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【陽の人生】人生3度のお絵描きブーム②
理由あってちょっと今週お仕事お休みになったので、その間にこのシリーズをある程度投稿出来たら良いなって思っています。前回の記事に「スキ!」してくださった皆様、本当にありがとうございます。
幼少期〜20代前半までの第一期については前の記事でお読み頂けます。
はじめに
お絵描きが人生のほぼ大半を占め「お絵描き=人生」だった第一期を経て、お絵描きを仕事にして苦しくなって逃げ出し、私は母方の祖父母の介護に行きました。
お絵描きブーム第二期は、私が祖父母の介護中、次年の大河ドラマが三谷幸喜氏脚本の「新選組!」だとテレビでニュースになり始める頃に始まりました。
イラストレーターの仕事で何もかもをすり減らし、宗教と自分と家族との兼ね合いの中で、ストレスもMAXになっていた頃でした。
第二期の始まり
祖父母の介護のため、私はイラストレーターとしてお仕事させて頂いていた各方面へ「一身上の都合でお仕事を一旦辞めさせて頂きます」と、簡単なご挨拶のみで、引継ぎが必要な仕事は同業者に土下座の勢いで押し付け、一人暮らしのアパートを引払い逃げ出すように祖父母宅へ引越していきました。
祖父母宅に住み込みで介護を始めました。祖父は寝たきりになったばかり、祖母は私達家族が思っていたよりずっと認知症が進んでいる状態でした。
祖父母の家があるのはかつて3年間通った高校のある地域でした。
そこには、仲の良い友達がいました。
彼女は大学進学のために東京へ進出、東京で同人活動を開始、元々実力のある子だったので当時の流行ジャンルでめきめきと頭角を現しあっという間に壁サークル、漫画家デビュー、という華やかな経歴を持つ子でした。
たまたま地元に帰ってきていた彼女と数年ぶりに再会し、そうした話をワクワクと聞きとても楽しい時間を過ごしました。
私がうだつの上がらない底辺イラストレーターとして鬱々とした数年間を送っている間、友達は東京で華々しい活躍をしていたと聞き、もしかしたら、普通は比較したりして落ち込んだりするものかも知れません。
ところが、自分の実力を直視出来ていなかった脳天気な私はこう考えたのです。
私も本気で同人誌を描いたら、人気になって漫画家になれちゃったりするんじゃないの?
正直、アホです。
でも本気でそう思っちゃったんですよね。身の程知らずと言うか世間知らずと言うか、とんでもない脳天気なところがあるって、今は自覚出来ているんですが、この頃は何も自覚出来ていなかったし自己分析も出来ていませんでした。
高校時代でさえ、友達は私より上でした。私は常時中くらいをウロウロしていましたが、友達は常時上位レベルでした。
その友達が大学受験のためにデッサンの勉強をものすごく頑張り、何冊も「求められる」同人誌を出し続け、壁サークルになり、商業誌への切符を手に入れたのです。
今思えば、友達との実力の差は、始める前から雲泥の差でした。
少し漫画が描けるから、と家族を始めとする周囲の人達にチヤホヤされ、せっかく絵を描く仕事を始めたくせにイヤイヤながらやっつけ仕事をした挙げ句、家庭の事情を言い訳に逃げ出したのです。
そんな自分が何故友達と同じラインに立てると思ったのか、本当に謎ですが、私も東京に行けばすぐに壁サークルになれるもの、と思ったのでした。
ただ、現実として今は祖父母の家で介護をする日々。東京へ出る予定はありません。流行りのアニメジャンルにも興味はありませんでした。(見ていないわけではなかったのですが)
そこで唯一、当時の私が「描きたい!」と思ったジャンル。それが、次年大河ドラマになるらしい新選組でした。
かつて、第一期で「ファンロード」に掲載して頂いた同人誌も、実は歴史ものでした。
小学生の頃に親戚のお姉ちゃんが持っていた新選組少女漫画「天まであがれ!」(木原敏江)をこよなく愛し、中学生の頃から司馬遼太郎にハマり散らかしていた私にとって、これはチャンスに思えました。
大河ドラマが始まる前に、ある程度の作品を発行しておかなければ!と、慌てて準備を始めたのです。
