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麻雀が悪者にされる理由を考える

 近年、麻雀はその性質や影響を巡って様々な議論がなされているが、中でも『麻雀を子供に教えるべきではない』という意見があって、賛否両論繰り広げられている。そういう中、言葉じりに噛みつく人まで出てきて、議論のフォーカスも歪んでいるようだ。

 そういう議論を見ていると、当事者の価値観が優先されることが多く、十分な情報が不在の中で水掛け論になっているような気がしてならない。
 じゃあ、おまえはどうなんだ?と言えば、親が子供の小遣いで麻雀マットを買ってしまうような家庭で育った私でも、一応、”社会常識人”として一般的な生活ができている(自称)ので、人生経験を基に議論しているなら、「どっちでもいいのではないでしょうか」というフラットな気持ちである。

 時代背景もあって、昭和に育ったものとしては、(我が家では)麻雀はトランプと感覚的には変わらない。
 今こそ、ネットが普及して娯楽の幅や方向性が大きく異なる中、昭和のおじさんには、近年の考え方に相容れないものがあるだろうから、世代の異なる者同士で価値観ベースに議論を戦わせても、双方納得できるような結論を得ることは難しく、世代間や価値観が異なる者同士の溝を深めるだけになるような気がする。

 時々、麻雀は悪者のような扱いを受けて、ある種のいじめを受けている印象も感じる。批判される他の娯楽もあるので、麻雀に限ったことではないが、麻雀が議論の対象になる場合に知っておくべき情報もあるように感じたため、少し情報を整理しておきたい。


麻雀だけが悪いのか?

 麻雀が批判されるのは、麻雀が魅力的である反面、魅力に惹かれた際のリスクや影響が想像しやすいところだろう。良く言われるのは「ギャンブル性が高い」「時間を浪費する」「運だけのゲーム(運ゲー)」「耽溺性たんできせい」のようなことだ。
 漫画や映画で描かれているようにギャンブルの道具としてのイメージは、健全性や品性に欠いたものが多い。歴史的な背景もあり、麻雀の負のイメージは多くの人の既成概念として定着しているのかも知れない。
 麻雀をプレイしたことがある人ならば、絵合わせのような要素から、運ゲーであったり、自分自身を成長させる要素の低さから時間の無駄と考えるのも理解できる。

これも1つの意見。色々な意見があることを知る。

 ただ、麻雀だけが特別に批判されるのは不公平だ。他にも批判されることがある娯楽は存在し、それらも運要素やギャンブル性を持つものがあるではないか。逆に言えば、運要素やギャンブル性を好む人がいるからこそ、人気があると言っても良い。
 麻雀が名指しで批判を受ける前にまわりにも目を向けてみたい。麻雀の近縁の娯楽としていくつかを挙げて、それらの「運要素」や「ギャンブル性」を整理してみることにした。そして、それらと麻雀を比較検討してみた。

 まず思いついた娯楽を表1にまとめてみた。「宝くじ」や「カジノ系のゲーム」は、運もギャンブル性も最高ランクにしてみた。また、これらの要素が低い相対的な競技は「チェス・囲碁・将棋」にしてみた。

表1 主な競技の運要素とギャンブル性

 他にも娯楽と言われるものはあるだろうが、これらを並べた時に「麻雀」は、運要素やギャンブル性を持つものの、幾分 ”擁護” できる部分もありそうだ。言い換えれば、これらの中で「比較的中ぐらい」という部分が、麻雀に賛否両論を生み出しやすい絶妙な位置づけなのかも知れない。

麻雀の生産性

 麻雀の良い面を挙げながら、反証的に”擁護”していきたい。表1で挙げたように麻雀は運要素やギャンブル性は低いとは言えない。一方、麻雀を知っている人であれば、麻雀は運だけでなく、戦略やスキル、判断力が重要な要素になり、戦略を練ることで論理的思考力や判断力が向上する可能性がある。
 しかし、運の影響も大きいため、麻雀そのものが生産性向上につながるかどうかは個人次第だとも言える。すなわち、麻雀への取り組み方で単なるギャンブルや時間潰しの道具になるか、戦略性を楽しむ娯楽になるか、表1で示した内容は個々人で印象が異なってくるのかも知れない。

