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【玉葉集】11 為兼と俊成と初子の松と

君が代を野辺に出でてぞ祈りつる
初子の松の末をはるかに

(玉葉集・春歌上・11・藤原俊成)

我が君の治めるこの世界を
野辺に出て 延ばしに出て
私は祈った
この初子の松が永遠を抱くように
我が君の治世の行く末を遙かなものにしようと

 子日の歌では野辺で松を引っこ抜きます。この松は伝統の歌材です。昔から詠まれてますけどバリエーションは広がりません。「年の始めの寿ぎに永久の象徴としての松を引く」という「物語」が強固にできあがってしまったせいでしょうか。
 勅撰和歌集でもあまり扱いは大きくありません。大きくはありませんが必ず取り入れられてきました。例えば新古今和歌集に春歌として入集しているのは藤原俊成の

さざなみや滋賀の浜松古りにけり
誰が世に引ける子日なるらん

(新古今集・16)

さざなみや
滋賀の浜辺の松は
すっかり古くなってしまったなあ
いったい誰の時代に引いた
子の日の松が根付いたものだろう

のみです。
 それが玉葉集では4首。何かそこに秘めた思いがあったのでしょうか。

 さて今回の玉葉集の歌は新古今和歌集の詠者と同じで藤原俊成です。新古今集の歌とは対照的とも言えそうです。新古今集の歌はかつて子の日の松だったものが成長した姿を詠んだものでした。それに対して玉葉集の歌はこれから永遠を生きるはずの小さな松を詠んだものだからです。

 まあそういう発想もあるだろうなという感想しか抱けません。これは僕がまだまだ浅い部分しか見ていないという理由もあるのでしょうが。
 とりあえずさらりと読み流していい歌だと考えておきます。

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