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読書日記(20240503)〜「少年A この子を生んで」/しんどい。

出産直前によむ本ではない。ただ、図書館で目についてしまった。
神戸連続児童殺傷事件。わたしたち世代にとっては、重たい事件だ。犯人の「少年A」は、ドンピシャでこの世代だったから。そして、当時14歳だったわたしたちは当時の親の世代になった。この本は、「少年A」のご両親の手記だ。

父と母 悔恨の手記 「少年A」 この子を生んで…… (文春文庫 し 37-1) https://amzn.asia/d/7ptIx8B

子どもを持った今、この本をよむと、わたしは親御さんのことを責められない。もし、子どもを持っていなかったときに読んでいたら… 印象が違うのかな。


1.どこにでもいる両親、家族に見えた

少年が逮捕されたのは1997年6月28日とある。もうあれから、30年近く。
当時、地方に住んでいたけど、日本中が大騒ぎになっていたニュースの様子は記憶にある。事件があまりに猟奇的だったから。

日本中を騒がせていた事件の犯人が14歳の少年だった、ということで、夜にテロップが流れた。翌日、学校に行ったら話題になっていたし、教師からも何か言われた気がする(あまり覚えていない)。

そんな「少年A」の両親が手記を出していたことは知っていた。
手に取ったのが、30年近くたった今だった。読んで、怖くなった。
書籍のレビューなど見ていると、「毒親」だとか「文章が下手」だとか「親がおかしい」だの書かれているのだけど、(表現は色々だけども)「特別、育て方がものすごくおかしい両親だとは思わない」という声もちらほら見えた。

正直、わたしもそう思った。
同時期に同じ世代の子ども(わたし)を育てていた自分の親の方が教育ママ、と言われそうな気がした。

もしわたしが当時、この事件を起こしていたら。
「幼い時から習いごと漬けで、塾に行かせていた教育熱心な母親だった」とか、「この子はいつも顔色を窺っていたように見えた」とか、親が責められたんだろうな。と思った。

逆にもし、ほったらかしの親で「鍵っ子」とされている親だったら、「親は仕事をしているばかりで、放置していた(今で言うと放置子?)」といわれるのかもしれない。

確かに、不思議なところも(細部だけなら)ある。一応、乳児期間を超えた子を1人育てたわたしは、一箇所、生まれて数カ月でトイレでウンチさせた、というエピソードに「ん?!」と思った(そんなこと可能だろうか。うちが遅すぎたのかもしれない)、それ以外は、やや心配性のお母さんに見えた。

成長後、ママ同士の子育て観の「合う、合わない」はあるだろうけど、そのレベルではないか。不登校になったりしたとき、児童相談所に相談に行くまでしている。そのことを後悔されているかもしれないけどーー、外に相談を求めた。
それ自体、決して悪いことではないと思う。

2.自分と重ねてみると

少年Aが読んでいた本は、性の違いもあってちょっと違う。
でも、当時、すごく流行っていた「稲中卓球部」が出てきたり、ローティーンのころからヒトラーに関心を持ったりする人は、やや早熟だけど、いる気がする。

中学時代、学校にお薦めされた「海と毒薬」という遠藤周作の本がある。人間を生きたまま解剖する大学病院の事件を描いたものだ。戦争前後の惨禍を描く本や映画は、凄惨なものが多い。なんなら、昔の方がエグい。それでも、お薦めされたんである。

わたしは親になった今も、昔と変わらず未熟だ。
専業主婦で、しっかり3人の子どもを育てていたこのお母さんよりもずっと失格な親かもしれない、と思う。やっぱりイライラするし、起きてくる前に一人で朝、本を読みたかったのに、ものの10分で起きてきた娘に「ああ…」と思ってしまった(そして、テレビを見せちゃった)。。。仕事ばっかりしてたし。

少年Aのお母さん。ちゃんと向き合ったお母さんだったかもしれない。
否、向き合いすぎたのかもしれない。精神鑑定で「厳しく叱られ、虐待され、暗い幼児期を過ごした」と書かれていたそうだ。

親からすると、「そんなふうに受け止めていたの?」と言うところが端々に、手記のなかにある。でも、どこの家族も誰も、日々の子育てを、つぶさにチェックして、暖かくかつ客観的にみてくれるわけない。きっと、みんな後悔ばかりなのに。結果、どうなるかなんて、誰もわからずに、試行錯誤している。

ただ、このお母さんの子どもは記憶に残る事件をおこした。

3.こわい。

今、幼い子どもを育てている。そして、もう1人世の中に生まれ出てくる。
わたしが彼女たちに提供できる環境が、どこまで健全ですこやかなのか。

子育て本のなかで、亡くなった佐々木正美先生の「子どもへのまなざし」と言うのがある。大好きな本だ。

視線があたたかくて、
乳幼児の時は、すべての土台になっている、という。
成績とかどうでもいい。愛されている実感が、その子を強くする。
ドロシー・ロー・ノルトの詩もそうだった。わたしも大好きだ。
こうありたい。

ただ、少年Aのお母さんだって、この詩を読めば「ああそうやわ」とうなづいたんじゃないか、と感じるのも否めない。
もちろん、この本は一方的なものではあるのだが。被害者の方からみた本も読んでみたいと思う。

子育てをしていて思うのは、成長にともなって子どもの社会が広がっていき、親とは別の顔を子どもが他者へ見せていくことだ。父親と母親であってさえ、見せる顔が違うのだ。それが、ときに落ち込みにつながったりする(わたしが言っても聞いてくれないのに、パパだったら聞いてくれるとか)。

「親だから言えない」は、どんどん増えてくるだろうし、「親だからこそ気をつかう」もあるだろう。

ベビーシッターさんや保育園で子ども同士で遊ぶ様子を見て実感したことだ。親だから、つい盲目的にもなる。だとしたら。
やっぱり、人は社会(=関係性)のなかで育てる方が、ときに辛くてもいいのかもしれない。個人主義が進むなか、ときに親とは違う価値観の大人に接して、親が苦しんでも、それを受け入れる勇気が必要だ。

保育園、ママ友、PTA、習いごと、エトセトラ。
「面倒すぎる」というもので標的に上がりやすいけど、子どもと親・親族だけの関係性だけで作っていかないことが、親を助けていくのかもしれない。
わたしより尊敬できる大人たちは、当たり前だけど、この世界にたくさんいる。
そして、わたしができることは、そんなすばらしい人たちと娘たちを繋ぐこと。

共働き環境で、保育園と職場だけの往復でへとへとになってしまう今、「関係を作って育てる」の難しさを、より痛感している日々だ。

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