠くてさ。だからね・・・じゃあまあ気をつけて。」
 「ええ行くわ・・・参りましょおふたりとも。」
 ケイアはもうすっかりその顔に落ち着きを取り戻し、二人の王女を振り向いていつものようにそう言った。
 「地下に行くわよ。紅玉っていう宝物を使ってあけた近道があるの。それをくぐればヴィルギスまですぐよ。一度あければしばらくその道も開いてるけど、そのうち自然に閉じてしまうの。
 確かにこれを逃せばヴィルギスに戻るのは大変になるわ。普通に歩いちゃえらいことよ。急ぎましょう、道が開いているうちにね・・・それじゃあマライ、またあとでね。」
 「ああしっかりな、ケイア、お姫さまたち。」
 三人はケイアの先導で、最寄りの口から地下に潜り、そのすぐそばにあるという、里への口を目指して進んだ。
 「もうすこしよがんばっ・・・。」
 そうケイアが王女たちに声をかけた時、突然大勢の人の気配と足音が、静まり返っていた地下道に流れ込んできた。ケイアは王女たちを止まらせると自分ひとりで先の角まで駆けて行きそっと向こうの様子を伺ったが、すぐにその顔がほっと力を抜いて、懐かしそうな笑みを浮かべた。
 「みんな・・・。」
 「ケイア!」
 角から現れて彼女を囲んだのは六人の年若い男女だった。
 「ケイア、無事ね。」
 「お姫さまたちは?」
 ケイアはあちらに佇む二人の少女をそっと見遣り、六人と王女たちはちょっと離れた位置のままで最初の挨拶を交わした。
 「ひどいことになったらしいな。」
 「ええ、みんな倒れてるわ・・・マライと話したわ。彼は大丈夫よ、足をやられて動けないけど。これって救助隊なの?」
 「えー、即席救助隊。」
 「任せたわ、わたしも行きたいけど今は王女さまたちを里にお連れするわ。あんなにびしょぬれだから着替えていただいてそれから転送を・・・」
 「転送はむりよ、ケイア。」
 栗色の髪の娘がそう困った顔で彼女に告げ、それを聞いたケイアの顔がはっとした。
 「なに・・・どうしたの?まさか里・・・。」
 「里は臨戦体制よ。もうすぐレンダ軍が攻めて来るわ。」
 「攻めて来る?どうしてまさか・・・早すぎる・・・いえ・・・そうじゃないわ、早すぎないわね。」
 そこでケイアはきゅっとくちびるを噛み、難し気な顔になった。
 「襲撃班は計画を実行する前に襲われている。わたしたちが潜んでいるのが見つかって逆に攻められたんじゃないわ。彼らはあらかじめ用意していた。わたしたちの計画が知られていたのね。でも・・・でもそれってどういうこと?」
 「詳しいことを考えているひまはないよケイア。」
 黒い髪を短くした男が元気づけるようにケイアにそう言った。
 「とにかく今はやれることを急ごう。俺たちは怪我人の救助に向かう。里がひっくり返ってるからこの人数しか割けなかったけどね。
 向こうは今から戦争だ。そんなとこにお姫さまたちは連れて行けないし、第一転送の術だって使えない。トッドなら里よりずいぶん近い。ケイア、ご苦労だけど、おふたりを連れてなんとかトッドまで行ってくれ。約束には間に合わないけど、例の船にはこっちでなんとか連絡をしておく。」 
 「転送ができない・・・。」
 さすがにケイアはその言葉にショックを受けたようだったが、すぐに気を取り直すと普段の凛々しい顔つきに戻った。
 「わかった、すぐ行くわ、あとよろしく。お聞きのとおりよお姫さまたち。ちょっと難儀していただくけど申し訳ないわね。ずいぶん歩くわ。大丈夫?」
 「ええ・・・ええケイアさん。でもわたしたち・・・。」
 心痛きわまりないという顔でつぶやくようにロロディアが言うと、ケイアは明るく笑ってみせた。
 「ご自分達のせいで大変なことに、と思ってるでしょ。ぜーんぜん大丈夫、気にしないで。
 マライも言ってたでしょ、わたしたち、自分達がやりたくてやってるの。自分たちで選んだ道なのよ。さーがんばって、わたしたちの望みを叶えて頂戴。あなたたちをうまく逃がしてレンダの鼻をあかす、これが今のわたしたちの目標よ、協力してね。」
 「はい、でもケイアさん、戦争って・・・。」
 「戦争なんて。あっちが悪いのよ、わたしたちが仕掛けたんじゃないんですもん。相変わらず考え方が短絡的で野蛮よね。頭悪いのよきっと。すぐ武力に頼ろうとする・・・そんなものにわたしたち、もう負けなくてよ。こないだは不覚を取ったけど今度こそ撃退してやるわ、見てるがいい。とにかくそれは里に任せて、わたしたちは行きましょう。みんなにも急いで怪我人のとこに行ってもらわないとね。マライたちが唸ってるわ。」
 「そうだ急ごう。じゃ、また、ケイア。お気をつけて、お姫さま方。」
 「ええ・・・みなさまも。」
 「どうぞご無事で・・・。」
 かくして彼らは、一方はかの山へ、一方は身を翻して地下道を逆に進み、一路トッドの港町を目指した。三人で歩いて歩いて、そして今ははじめの夜、地下道の中。
 “よくがんばって下さっているわ。”
 ケイアは泥のように眠るふたりの愛らしい顔を見ながら実にしみじみそう思った。そんなに歩くことなんて今までもこれからもないに等しい人生だろうに、彼女たちは精一杯、弱音も吐かずにしかもできる限りの速度で歩き続けてくれていた。
 しかし、とケイアは今度は理詰めで考える顔になる。いくらがんばっても王女様の足、すでに遅くもないがかと言って鍛えられた足のように速いというわけにもいかない。この分では目指すトッドにたどり着くのはあと丸二日歩いて三日目の昼前後といったところだろう。疲労がたまることも考えてそれより少し遅くなることも考えられる。そんなに長いこと彼女たちに無理もさせたくはないがこの際仕方がない。
 “その間中ずっとわたしは・・・。”
 彼女たちを守りきれるだろうか。ふっと彼女を襲った不安をすぐにケイアは振り払う。弱気になるなんて以って極めてわたしらしくない。何より弱気になんてなろうものなら、成功するものもしやしない。
 “あのひと・・・。”
 あの、黒く長い髪の魔術者。ケイアは彼の、ぞっとするほど冷たくあまりに美しい顔を思い浮かべた。あのひとがまたわたしたちの前に現れたら、わたしではきっとどうすることもできはしない・・・いえ・・・できないなんて思うもんですか・・・。