壁サークルからプロになった友達と同じ道を辿りたいと思うくせに、選択したジャンルがニッチなジャンルって、どういうこと?!って、私自身がツッコミたい。
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上2冊は沖田くん
薄桃色の表紙は山南✕明里
介護との両立
祖父母は、母を結婚で家から出したあと、長年二人だけで仲睦まじく暮らしていました。
祖母は認知症が進んでいましたが、祖父はそれに代わって色々と家事をしていたようです。娘である母にヘルプを出すこともなかった祖父は、自身も間質性肺炎を患い、随分と病症が進み、痩せ細って身体が言うことを聞かなくなるまで頑張っていました。
私の両親は長男長女夫婦で、父方の祖母が寝たきりになって母はその世話をしており、実家に母方の祖父母を呼び寄せるスペースもなければ、その世話のために車で1時間の距離を往復する余裕もありませんでした。
その時の私の心境としては、私が行かねば誰がやる、という心境でした。
グダグダの仕事から逃げ出す恰好の口実にしたのだと、今では思えますが、その当時はヒーロー気取りでした。
アルバイトも辞め、アパートも引払い、祖父母宅に転がり込みました。
祖母の認知症には手を焼き、ストレスも溜まりましたが、祖父は頭もハッキリしていたので介護と言っても楽なものでした。
ただ、私が祖父母宅に転がり込んだことで、祖父は安心してしまったためかすっかり身体を動かさなくなり完全なる寝たきりに、祖母は突然の環境の変化に耐えられず認知症が一気に進んだように思えました。
それでも、週に2回来てくれるヘルパーさんの手を借りながら炊事洗濯家事掃除をこなし、祖父の身体の世話をし、祖父がいれば祖母はある程度大人しかったので宥めつ諫めつ、たまに病院に連れて行き、あとは同人活動を黙々とやっていました。
イラストレーター時代から稼働させていた個人サイトを同人仕様に作り変え、早速漫画を描いて同人誌を発行し、地元のイベントに申し込みました。
高校時代以来の同人イベントに、ワクワクでした。同人誌はこれより5〜6年前くらいまで発行していたのですが、足を運ぶイベントは10年ぶりくらいだったかと思います。
地元のイベントには2回くらい参加したような気がしますが、祖父母のこともあるのでやはり頻繁な参加は難しかったような覚えがあります。
そんな私が主戦場としたのは、個人サイトでのネット通頒とコミケの委託コーナーでした。
まだpixivやTwitter(現X)はなく、同人活動と言えば個人サイトが隆盛でした。
あのオタクの祭典コミケでは「委託コーナー」というコーナーが設けられており、地方で活動する同人作家の同人誌を委託頒布してくれていました。(現在では終了したサービスのようです)その節は、本当にありがとうございました。
たっぷり詰め込んだ段ボールが小さくなって帰って来るのは(無くならない辺り…)とても嬉しかったです。
手応えは、と言うと、そのジャンル内作家としてはそう悪くはなかったのではないか?というのが、振り返った感想です。
例の友達は人気ジャンルで大手として3000部を頒布する実力に比べて、私はと言えばまず100部出版して数回のイベント出展と通頒で無くなれば御の字でした。
それでも「新選組」というジャンルの中でも、人気のBLカプではなくノーマルカプもしくはオールキャラを扱っており、その条件の中では、コミケにも赴かない地方在住でありながら充分に健闘していたと思います。
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自信にもなり、とても楽しく充実したお絵描きブーム第二期を謳歌していました。
その矢先、祖父が亡くなりました。
折しも、大河ドラマ「新選組!」では粛清に次ぐ粛清が行われ、爽やかな結成期から血で血を洗う激動期へと放送内容が移り変わる頃でした。
大河ドラマの時間になると「おーい!新選組、始まるぞー!」と呼んでくれる祖父の声が無くなり、私は大河ドラマを見るのをやめました。