 麻雀が持つ「良い面」にも注目しておきたい。よく言われることを挙げると「効率的な思考」というものがある。「何切る問題」や「牌効率(牌理パイリ)」で習熟された効率的な思考は、日常の生活においても判断を要する場面でより良い選択を行う能力を高めると思われる。同様に最善と思う選択に潜む ”他家への放銃”ということから「リスクマネジメント(リスク管理)」の能力を養うことができるかも知れない。
 そしてリアル麻雀であれば、対面での駆け引きや押し引きのような「コミュニケーション」の能力も求められるだろう。その延長線上には「人間関係の構築」にも至る可能性がある。
 また、運以外の要素には、研究の材料として、研鑽けんさんの余地があることから、好奇心、向上心、探求心が刺激され、生き生きとヒトとして活性化されるだろう。この活動は、麻雀が持っている運の要素を下げることを期待できるので、確率的に麻雀の競技性をより高める努力として正しい方向性だと言える。

麻雀は時間を浪費するか

 麻雀は時間を浪費する。終了する時間を決めていなければ、長々とプレイし続けてしまう魅力がある。浪費した時間の”価値”ということであれば、人それぞれであって、単に麻雀が時間の無駄と言い切るのは早計だと思う。スマホやゲームや、読書や音楽鑑賞でも、人生の時間を使った活動であって、使われる時間に対する価値観は人それぞれなので、麻雀を時間の無駄と干渉することは、いち麻雀ファンからすれば「ほっといて」という気持ちだ。
 しかし、読書や音楽鑑賞などが、麻雀のようにはっきりと「時間の無駄」と言い放たれることは比較的少なく、麻雀が持つイメージがそうさせているのかも知れない。麻雀はいじられやすいのである。
 また、麻雀が持つ運の要素により、負けたときには「運がなかった」と言い訳することができる。そのため、自分自身の基本的な実力不足を認識しなかったり、麻雀力を高める必要性を感じなかったり、逆に麻雀をやめようと思う挫折感を抱きにくい。そして、大した反省をすることもなく漫然とプレイを続けるため、自分自身が成長しているのかわからないまま、単なる単純作業としての麻雀に人生の時間を浪費する危険性がある。

麻雀を取り巻くイメージ

 健康麻雀やMリーグのような麻雀の健全性や認知の向上を進める地道な活動があることを忘れてはいけない。しかし、先に述べた歴史的なギャンブル性もさることながら、麻雀界隈のイメージとして、健全性が先に挙がることは少ない。
 麻雀界自体が健全かどうか、個人的には疑問があって、独特の空気感は排他的でもあり、内輪ウケ、パターナリズム、精神論のようなイメージが拭えない。他人の打牌を批判したり、打ち筋から人格批判をする者も散見され、まるで他人が楽しんでいる音楽を否定しているような錯覚さえ覚える。例えば、野球のプレイを野次って良かれと思って選手を叱咤激励しているとしても、その域の者であれば、野次るレベルより高い次元で問題解決を図っている。単に気分が悪い。
 そう考えると、他者の努力やパフォーマンスに対して、認める部分、褒める部分、応援する部分、そういう文化の醸成が足りていないかも知れない。特に昭和世代の人間は、自身の責任の伴わない他者への無責任な批判については気を付けた方が良いと自戒している。

これも1つの意見。色々な意見があることを知る。
これも1つの意見。色々な意見があることを知る。

競技としての麻雀

 麻雀をプレイしている人の全てが必ずしも競技性を意識している訳ではなく、ある程度のレートで他者と勝負していたり、娯楽の一環として楽しんでいる人も多いだろう。
 競技性を意識すれば、上記にあるように運の要素を技術でカバーすべく、場の展開を読む力、素早い牌効率の思考、点数管理、駆け引き、など対応すべきポイントは多い。日々研鑽を積んでいる麻雀プロのような人であれば、長期的な視点に立てば、熟練者と初心者では麻雀力の差は運の要素を超えていると思われる。