 そしてケイアは、彼の妹であるらしい、あの華麗な若い女のことも思い浮かべた。クローネさんと言っていた、彼女どうしているかしら。兄さんとの戦いでそんなにひどい怪我でもしてなけりゃいいけど・・・それとも彼女が兄さんを、酷い目に遭わせたりしてるかな。
 “クローネさん・・・。”
 彼女のことは心配だったが同時にあのしなやかな姿と威勢のいい言動を思い起こしてケイアは小気味の良い気分を味わっていた。もう一度また会えるわよね。わたし好きだわ、あんなひと。
 「さーそろそろ、わたしも寝るか。」
 ケイアはそうひとりつぶやいて、冷たい岩の上に身体を横たえた。目を閉じる、小さな水の流れが聞こえる。水のそばにいる。そうすればわたしたちは大丈夫。きっときっと大丈夫・・・。
 そしてそのままものの何秒もしないうちに、ケイアは暖かい眠りの中に、すとんと安らかに落ちていった。

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 地下道の出口が近付くにつれ、ケイアの緊張はますます高まり胸が苦しいほどだった。
 夜があけて今日も丸一日歩き、多分外はそろそろ夕暮れが近いと思われる。トッドまでの行程のうちただ一か所ある地下道の切れ目。ここから一旦外に出て草原を歩き、すぐにもうひとつの口から地下に入る。ある意味ここが今回の最大の難所、唯一の危険な地点だ。ここを乗り切れるか否かに彼女たちの逃避行が成功するか否かがかかっていると言ってもいいだろう。
 考えてみれば、この頃の妙な流れからすると、地下にいたからと言って完璧な安全はすでに保証されていないのかもしれない。地下への口はいつかレンダ側に知られるのかもしれない・・・先日出口で待ち伏せを受けた地下道は一旦封鎖した(不思議なことにその後あそこにレンダの調査が入ったというあとはなかった・・・彼らにはそこが地下への口だとわからなかったのだろうか?)が、しかし例えばヴィルギス出身のいわゆる情報屋が相手を見誤り、レンダに繋がる人間かまたはそういった人間に言を洩しそうな人物に貴重な情報を与えてしまうということもあり得るだろう。そうすればいつかこの地下道は、あらぬ者たちに汚されるかもしれないということか。この中にいたとて今までのように、身の安全を図ることはすでにできないかもしれないということか?レンダに通じるようなヴィルギスがいることがあるだろうか・・・情報屋の中に?
 いないと信じたいものだ。しかし情報といえばこちらの王女奪回計画、いつどこでどのようにしてレンダに知られるようになったのだろう。一体何が起こっているのか?誰が・・・何が・・・どこで綻び始めているのだろう?
 「ケイアさん?」
 考えにふけっていたケイアははっとして、小首を傾げて自分を見上げていたミュゼルに微笑って返した。どうも自分はこのところ、余計なことばかり考えすぎる。今は行動に集中する。ただそれだけだ。
 「さっきも話したけど、もうすぐ一度外に出るわ。大した距離じゃないけど少しそこを歩いてまた地下に潜るの。今回最大の山よ。用心していきましょうね。」
 ケイアの言葉にロロディアとミュゼルは同時にうなづく。さすがにふたりとも実はその顔に疲れの色は隠せないのだが、そんなことは努めて外に出すまいとがんばっているのがよくわかる。
 けなげよねえ。
 そんなふたりの様子を見て、とにかく自分がしっかりしないと、とケイアもまた己れを厳しく奮い立たせた。若干の不安要素はあってもやはり地下道は彼女たちにとって最も安全な場所なのだ。
 この地下の“場”そのものにヴィルギスと水竜を護る古代からの力が宿っているはずだ。邪心を持つものが万一ここに入り込んだとして、その守護の魔力が彼らをきっと好きにはさせないに違いない・・・そんなこと今まであったことないからわからないけど。古代の魔力は信じるに足るだろう。水竜の守りもある、地下にいさえすれば彼女たちは、やはり必ず大丈夫なのだ。だからここさえ、この短い間さえ・・・。
 とうとう三人は地下道のはじに立ち、ケイアは二人の王女を残してひとり、まずは口から外に出た。またこの間のように表をぐるりとレンダ兵に囲まれていやしないかと案じたが今回有難いことにそれはなかった。それでもケイアは用心怠りなく、しばらく外を回ってあたりの様子を確かめた。ぽかんと無防備に広い草原はあまりにからっぽで、逆に不安なくらいだったが、その分誰かの隠れていそうな気配もなかった。
 ケイアはとうとう決心して、ふたりの王女を外の世界へといざなった。ふたりはちょっとだけ眩しいしかしすでに夕暮れをはらむ外の光に目をぱちぱちさせてあたりの緑を見遣るとすぐに、ケイアに続いて道を辿った。
 “大丈夫だわ。”
 相変わらず重苦しさに胸を塞がれながらケイアは自分に言いきかせるようにそう繰り返していた。
 “きっと大丈夫だわ。もうすぐ・・・。”
 目指す・・・
 「・・・お待ちしていましたよ。」
 しかしそこで彼女に背後から浴びせられた声に、ケイアの足はすくんで動かなくなってしまった。ふたりの王女ははっと同時に振り返り、強張った顔で声の主を凝視した。完璧な発音、冷たい、しかし抗い難い魅力のあの声・・・そんなまさか、だってさっきまでそこに人は確かにいなかったのに・・・。 
 「エスタニさん・・・。」
 つぶやいたミュゼルの声はやはり緊張しきっていたが、しかしそこにわずかも嫌悪の色は見せていなかった。ふたりの王女はどちらからともなくそっと一層近付き合い寄り添いあってそこに立った。ケイアはやっとのことで気を取り直して、勇気を奮い目の前の黒く長い髪の男にむかって言った。
 「・・・どなたをお待ちだったんですって?」
 「あなたがたをですよ、もちろん。」
 「わたしたちがここを通ることを何故ご存知だったとおっしゃるの?」
 「教えてもらったのですよ・・・あるものに。わたしを・・・手助けしてくれたものです。」
 「教える・・・。」
 ケイアは訝し気にそう繰り返したがその実エスタニが使った“手助け”という言葉にひっかかっていた。彼は確かにその言葉を今かすかに言い淀んだ。正確には“手助け”ではないのだろうか。では実際は一体なに?
