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【玉葉集】8

世ははやも春にしあれや足曳の
山辺のどけみ霞たなびく

(玉葉集・春歌上・8・後伏見院)

世の中はもう
春の季節なのだろうか
足引きの
山のあたりがあんまりのんきでゆったりで
霞がたなびいている

 冬の景色と春の景色が同居していた時はもう過ぎました。
 春が深まります。霞は山中深くまで入り込んであたりを覆い尽くすようです。

 山を霞が覆って春を知らせるという点では拾遺和歌集の次の歌が古いものでしょう。

春立つといふばかりにやみ吉野の
山も霞みて今朝は見ゆらん
(拾遺集・春・1・壬生忠岑)

立春の到来だと
言わんばかりに
吉野山の
山も霞んで
今朝は見えよう

 しかしこの壬生忠岑歌は立春の頃の歌ですからまだかなり寒いはず。霞は立ちますが山には雪が残ることでしょう。
 一方で玉葉集の歌は霞をまとった山の中から冬の気配が一掃されている気配を感じます。その違いはどこにあるのでしょうか。

 こんな問いを立てれば「のどけみ」に目が引かれるはずです。「のどけし」は落ち着いてのんびりしたさま。その語幹に接尾辞の「み」がついて原因理由を示します。
 のんびりした様が霞を呼ぶのです。そんな山にはもはや冬の気配を感じません。

 この「み」を用いた表現も京極派の人々が好んだといいます。心を何より重んじる彼らには似合っている気もします。

 


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