麻雀のセンスを冨永ボンド風に考察してみた
先日、たまたまですが、何気にかまいたちと指原莉乃さんの「超無敵クラス」(日本テレビ)という深夜番組を観ていました。そこで冨永ボンドさんという現代アートの作家の方が紹介されていて、すっかりファンになってしまいました。
冨永ボンドさんは、表現のツールに木工用ボンドを画材にして作品を創造する前衛的な作風で、その斬新さもあってか、SNS上で”否定・非難”されることもあるようです。その番組の中では、SNSでのアンチコメントに対する返しが秀逸だなと感じましたので、抜粋してご紹介したいと思います。
自分の作品に寄せられた「落書きで草」というアンチコメントに対して…
すなわち「落書きで草」という言い分に対しては、特に相手にされるわけでもなく、それはあなたと私はセンスが合わないということを言われているのだと思います。”落書き”とは冨永ボンドさんの作品に対する揶揄でしょうが、それは根拠のない”否定・非難”であって、冨永ボンドさんにとっては”別にどうでもいい”と考えておられるのだと思います。
すっかり冨永ボンドさんのことが気になり、Twitterも拝見しました。
Twitterの中ではたびたび ”センス” という言葉が出てきます。
センスはひとりひとりが違うものであって、いろんな意見があって良いということです。また、アートには70億通りの正解があるとも言われており、それぞれ個々人で「好き」「嫌い」があったとしても、他者を自身の美的センスに引き摺り込むことには否定的でいらっしゃいます。
麻雀のセンスって?
悪いクセかも知れませんが、すぐに麻雀に置き換えてしまいます。「はて、麻雀のセンスってなんだろう?」と。
麻雀のセンスとは何かを想像しますと、牌の切り方や手作りの手順、他者との駆け引きの上手さのことを言ったりするのかな?と考えました。しかし、アートには70億通りあったとしても、麻雀の牌という世界の中に70億通りもの選択肢があるでしょうか?
すなわち、70億通りの選択肢がないと思われる麻雀には”センス”は問われないのではないか(センスは関係ない)と感じました。上記のツイートで解釈すると麻雀はセンス(アート)ではなく、デザイン(≒誰もがすぐ真似できるもの)ということです。
麻雀はオペレーションの世界であり、「新 科学する麻雀」のようなマニュアルを如何に身に着けるかの勝負なのかも知れません。それは思考の機械化であって、ハイレベルの勝負において究極的な麻雀の実力差とは、やはり ”運” ということなのでしょう。
麻雀で落書きは認められない
麻雀の牌を自模って捨ててを繰り返す場合、手牌14枚を切るのに14種類の選択があると思いますので、流局まで仮に18牌を自模るとしたら、14の18乗の選択肢があると言えるかも知れません。
したがって、70億通り以上のアート(センス)があるとしても、麻雀は役を作ることがゴールですので、アートと違って、あがれなければ(戦略上あがらない選択肢を含めて)、麻雀としては成就しないということの方が多いため、逆説的には麻雀で牌を切ることは、やはりセンスというものではないと解釈しました。
麻雀はアートではなく、センスで打つものでもなく、実は多くの麻雀打ちは ”デザイン” を十分習得(勉強)できておらず、定型的な単純作業を繰り返し、一旦負け込みだすと、実は習得前の段階であるにも関わらず、 ”運” が悪いと嘆くのかもしれません。
おしまい