 「そんなことができるものがいるとは思えませんわ。」
 「現にいたのです。だからこそわたしはここにいる・・・これは確かでしょう?ヴィルギスの方、王女殿下方を今すぐわたしに渡していただきましょう。おふたりはわたしのもとにこそいらっしゃらなくてはならない方々です。」
 「ああおっしゃってますけど」
 ケイアは首を傾げてロロディアとミュゼルに視線を流した。
 「どうお思い?」
 ふたりの王女は手を取り合って、同じ調子で首を横に振った。
 「・・・こうおっしゃっててよ。」
 ケイアは再度正面からエスタニと向き合って彼にそう言った。
 「存じ上げております。」
 エスタニは相変わらず以上の冷静さでそう返した。
 「申し訳ございませんが今はおふたりのご意向を尊重してさしあげるわけには参りません。一刻も早くおふたりをわたしにお引き渡し下さいますように。」
 「申し訳ありませんけど今はわたしも、あなたのご意向を尊重してさしあげるわけには参らないようですわね。」
 努めて落ち着こうとしながらケイアはエスタニにそう返した。エスタニはまっすぐにケイアを見た。その目はいつものように冷たい、と言って差し支えのない色のものではあったが、しかしそこに苛立ちの様子はまるで見えなかった。
 「尊敬すべきヴィルギスの方、ここは是非ともお聞き分けを頂きたい。もう長くは待てません・・・ぜひすぐに、おふたりをわたしにお渡し下さいますよう。さもなければあなたを・・・。」
 「わたしを?」
 ことここに至り、ケイアは逆に、とうとう落ち着きを取り戻してエスタニに言った。
 「わたしをお倒しになる?」
 「・・・そんなことには致したくありませんが。」
 エスタニはまばたきひとつせず、何も読み取らせない目でケイアにそう言った。ケイアは黙って彼の目をまともに受けて見つめ返した。
 「・・・ケイアさんにお怪我などございましたら」
 そこでそう声をあげたのはミュゼルだった。
 「わたくしけしてあなたと参りませんわよ。」
 そんなミュゼルにちらりと視線を流してエスタニは言葉を返した。
 「それでは、わたしがこの場でこの方を無傷でお帰しすると申しましたら、わたくしと来ていただけますか、ミュゼル様。」
 「・・・。」
 「だめよ、ミュゼルちゃん。」
 そこでケイアのよく通る、きっぱりとした声がその場に響いた。
 「わけわかんない取り引きに乗っちゃだめ。わたしに意地を通させて頂戴、少々痛めつけられたってわたしはあなたたちを渡したりしないわ。殺されたって・・・殺されることになったって・・・そうよ、やってご覧なさい。どうしてもおふたりを連れて行くというのなら、あなたにも人殺しをやるだけの覚悟を見せていただきませんとね。」
 「・・・。」
 ケイアの言葉にしかしエスタニは動じた気配もなく、ケイアとミュゼルとロロディアをすうっと順繰りに眺めていった。
 「・・・どうあってもすんなりお渡しいただけないとおっしゃいますか。」
 「申し訳ありませんわね。」
 「仕方がありません、それでは然るべき手を打たせていただくことにいたしましょう・・・お覚悟下さい、ヴィルギスの方。今ならまだ間に合いますが?」
 「何に間に合うんですって?」
 「・・・愚問でしたね。」
 わかっていたけど本気だわ。一歩も退かない態度を保ったままで、しかしケイアはその頭の中で、冷静に、状況の圧倒的な不利さを認めて何とか手立てを見い出そうとしていた。こうは啖呵を切ってはいるが、かの魔術者の前にケイアなど、実は何の力も持たない。こうして対等のような扱いをしてもらえるだけ奇蹟のようなもので、問答無用、ほんの一秒でケイアを虫けらのように踏みつぶし王女たちを攫っていくことくらい、本当はこのエスタニには雑作もないことに違いない。
 “ふん、なかなか紳士じゃないの。”
 さすがあのクローネの兄だけのことはあるってことか。しかし一方それでも、目的のためなら彼はケイアを倒していくことに、毛程のためらいも感じはしないだろう。さあどうする、どうやって二人を逃がす。身を楯にするのにやぶさかではないが、満足な楯にもなれずただひねられるだけなら何の意味も甲斐もないってことになる。
 “ほんの少しならわたしも魔術に抗することができる。” 
 けして魔術が得意とか心得があるとかいうものではない。しかしヴィルギス一族の奥義、失われた古代魔術のさわりくらいならどうにかケイアも操れる。この血とこの身体をもってそれを使えば、現代魔術のエキスパート相手でも少しの間なら渡り合うことができるかもしれない。現代魔術は古代魔術を苦手としているらしいから・・・。
 「逃げて。」
 「・・・え?」
 「わたしが時間を稼いでいる間にうまく逃げてね。次の入り口の場所はわかってるでしょ?うまくひきつけるつもりだけど、万一あのひとが追って地下へ入ってきても心配いらない。多分フィシェッタが中にいるわ。何とかしてくれると思うの。あの中では・・・邪心は通用しませんからね。」
 「引き付けるですって?いけませんわケイアさん、どうなさるおつもり。」
 めずらしく厳しい声でミュゼルが言った。
 「どうするもこうするもやりたいようにやるだけよ。わたしの目的はあなたたちを逃がすこと、目の前の目標はあなたたちにトッドに行ってもらって船長さんたちに会ってもらうこと。これはわたしの目的よ、他の何のためでもないわ。我は通させてもらうわよ・・・始まったら行って。ためらってるとわたしの目論見がぶちこわしになるわ。わたしのためによろしくね。」   
 「ケイアさん・・・。」
 「ケイアさん、およしになって!」
 「わたしがよしてもむこうがよさないわ。どのみちあの人わたしを倒す気よ・・・。それじゃ気をつけて、地下へ潜ればあとは一本道よ。じゃあまたね!」
 「ケイアさん・・・。」
 「ケイアさんちょっと待っ・・・!」
 王女たちの声を振り切るように、ケイアはとん、と軽くつま先で大地を蹴ると、そのまままっすぐエスタニの方に、から手で走り寄っていった。
 「・・・。」
 ケイアの身体がぼんやりと、薄いたまご色の光で覆われた。古代の気を纏って自分に当たって来る彼女の姿を、エスタニは黙って、微動だにせずそのまま迎えた。
 “龍よ・・・!”