麻雀は絵合わせなのか

 先に述べたように、麻雀では捨て牌の選択、相手の動きの読み、手作りの進め方などでリスクを管理する能力が求められる。運任せの「絵合わせ」では、こうしたリスク管理の要素は存在しない。
 また、麻雀は4人対戦で行うゲームのため、他のプレイヤーの意図や手の進行を読むことが必要になる。相手が何を狙っているか、どのタイミングでリーチをかけるかなど、心理戦駆け引きが勝敗に大きく影響する。「絵合わせ」では、対人戦の駆け引きの要素はほとんどない。
 さらに麻雀では、経験やスキルのあるプレイヤーは、運に左右されにくい結果を出すことができる。確かに運が影響する場面はあるが、長期的に見れば実力が結果に反映されやすいゲームだと言える。「絵合わせ」は運が全てであり、スキルが結果に大きく影響を与えることはない。
 麻雀のルールは非常に複雑で、役作りや点数計算、リーチやフリテンといった特殊な状況判断が必要になる。このため、プレイヤーは戦略的思考を磨きながらゲームを進める必要があり、これが麻雀の魅力でもある。運に頼る「絵合わせ」では、こうした複雑なルールや戦略の深みはない。

 一方、麻雀が「絵合わせ」と見られることがあるのは、確かに運の要素が見た目上大きいためだ。たとえば、どの牌をツモるかは完全に運次第であるし、初心者にとっては役作りも運に頼る部分が大きいように感じるかもしれない。また、短期的には運が勝敗に影響することがあるため、「運ゲー」として扱われることもあるだろう。

統計的な観点が示唆する絵合わせとの視点

 統計学者が麻雀を「絵合わせ」と批判する理由には、ゲームにおける運の大きな影響を強調している可能性がある。統計学者は、ゲームの結果が偶然かスキルかを分析し、麻雀のようなゲームではツモ(引く牌)や配牌(最初に配られる牌)といった運の要素が、結果にどれだけ影響するかを数値的に捉えることができる。そのため、短期的な観点では麻雀が「絵合わせ」と見なされる可能性があるが、長期的にはこの批判には反論できる側面もある。

 麻雀では最初の配牌やその後のツモ(牌を引く行為)が完全にランダムであり、プレイヤーはこれをコントロールできない。統計学的に見ると、これらの要素が勝敗に与える影響は大きく、特に短期間の対局では運の要素が勝敗を左右することが多いため、統計的には「絵合わせ」と捉えられることがある。
 統計学者は、多くの場合短期的な結果や個別の対局を分析する際に、運の要素を強調する傾向があると思う。麻雀の1~2局の対局では、たとえ優れたスキルを持っていても運が悪ければ負ける可能性が高いため、「運ゲー」や「絵合わせ」という結論に至るかもしれない。

 また、統計学ではサンプル数が非常に重要で、短期的な結果はスキルよりも運に左右されやすい。麻雀も同様で、少数の対局での勝敗は運が大きく影響する。しかし、長期的な観点で数百局、数千局という試行を重ねると、スキルが勝敗に影響を与える割合が高くなる。
 統計学者が「絵合わせ」と批判する背景には、短期的な偶然性の影響を重視していることが大きいが、麻雀のスキルや戦略が結果に与える影響を無視するのは片手落ちだと思う。麻雀は、運が悪くてもリスクを管理し、相手の手を読むことで結果を制御する要素がある。
 統計学者ならば、期待値(長期的な平均的な利益や結果)を重視するだろう。スキルのあるプレイヤーは、どの場面でどの選択をすべきかを正確に判断し、期待値を最大化することで、運の影響を最小限に抑えることができるものだ。
 さらに麻雀はスキルと運が複雑に絡み合っているゲームだ。スキルが結果に与える影響は、運任せのゲームとは異なり、プレイヤーの判断が勝敗に直結する。統計学的に見れば、短期的には運が大きな要素かもしれないが、長期的に見るとスキルが支配的になるという側面を考慮すべきだと思う。

 すなわち、統計学者の批判は、麻雀の偶然性(運)の要素を強調するもので、特に短期的な結果に基づいていることが多い。しかし、長期的な視点で見ると、スキルや戦略が結果に大きく寄与し、運の影響を抑えることができるという事実もある。
 したがって、「麻雀は絵合わせではない」という意見もまた正当であり、スキルを磨き長期的に勝率を上げることができる競技であるという見方が妥当だと思う。

麻雀が上手いヤツは仕事ができるヤツ

 これは私の持論かも知れないが、麻雀が上手な人は、サラリーマンのルーチン業務には向いているように思う。ベースとして、牌効率のような効率性の考え方や、リスクマネジメント(リスク管理)、コミュニケーション力(対人調整力)のような麻雀の要素は、一般のルーチン業務にも通じるように感じている。一定の型に帰属する限定的な展開を手順化して、適格に業務を遂行する姿は、まさに定型業務のプロフェッショナルと言える。
 しかしながら、麻雀のスキルはルーチン業務には強いものの、予測不能なイレギュラー対応や、創造性が求められる業務においては、必ずしもその力が発揮されるとは限らない。
 麻雀は確率と計算を基にした合理的なゲームだが、業務の中には、そうした数値や理論では片付かない「人間臭さ」や、突発的な問題解決力が要求される場面がある。麻雀の要素だけを考えた場合、麻雀が得意な人であっても、柔軟な思考や想像力を求められる場面では苦戦することも少なくないかも知れない。

