Sの驕り
くだんの店に入ってからも違和感は拭えなかった。
Sの様子はというと、生ビールの注文を済ませるなり、例の”おねいさん”を引き留めて本気で誘惑しているように見える。
評判の映画『スペンサー・オーラムの厄災』に誘っている。
どこか垢抜けない若い女店員も満更でもないような、それでいて抜け目のないような目でSを見ている。
値踏みをしているようだが、もうひと押しかもしれない。
Sの身長が伸びて、生前は、むしろ甲高いほうの声だったのに、やや低めの声になったことについては、納得はいかないが、目の前の現実は動かしがたい。
生前? いみじくも感じているのは、やはりSの肉体は一度死んでいるのだろうと云うことだ。
それで生き返ったのか。
一ヵ月前にSを引き取った大男の身体を使って?
その新しい肉体にSの軽薄な魂を移行したというのだろうか。
それではまるでサイエンスフィクションの世界ではないか。
いつの間注文したのか料理が並び始める。
鰻巻、味噌田楽、南瓜の天婦羅、鋤焼き、踝(くるぶし)の煮付、海豚の竜田揚げ、干瓢巻、菊花の酢物、炙り奈良漬。
Sの好物ばかりだ。
Sは早速とばかりに踝を手掴みにして啜り始める。
旨いよなぁこれ。若い女店員はいつの間にかの隣に座っていた。俯きかげんでSの横顔を見上げながら、汚れた前掛けの端を指で弄んでいる。
なんだこれは。
Sと女店員はすっかり打ち解けて、「Sさんったらいやだわ」「なにかまうものか」「ばかね」などとやっている。
目眩を感じるのは目の前の二人のせいなのか、ビールを切り上げて高級焼酎を生のままで飲み続けていたためなのか。何れにしても酔いが廻ってきたようだ。
こういう場合は腹が立つものだろう。
「Sよ。お前、人じゃないだろう」と、つい口に出してしまった。
ほう。そう言ったSの顔から表情が消えた。だがすぐに戻ると、アメリカのテレビ俳優のように眼をぐるっと回して、それだったのか。いやね。おれも知らされてなかったんだ。お前さん当たりを引いたな。いやむしろ外れか?
「いったいなんのことだ」
Sは質問には答えず、意外に早かったな。もう少し遊びたかった。そうかそうかと頭を掻いて女店員を見る。
胡乱な目でこちらに向き直ったSが言う。
お前もだ。
「何を言っている?」
おれも仕組みはよく知らないけど、お前さんには自我ってものが無いんだよねえ。外からの刺激を蓄え、捏ねくり廻して答えを出す、考えるだけの何かだ。
そんでお前さんとこに大量の本と漫画とビデオを持ち込んで、ええっと、五年ぐらい勉強して貰ってた。
もちろん生体だから、食べたり飲んだり出したりはするね。
「……」
それとね。お前さんには名前がない。名無しさんだ。なので当局に捕まったりしてもらっては困るのだ。
必要な生活資金も定期的に補充していた。まあ働いたり恋人を作ったりするのもちょっと無理だ。
何を勘違いしたのか女店員は赤面した。だが怒っているようにも見える。
「名前? 」そう云えば、誰からも名前を呼ばれたことは無い……確かに小説や漫画やビデオの中の人物には名前がある。Sにさえある。『お前さん』には名前は無い。コンビニやスーパー、本屋、定食屋で名乗る必要は無く、S以外の誰かと親しく話すことも無いので名乗る必要は無かった……
こんな種明かしをするつもりは無かったんだ。お前さんが正解を……その……あれ? 始まったのか。腹が痛い。
椅子を倒して立ち上がったSは、苦痛と高揚が同居したような表情をしている。見るとSの腹部が、まるで腹芸のように波打っている。動きは次第に大きくなっていくようだ。ネルシャツのボタンがひとつ飛んで、味噌田楽の皿に落ちる。
ふふふふ。始まっちゃったよ。もう止められねえ。
はははは。おれは殺生与奪の権を握った。いや生与は無いんだ。殺奪権だな。これは凄いぞ。アポカリプスなうだ。
わははは。おれの周囲10万キロは草も生えない。ち、ちきゅう全部入れても余っちまう。
Sの腹部は波打ちを止めて、少しづつ膨張しているようだった。
Sは耳障りな鼻歌を歌い始めた。
ワルキューレの騎行。
存在を忘れていた女店員が言う。
女店員がいつの間にか構えていた銀色のものが轟音とともに発火した。数回続いたと思ったら、Sの頭が破裂して上半分が消えている。
Sだったものは盛大な音を立てて、料理の上に突っ伏して、残った口に踝の骨が嵌った。
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腹が痛い。始まったらしい。
『お前さん』は第二矢か。
女店員は油断なくこちらの様子を伺っている。
容赦は無いのだろうと思った。
完
第一話『Sの奢り』はこちらになります。
第二話『Sの復活』はこちらになります。
スペンサー・オーラムは映画『クローン』に出てくる主人公の名前。原作はフィリップ・K・ディックの『にせもの』