 古代の詩を胸に唱え、ケイアはその目にありったけの力を込めた。彼女を包んでいたたまご色の光が黄味を強くし、そこに褐色の縞模様が浮かんだ。
 “なんとか・・・。”
 ぶつかり合えば少しは時間が・・・。
 エスタニから十数歩のところに迫ったケイアから、縞を浮かせた光が大きく膨らんで噛み付くようにエスタニを襲った。彼は相変わらずまばたきひとつもしないまま黙ってそれを受けるかと見えた・・・しかし全くいつ現れたかさえ認識できない速度と勢いで彼から噴き出した濃く深く青い光が、彼を呑み込みかけたケイアの光を一気に貫いて砕け散らせた。その青い光はそのままケイアの身体を打つと、鉄砲水のように彼女の胸を押し流し、そのままあちらへ弾き飛ばしてすぐに消えた。
 “・・・!”
 胸が・・・。
 ケイアはその場にうずくまり、大きく喘いだ。ひどい力にしたたかに打たれて今は呼吸も自由ではない。胸は痛むというより灼けたように熱かったが今はそんなことをいちいち知覚している暇はないようだった。
 “ふん、やっぱりね。”
 わたし程度の魔術ではやっぱり歯も立たない。いかな古代の力といえど・・・けれどだからって、はいそうですかと立ち去る場所はどこにもないのだ。
 “もう一度・・・。”
 ケイアは立ち上がるとちらりとそこらに鋭く視線を走らせた。ふたりの王女は、先程立っていた場所にまだ並んで立ち尽くし、すくんだようにしてこちらを見ていた。あらあらふたりとも、お願いだから早く行って頂戴な。この調子じゃいくらも時間が作れそうにない。わたしの努力を無駄にしないでねえ。
 しかしケイアの視界の端で、ロロディアとミュゼルは目に涙をいっぱいにためながら、そろそろとその足を後退させているようだった。どうやら走り出す決心がついてきたようね。いいわ、そうよ、早く行ってね。
 エスタニがそんなふたりに氷のような眼差しをくれた。いけない、注意をこちらにひきつけなくっちゃ。わずかでも・・・たとえわずかでも・・・。
 “・・・!”
 ケイアは再度全身に力をこめると、その身体から暗褐色の強い光を一息に放った。その光の中に身をおいて、ケイアの両の瞳が、暗く、わずか狂気に近付いたような色に染まった。彼女のくちびるにかすかに・・・かすかに笑みが乗った。
 ケイアは再度地面を蹴って、そのままエスタニの方へ先程とは比べ物にならない速度で向かっていった。相変わらず動こうともせずそれを迎えるエスタニの、しかしその目がほんの少しだけ細められた。
 “あんまり調子に乗ってるとわたし・・・。”
 血に宿る古代の魔力。下手に魔術に頼りそれを刺激すれば、目覚めたその魔力に呑み込まれ、自分自身を失うことになる・・・とケイアは確かにきつく戒められていた。けれど・・・けれど今はこれしかない。どこまでぎりぎりで戦えるか、これはわたし自身とのたたかいか。
 “通じるか!”
 頼むわよ・・・! 
 ケイアは光を纏ったまま、肩からエスタニに体当たりを喰らわせる体勢に入った。彼の真っ白い、血の気の薄い作ったような美しい顔がケイアの視界の中でぐんぐん大きく迫るように見えた。
 “・・・!”
 ぶつかるまでにもう少し、というところでエスタニの身体から先程と全く同じように、しかし今度は濃い紫色の重い光の固まりが噴き出された。突然ケイアの意識がぶつりと暗転した。痛みはない。打たれている感覚もない。しかし何もかもが闇に塗りつぶされ、瞬間、彼女はすべての知覚を失った。
 “なに・・・。”
 これは・・・何?まさか死・・・。
 けれどすぐに何だかとても暖かい感じがして、ふっとケイアは我に帰った。戻った視界は先程までのあの草原、あのままの位置だった。彼女は駆け出してそして急に止まった時の姿勢で、そこに不自然な様子で立っていた。草のにおいをさせた風が頬に感じられ、その時目の前はただのからっぽな、あくまで平穏な草はらの風景だった。
 ふと、とても懐かしい声が聞こえた。
 「ちょっとねえ、いくら何でも魔術者じゃない方にその術はないんじゃない?全く見境なくなってきたわねえ、お兄さん。」
 “クローネさん。”
 はっと辺りを見回したケイアの目にすぐに、クローネのあの、華やぎを漂わせた姿が飛び込んできた。身につけているものがあんなに落ち着いたものばかりなのに、彼女はそこにいるだけでやはり花があった。クローネはその整った口元を皮肉な笑いに歪ませて、投げ付けるように兄に言った。
 「好きにはさせないわって言ったわよね。約束は守る妹よ。さて・・・またお手合わせと参りましょうか。」
 「何故ここに来た。」
 「言ったでしょ、お嬢さま方はわたしが守るってね。多くはここでは語りませんけど、陰に日なたに皆さんを見守り続けていたわたしだったってわけ・・・それにね、あんな凶悪な魔術使ってれば、すぐにお兄さんがここにいること位わたしあたりには知れるわよ。ちょっと他には真似できませんもんねえ・・・で、来てみれば輪をかけてひどい術使おうとしてるし、ほっとくとホントロクなことしないわよね、お兄さんってば。」
 「・・・おまえの出る幕ではない。引いていろ。」
 「あらご挨拶。悪いけどね、自分の出番くらい心得ているわ・・・お兄さんこそそろそろ退場なさったら?」
 エスタニは相変わらずの冷たい目で妹を見遣り、クローネはびくともせずにその視線を受けて立っていた。ケイアは息を呑んでその光景を見つめ、ふたりの王女も足を止めたまま、対峙する兄妹から目を離せずにいた。
 「行かないならわたしがお送りしてもよろしくってよ。」
 とうとうクローネがそのすらりとした指の手をゆっくりとあげた。エスタニはもう、こんな面倒なことはないというように小さく眉のあたりをしかめた。
 「聞き分けのない。」
 「そっちこそ。」
 一瞬であたりの空気がびりっと痛いほど引き締まった。
 そして再度、光と音の激しい応酬が始まった。色とりどりの光と熱が渦巻きぶつかり合い、あたりに散って、空にのぼった。何度目かにエスタニが投げた天を焦がす炎をクローネは左手一本で弾き返したが、そのあと一瞬彼女は小さく眉を寄せた。そしてすぐに彼女が投げた重い青の光のすじをエスタニはすっとよけたがその時に、彼のまっすぐな黒く長い髪が一部さあっと乱れ、彼の左肩がぴくりとひきつった。
 何がどうなっているのかよくわからない。どちらが優勢なのかもわからないけれど、とにかく二人ともずいぶん消耗し始めているような・・・。そう思いながらふたりの様子を夢中で見つめていたケイアは、ふと何やら不安を感じて肩ごしにそちらの空を見上げた、なにか・・・。
 “あっ。”
 暮れがけのその空に一か所、あまりにも不自然なまっ黒な雲が、ぐるぐると何かを砕くような勢いで回り渦となって不吉に浮かんでいた。エスタニかクローネが招んだものだろうか?しかしふたりとも今はあれに気付いている様子もないようなのだが・・・。はっとケイアは胸をうたれた気がして思わず、考える前に叫んでいた。
 「あぶないっ!」
 その声にエスタニとクローネの兄妹は同時に手をとめてケイアをそして例の暗雲を見た。その時にはもうその禍々しい黒い雲から、強烈な尖った光が、大きくひとすじ伸びてかの兄妹の立つ地を厳しく叩こうとしていた。
 “いけない!”