子供に麻雀を教えるか

 これらを踏まえて、近頃話題になっている「子供に麻雀を教えるか」について考えてみたい。冒頭で申し上げた通り、私自身の考えは「どっちでもいいのではないでしょうか」というフラットな気持ちだ。
 麻雀を我が子に教えてしまうことで、良からぬ方向へ進んでしまうリスクを想像して、そのような要素を近づけない(わざわざ麻雀を教えない)という選択は、麻雀に限らず、親として正しい。親は子供に対して責任がある。家庭によっては、子供になるべく甘いものを与えないようにして、虫歯や体重増加、甘いものへの習慣化などを回避するようなことがあるかも知れない。
 麻雀を教えることに関して、将来の影響を考慮すべき点はいくつかある。まず、麻雀は戦略と計算力を鍛える素晴らしいゲームだとは思うが、ギャンブル性が高いため、金銭や時間の浪費につながるリスクはあると思う。子供に麻雀を教える場合、そのゲームが単なる娯楽ではなく、金銭を賭けた競技としての側面もあることを一緒に伝えるのが大切だと思う。
 親が甘いものを制限するように、麻雀の遊び方や頻度を制限することは、依存症や過度な賭博行為を防ぐための有効な手段だろう。例えば、勝敗に過度に執着しないことや、負けた時に感情をコントロールする術を教えることで、精神的な健康を守ることができるかもしれない。また、麻雀をプレイする時間を適度に制限することで、他の学業や社会的な活動への影響を避けることができる。
 さらに、金銭を伴うギャンブル性は、子供の金銭感覚にも悪影響を与える可能性がある。将来の金銭管理の習慣にもつながるため、麻雀のようなギャンブル性のある活動は慎重に指導すべきだろう。
 ただ、親として、これだけのケアと熱意を持って、麻雀を子供に教えることや、その結果責任を取ることの重荷を担うことは、多くの親御さんに取って難しいのではないだろうか。その責任回避を麻雀の素性すじょうのせいにすることは、麻雀の“イメージ”から簡単なのかも知れないが、いささかフェアでは無いようにも感じている。

私自身の麻雀観

 子供の頃の私は麻雀をトランプと同じような感覚で捉えていたと思う。麻雀に似た”牌”を使った玩具であるドンジャラや、当時1980年前後にNEC製の家庭用パソコン(マイコン)を使って、簡易な麻雀ゲームをプレイすることにも、特に抵抗はなかったし、それを親が止めることもなかった。私の親は放任だったように思う。麻雀自体は、自分で覚えたのか、教えてもらったのか、とんと覚えていない。
 そんな昭和時代に「子供に麻雀を教えるか」という議論は(少なくとも私の家庭には)無かったのではないだろうか。当時でも麻雀は賭け事の道具として認識されていただろうし、麻雀プロというのは、「〇年間無敗の男」のような強面こわおもての人物が就く職業のイメージだったと思う(偏見も相当ある)。
 それでも、賭け事としての歴史や現状はあるにしろ、だから麻雀を子供に教えないという、時代背景や家庭環境ではなかったかも知れない。我が家は、当時のマジョリティである「ザ・ドリフターズを観ても良い家庭」だったので、特に邪魔が入ること無く、自然と麻雀を覚えてしまっていたのだろう。

結論

 最後に、麻雀を一方的に悪者にするのではなく、もっと広い視点で多様な要素を考慮した議論が必要であると思う。麻雀に限らず、ゲームや競技の持つ影響は多面的であり、単純に「教えない方が良い」という結論に達する前に、その考えがどこから来ていて、その他の要素との考えが矛盾していないかなど、様々な角度からの検討が必要だと考えている。麻雀に対して、そのような丁寧なプロセスは望めないのかも知れないが、”麻雀”を名指しで題材に取り上げるのであれば、それをパチンコや将棋などに置き換えて、落ち着いて考えてみたら良いと思う。

おしまい











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