 ふたりがやられ・・・
 ギャン、と耳慣れない音が高く響いた。
 その時いきなり目の前に展開した光景が、最初ケイアにはほとんど理解できなかった。今にも兄妹を呑み込もうとしたあの光を、高く飛んだ影が一身に受けて光の中で身体をよじった。光はその影を包みこむと、それに内側からはね飛ばされたようにあたりに散ってそのまま消えた・・・兄妹をかばったその影は、そのままぱたりと大地に落ちた。それは、すんなりとした一頭の、それは美しい四肢のけものだった。草地に倒れ動こうともしないそのけものを覆うつややかなキャメルブラウンの体毛が、暮れがけの光にそっと光っていた。
 「・・・ミュゼル様っ!」
 叫ぶ声に目をやると、そこには何かを胸に抱え込んでその場に膝をついたロロディアの姿があった。よく見れば彼女が固く胸に抱いているのは何かの布、そうだ、ドレスだ。
 “ミュゼルちゃんが・・・着ていた?”
 「まさか・・・。」
 ケイアはつぶやきあらためて大地に横たわるそれは優雅なけものの姿に目をやった。ああそうだ、まさかなんかじゃない。ミュゼルちゃんは・・・ミュゼルちゃんは・・・。
 さすがのエスタニもクローネも、その時はあまりのことに動けずにいた。しかしまずケイアがミュゼルにむかって走り出し、クローネも身を翻して横たわるけものに駆け寄ろうとした。そのクローネの、ブラウンの瞳にちかっと強い警戒の色が走った。 
 「止まってっ!」
 クローネの声がしたのと、どこからか降っていた水色の光にけものの姿が包まれたのが同時だった。けものを覆った水色の光の中で、その姿がふいと宙に浮かび、そのままぐいぐいとふたりの前からいづこへかと、連れ去られようとしている。
 「きゃあっ!」
 「ロロディアちゃん!」
 振り向くと、ロロディアの身体もいつの間にか水色の光に包まれ、そのまま宙に引き上げられている。クローネがきゅっとくちびるを噛んで細く長い指先をぱらぱらと空に舞わせ、すぐに短くなにごとかを口の中でつぶやき始めた。その彼女の頭上に急に判が押されたように黒い影が現れ、それがそのままクローネの身体を一気に覆い尽くそうとした。
 “!”
 「クローネさんっ!」
 ケイアの目がかっと真っ赤に染まり、その瞬間黒い影は砕け散ってそのままあたりに消えた。クローネの長いやわらかな髪が風によじれたが、彼女の身体には傷ひとつなく、クローネはその澄んだ瞳を大きく見開いてケイアを見た。
 「あなた・・・。」
 しかしケイアの目はすでに、宙に浮かぶふたつの宝物のような姿に奪われていた。
 「ミュゼルちゃん!ロロディアちゃん・・・。」
 「ケイアさん!」
 どんどん自分を吸い上げていく水色の光の中でミュゼルの着衣を抱きしめロロディアは身をねじってどうにかそこから逃れようとしていた。一方のミュゼルにはまだ意識はないようで、こちらは四肢を倒しきったまま、ぴくりともその身体のどこも動かない。
 「待っ・・・」
 一歩を踏み出したそのケイアとクローネの眼前で、ロロディアとミュゼルの姿はふいと拭かれたようにかき消えた。
 「ミュゼルちゃん!ロロディアちゃんっ!」
 悲痛なケイアの叫び声が響いた時、エスタニの姿が身じろぎをし、クローネははっとそちらを振り向いた。兄と妹のよく似た瞳がそこでまともにぶつかりあった。しかし冷たい色の眼差しをした兄はそのまま口を開かぬまま、その姿を徐々にそこから消し去ろうとしていた。
 「おにいさ・・・」
 “!”
 ふたりの様子に気付いてそちらを見たケイアは、そこで、今までだとて見たことのないほどに冷酷な光をたたえたエスタニの目を確かに捉えた。それは鬼気さえ漂わせると思われた・・・ケイアの背筋がぞくりと震えた。そしてその次の瞬間、彼の姿は消え、それと同時にクローネの、長く伸びたたおやかな身体がぱたりと倒れた。
 「・・・クローネさん!」
 ケイアはクローネに駆け寄ると、その肩を抱き上げてこちらがわに顔を向かせた。すらりと通った鼻すじとなめらかな肌が近くに寄ってはさらに目についた・・・しかしクローネのその肌は今やくすんだように青く染まり、まぶたは弱々しくかすかあげられ、苦し気に小さく開いた口から不安定な呼吸が必死に空気を求めるように痛ましく続いていた。
 「クローネさんしっかりして!クローネさん・・・!」
 「わたし・・・。」
 クローネは何ごとかつぶやこうとして為し得ずに、弱々しく一度唾を飲み込んだ。
 「おにいさん・・・。」
 「クローネさ・・・。」
 そしてケイアの腕の中で、クローネはふいと身体の力を抜いた。黒ずんだまぶたがそっと下ろされ、彼女の首がかくりと揺れた。
 「クローネさん!クローネさん・・・!」
 ケイアはクローネの上身を抱きしめ、その顔を覗き込み頬に手を当てた。一体何が・・・あのひと何を・・・。
 「クローネさん・・・。」
 ミュゼルちゃん、ロロディアちゃん・・・。
 今や殆ど暮れがけの、紫色に染まった光の中、広い何もない草原にただひとり、ぽつんとケイアは取り残されていた。クローネの身体を抱いたまま草の上に座り込むケイアのまわりに暗闇を孕んだ風と地がただただ何も語らず、大きく彼女を囲んで、無愛想に広がり続けているだけだった。

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 「もうすぐ一度外に出ることになるな。」
 「ああ。」
 清かに水を含んだ透んだ空気が心地良い。朝からずうっとこんなに急いで歩きどおしでもまだ元気でいられるのは、きっとここの浄化された空気のせいに違いない。そして絶え間ない、心を落ち着かせるやさしい水音。
 リリュレとアルソルヴェはネルが手に入れてくれた地図を頼りにその日の朝早くから船を出、ふたりでこの、地下の大通路に入り込んでいた。問題の山からトッドに至る地下のルートは有難いことに見たところただの一本しかなかった。王女たちが自力でトッドを目指すとするならば、やはりこの道を辿ってくる可能性が一番高いと思われた。相談の末、当初の役目どおり王女のナイトふたりがとにかく地下に潜り、姫君たちを迎えに行くことに話がまとまり、彼らふたりはこうして朝からひたすら先を急いでいる。船長以下ネルも含めたその他の人員は、行き違いがあった場合や水竜からの連絡などに備えてその日も船で待機することになった。
 もうそろそろ外は日が暮れようとする時分だろう。今行く通路はまもなく短く坂をのぼり、そこで一旦切れてふたりは表を歩くことになるはずだった。王女たちがいた山からトッドまでの間の、ここが唯一、通路が繋がっていない場所である。そしてここがさらに唯一、彼らと王女たちがすれ違ってしまう可能性のある場所でもある。くれぐれもよく気をつけていないと・・・。リリュレは改めて気を引き締めるように口元をきりっとさせて深く呼吸をした。
 「・・・リリュレ。」
 「うん?」
 いつの間にかやや遅れ、うしろからついて来るかたちになっていたアルソルヴェが彼女にそう声をかけた。その声の響きがなんとはなしに気になって、リリュレは振り向いてアルソルヴェを見た。そういえば今日一日、彼はなんだかいつもに比べて口数が少なかった。
 「あんたさあ・・・。国王陛下が好きなのか?」
 その言葉にリリュレは思わずその場で足を止めた。彼女はゆっくりと、背の高いアルソルヴェの顔を仰ぎ、そのまま見つめた。アルソルヴェもそこで足をとめて、妙に生真面目な表情でリリュレの顔を見返した。
 「・・・何だって?」
 「国王陛下が好きなのか、って。」
 「何だまた、やぶから棒に。」
 「そうでもないさ。」
 リリュレはアルソルヴェの顔から視線を外し、小さく首を振ると彼をおいてさっさとまた道を先に進み始めた。一拍遅れてアルソルヴェもそのあとを追う。
 「どうしてまたそんな突拍子もないことを。どうかしたのか、ア
ルソル。」
 「いや別に。ただ昨日ネルくんと話した時に急にそうかなって思っただけさ。考えてみればずっと前からそうかもって感じていたのかもしれないけど、突然それがはっきりしたっていうか。」
 「ネル?あの子また妙なことを・・・。」
 「ネルくんはこんなこと言ってないぜ。彼はね、どうしてリリュレは町に帰るって言わないんですかって俺に尋いたんだよ。それは誰のせいですかって。」
 「誰のせい?誰のせいってもんでもないだろう。もう話は聞いたと思うが、きみだってわたしの立場ならあんまり戻りたいと思わないだろう、違うか?」
 「うん、まあね・・・。それでも俺、その言葉を聞いた時、はじめは、誰のためって言えばミュゼル様ってことになるかなあって思ってね。」
 「上手いぞアルソル、そのとおりだ、わかってるじゃないか。今のわたしはミュゼル様を確かに見届けるまではジットゥーラを離れるわけにはいかないんだ。」
 我が意を得たりとうなづくリリュレにしかしアルソルヴェは歩きながら首を小さく横に振ってみせた。
 「ネルくんが最初に言った言葉の意味は少し違うんだよ。彼はね、あんたが誰か、男の人のためにここにいるんじゃないかって言ったんだ。」
 そこでアルソルヴェは敢えて、ネルが口にした、自分ともうひとりの男の名前は出さなかった。リリュレはやれやれといった顔で視線を少し遠くに流した。
 「全くあの子は途方もないことを・・・。」
 「そうかな?まあ・・・それで俺はその言葉を聞いてようやく、今までなんとはなしに感じてたことがきちんとかたちになったんだってわけ。あんたが国王陛下のことを・・・その・・・好きでいるんじゃないかって。」
 リリュレは心なしか険しい顔になり、そのまま前を見たままややあってアルソルヴェに言った。
 「・・・ばかな。」
 「ばかな?」
 「考えてもみてくれ、どうしてわたしがあの人を?ミュゼル様のお父様だぞ、国王陛下だぞ。女王陛下もいらっしゃる、女王陛下も、そりゃあわたしとは・・・というより国の誰ともあまりお会いにならないが、それでもとってもよくして下さっている方だ。平たく言えば妻子があって立場も違えば年齢も遠い。ましてそのお嬢さまというのがわたしの大事なミュゼル様だ・・・そんな方にわたしが邪念など持つと思うか?」
 「邪念って・・・そこまで言うか、あんたってばさ。別にあんたがそれでどうこうしようと思ってるとは言ってないさ。あんたは黙って隠し通すつもりなんだろうけどね、口が裂けたって・・・でもさ、好きになっちまったもんはしょうがないだろ?それだけのことさ、特に俺は悪いこととは思わないね。」
 「かばいだてして頂いて有難いがね、アルソル、心配のし過ぎだ。大した物語だよ、けっこうロマンチストにできてるんだな、わたしと違って。」
 「・・・そう?」
 「そうさ・・・折角だがねアルソル、全部忘れてもらって構わない。わたしがあの人に恋をしてるなんてそんなこと全く全然これっぽっちもありゃしないから・・・。」
 「ふうん。」
 ちょっとの間アルソルヴェは黙り、それからまた短く言った。
 「じゃあまあ、そういうことでもいいけどね。」
 それからしばらくふたりは何も言わずに並んで歩いた。ややあってぽつりとリリュレが言った。
 「・・・きみたちは本当にそっくりだな。」
 「きみたちって?」
 「きみとイゾルさん。実はゆうべイゾルさんにも全く同じこと言われた。」
 「あーイゾルさんね、あの人いつも鋭いねえ。彼はネルくんとそんな話してないのに。」 
 「ふたりとも気の回し方までおんなじだ。おかしなもんだな。」
 「で、あんたイゾルさんに何て言ったの。」
 「さっきと一緒。そんなこと全く全然これっぽっちもありませんって。」
 「イゾルさんは。」
 「じゃあそういうことにしといてあげてもいいですよって。」
 「ははは・・・。」
 リリュレは実に納得がいかないという顔でまた小さく首を振った。
 「きみたちちっともわたしの言うこと信じていないだろう。困るよ、本当に。そもそもどうしてわたしがそんなこと思っているなんて考えるのさ、国王陛下を好きだなんて・・・びっくりするよ。」
 「なんでってさ・・・まあいいや、今言っても全否定されそうだから。ただね、あんたがそーいうおじさま好みなら、あの船長さんにそのうち落とされちゃうんじゃないかってちょっとそう思っただけ。」
 「きみはまたそういうことを・・・。船長閣下は国王陛下よりいくら何でも少々お若いよ。それにきみ、どうしてもあの方がわたしをどうこうしようと思ってらっしゃると言いたいようだがね、それってずいぶん失礼だと思うよ、前にも言ったけど。洒落気があっていろいろふざけてみてらっしゃるだけさ、そこのとこ汲まなきゃ。」
 「おや、ずいぶん庇うんだな。」
 「庇ってないって。きみこそ何だ、おかしな心配ばかりして。もしかしてきみの方こそ何か問題があるんじゃないのか。」 
 「問題ねえ・・・。」
 「あれば聞くぞ、この際。遠慮はいらない。」
 「親友だもんな。」
 「そのとおり。クドロでも何やらトラブル起こしていたようだし、きみもどうやらそれなりに、厄介事と無縁というわけではないようだよな。ま、大いに考えられると言えばそうだがね。」
 「・・・?」
 「なんだなんだその顔は。やな男だな、女性泣かしといて記憶にもないか?クドロで一緒だったひとだよ、お酒飲んだあとで泣かせてたじゃないか、どうなってるんだきみ?これはどうも大した手くせの兄さんと知り合いになってしまったかな?」
 「・・・クドロで?」
 「・・・おい頼むよ。まさかきみ本当に・・・。」
 「クドロ・・・クドロ・・・あ、あー。」 
 突然合点がいったぞと声をあげたアルソルヴェは、すぐに少々ばつが悪そうな顔になってうなづいた。
 「あんたに会った時ね、坂んとこで。」
 「そうだよ勘弁してくれよ。女性を粗末にする男とは親友解消だぞ。」
 「粗末になんかしてないよ・・・あれね、あれさ、俺今でもよくわかんなくって・・・だって急にあんなことになるからさ。何で泣いて行っちゃったんだろ、なあ?確かに気にはなってたけどすぐにロロディア様追っかけることになったから・・・。」
 「何で泣いちゃったんだろな?ってわたし知らないよ。何か悪いことでもしたんだろ。」
 「悪いことって何だよ、俺ほんとになにも・・・。」
 「へへえ。」
 「信じてないだろ、あんたってばさ。や、あの人とは実はたまたま知り合ってさ・・・。夜中にレンダ城の周りうろついて実地調査やってたらあのひとが妙な壁の途中から出て来たんだよ。へーこんなとこに内緒の扉がね、と思いつつ隠れたままやり過ごして辺りを窺ってたとこに悲鳴がしてさあ。急いで行ったらあのひとが刃物突き付けられてて慌てて助けに入ったわけ。
 で、そのまま彼女腰が抜けてたんで落ち着くまでそこらに座り込んで話してさ。それで少し親しくなったんだよね。彼女は年期勤めのお城の侍女でとかまーそういう話。で、彼女がどうしても何かお礼をするって言ってくれるから、ちょっと図々しいかなと思いながら城の中のこと聞いたりして・・・いくつか俺の尋いたこと調べてみるからもう一度街で会おうって向こうが言うんで、じゃあ今度外出日にってそれがあんたに会った夜。
 和やかに話してさあ・・・そりゃあもう俺は感謝して・・・城まで送るって、それで店出たんだけど、彼女、何かあっちの方に行ったんだよ。最初は彼女の方が道知ってるだろうから近道かなと思ってついてったけど、どうも明らかに城から離れるから、あの路地で呼び止めたんだね。もう遅いから帰ろうって。それでも彼女が帰らないって動かないからさ・・・戻んなきゃだめだよ時間でしょうって・・・そしたらまあ、あんな感じ。」
 「・・・。」
 「・・・俺、なにかいけなかった?」
 「・・・やな男だ、きみってば。」
 リリュレはすっかりもう見放したというふうにまた首を振った。
 「なんでさ、俺ホントに何もしてないぜっ。」
 「何もしないからいけないんだ、この鈍感っ。」
 「なんだなんだ、したから悪いとかしないから悪いとかどっちなんだっ。」
 「場を読めっ女心のわからん奴め。きみもしかしていつもどこでもそうなのか。ものすごいはた迷惑な奴だぞそうだとしたら。下手に愛想だけはいいからな。」
 「誰がはた迷惑だ、わけわかんないぞ。そもそもあんたにだけは鈍い奴扱いされたかないもんだ。」
 「わたしのどこがっ、少なくともきみなんかよりわたしの方が立派なナイトだ、称号はないけど。まったく今後きみにしばらく若い女性と話をしてほしくないね、被害者が増えるばっかりだ。逆の意味で女の敵だよ。」
 「女の敵?ひどいこと言うなあ、どうしろって言うのさ、ちょっと教えてみろよ。そりゃああんたは女性にもてるよな。」
 「わたしやだっ、船長さんかイゾルさんに聞いてこい。そういやネルだってきみよっかいくらかましかも。」
 「わーすごい言われよう。」
 アルソルヴェは不満気に肩をすくめ、リリュレはやれやれという顔で行く手を見遣った。
 「そろそろ道が上るな。」
 「出口か。」
 「そう・・・きみの鍛え直しはとりあえず後回しにしてここからは集中だ。外の様子がよくわからんがおふたりたちと行き違いにならないようにしないとな。」
 「次の口までは大して遠くない。なんとかなるだろう・・・もう暗いかな。」
 「そろそろな・・・残照がある頃かもしれない。すこし急ぐか。」
 「ああそうだな。」
 アルソルヴェはリリュレと今は並んで、緩やかな坂をやや急ぎ足でのぼっていった。ふたりは同じ方向を・・・坂のむこう、やがて見えるはずの、この通路からの出口のあたりを見つめていた。
 「ああ・・・。」
 「壁だ。」

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 じんわりと宵闇が忍びよる中、不意に感じた人の気配にケイアはぴくりと身を震わせた。地面に座り込んだ彼女の腕の中には、すっかり白くなってしまった顔のクローネが弱々しい呼吸を繰り返している。どうしよう、今からこのひとのためにどうしたら・・・。そればかり考えていたケイアの耳を草を踏む人間の足音がそっと打ったのだ。
 こんな時に・・・まさかレンダの兵士?息を詰めて、クローネを抱いたままそっと振り返った彼女の目に、今度は駆け寄ってくる二人の人間の姿が映し出された。兵士じゃない・・・でも誰だろう。優しそうな男のひとと女のひとだけれど。声を掛けてくれたとしてこの状況を一体何と説明しよう?けれどクローネをどうにか人里まで運び、介抱させてくれるようにはこれで何とか頼めるかも・・・。
 「どうなさったのですか。」
 先にケイアたちのそばに立ちそう声をかけたのは女の方だった。
 「そちらの方、お加減が?ああ・・・ずいぶんひどい、急がなくては。もしよろしければ少し触らせていただいていいですか。少々ならわたし心得があります。」
 「あ・・・ええ、はい。」
 ケイアはうなづき、女はクローネのそばに屈みこんでまず彼女の手をとった。男の方もまた彼女らのそばに立ち、ぐるりとあたりをひと回り眺めて言った。
 「近くには何もない。どこかで手当てしないと・・・。どちらかにお越しの途中だったんですか。」
 「ええ・・・ええ、はい。」
 そこでケイアの脳裏に、連れ去られたふたりの王女の姿が浮かんだ。 
 「急ぎの旅の途中でしたわ・・・。」
 ロロディアちゃん、ミュゼルちゃん・・・。
 らしくなく目の後ろが熱くなり、泣き出しそうになるケイアの横で、しかし女の声がした。
 「これは・・・魔術じゃありませんか。」
 その声にケイアと若い男ははっと女の顔を見た。
 「この方、魔術で打たれたのですね。かなり深い・・・詳しくはわかりませんがとにかく危険な状態です。早く、ゆっくり、いいところで休んでいただいて、できたら魔術で治療するのが一番です。残念ながらわたしにはできませんが・・・。」
 「とにかく運ぼう、龍が呼べるよリリュレ。奴ならもう必ず来てくれる。このところ使いだてしてばっかだから今度お礼しないとな。しかしどこに運ぶか・・・ここから一番近くて龍が近付ける場所というと・・・でも魔術治療ができた方がいいんだろ。となるとヴィルギス・・・は今はだめか。」
 “龍?ヴィルギス?”
 ケイアは、あっと思いふたりの男女の顔を改めて見た。
 “まさか・・・。”
 「あなた・・・ケイアさん?」
 しかし先にそう、ケイアの考えを言葉にしたのは若い女の方だった。
 「リリュレさんと・・・アルソルさん?」
 「そうです、ああやはり・・・ではこの方は?」
 「クローネさん・・・です、助けて下すったの。リリュレさん・・・アルソルさん、ロロディアちゃんとミュゼルちゃんが・・・。」
 「殿下が?」 
 リリュレとアルソルヴェはさすがに表情を強張らせてケイアの顔をふたりで見つめた。もちろん相手をケイアではと思った時からふたりは王女たちの行方を気にしてはいたのだが、あからさまに心配を外に出して、すでに憔悴しているケイアを始めから追い詰めたくはなかったのだ。
 「連れて行かれてしまいましたわ・・・ごめんなさい!ごめんなさいわたし・・・わたし・・・。」
 「大丈夫、ケイアさん、ひとかたならぬご苦労をおかけしていたのはこちらです。あなたには何とお礼を申し上げていいか・・・何があったのです?このクローネさんは?」
 「急ぎますから手短に申し上げますわ。わたしたち・・・」
 ケイアはそれまでの出来事を要領良くかいつまんで正確にリリュレとアルソルヴェに話して聞かせた。
 「・・・ですからリリュレさん、おふたりはもうすでにレンダ城に・・・?」
 「それはわかりません。そのお話からすると何だか・・・。しかし今はクローネさんの治療が先のようですね。姫君たちの件については船に戻って対策をたてます。ヴィルギスの戦況も心配ですね。ケイアさん、魔術治療ができそうな場所をどこかご存知ありませんか。ヴィルギス以外に。」
 「ああ、でしたらレイテミアに。あそこは近い一族ですの。」
 「レイテミア?」
 聞いたリリュレの目の中に、ほんのわずかだがやさしい色の光が射した。
 「ええ。でも本当にそこに・・・」
 「行きます。来ましたよ。」
 そこでアルソルヴェの落ち着いた頼もしい声がした。
 「空からでも道案内願えますか、ケイアさん。俺ちょっと地理に不安があるもんで・・・。」
 「来たって・・・あっ。」
 まだクローネを抱いたまま、ケイアは大きく目を見張った。
 「これが・・・。」
 「ええこれが飛竜。はじめてです?」
 愛想良くアルソルヴェはケイアにそう言って小さく身じろぎをした。それに合わせて巨大な影が、すでに闇が降りかけていた黒い空から、図体に似合わぬ静かさで、そうっと広い草原に着地した。アルソルヴェはケイアからクローネの身体を受け取ると、彼女を抱えて、すでに親しい友となったあの飛竜の背にやわらかく乗り込んだ。ケイアもすぐにあとに続き、龍の背にやさしく横たえられたクローネのそばにまた座り込む。アルソルヴェは彼女の座り位置を指示したあと、自分は一旦龍の背から降りて、前に回って飛竜と顔を突き合わせ、何ごとか小声で龍に話し掛け始めた。
 「じゃ、行こうか。リリュレあんたも早く乗りな。」
 「わたしはここらを少し調べる。それからすぐに船に戻るよ。」
 「すみません、レイテミアに寄ったとしても龍の方が早いです。てきぱき乗ってね、あんたなんか置いていかないよ。こんなとこに野放しにするとまた勝手にどっか行っちゃってわかんなくなっちゃうんだから。これ以上問題増やしたくないね、はい乗った。こいつ四人くらいぜんぜん大丈夫、見てわかるよな。」
 「・・・。」
 結局、四人を背に乗せた大きな飛竜は、ふわりとまた音もなく、すでに星が光り始めた夜空に飛び立った。ゆったりと弧を描き上昇する龍の背で、ケイアはクローネを、リリュレを、そしてアルソルヴェの後ろ姿を順に見た。それはまた、彼女にとっても、まさに夢のような感覚だった。不思議な魔女と、凛々しい女騎士と、そして優しい龍使いと、自分は今夜空を・・・なんと空を飛んでいるのだ。
 “ロロディアちゃん・・・ミュゼルちゃん・・・。”
 そして今、とうとう戦火の下にある、わたしの里、わたしの人々・・・。
 “クローネさん・・・。”
 なんてなんて、多くのものたちが今危機にあることか。ケイアはその重みにまさに胸が潰れる思いだった。しかし傍らにいて夜風に髪を舞わせているリリュレの美しい横顔と、あちらのアルソルヴェの広い背中が、何だかとても彼女の心を安らかにしているのも、一方でまた事実だった。

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