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境界

「ショコラって呼んであげて」
 店の奥の暗がりから女性の声がする。こちらからは姿は見えないが、歩道で犬を見つけてしゃがみ込んだ私のことは見えているのだろう。
 私は、”ショコラ”の写真を撮り、頭や喉のあたりを撫でてから、店の暗がりに向かって礼を言い立ち上がった。

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 私が訪れたのは寿地区。横浜市中区の扇町、寿町、松影町をまとめて寿地区と云う。所謂、ドヤ街や寄せ場と呼ばれている場所で、ここ寿地区は、日本三大ドヤ街の一つである。
 因みに、扇町、寿町、松影町という名称は明治四十一年の地図には存在していた。古くからある町名である。

 訪れたのは計四回。最初は2019年のニ月、二回以降は四月に訪れた。横浜に住み始めてから二十数年経っている身だが、寿地区は用事が無ければあえて訪れることのない場所ではある。
 なぜ、今、この地区に行くこと意味があるのか。このレポートを書きながら考えてみることにする。

寿地区のメイン通り
「角打ち」の奥に人影
炊き出しを待つ人々
簡易宿のひとつ根岸会館

 宿(やど)転じてドヤであり、肉体労働者向けの簡易宿が密集しているので、ドヤ街となった。
 簡易宿は古いものから新しいものまで相当な棟数がある。いくつか宿の前には料金表示があり、一泊単位、月極めのどちらでも可能のようである。料金を明記しているのは比較的新しい宿で、一泊なら1,500円~1,700円程度、光熱費は別料金で一日100円程度。古い宿なら更に安価と思われる。
 トイレ、風呂、台所、便所は共同で、見かけた例だとひと月で55,000円になる。これなら郊外の賃貸物件を借りたほうが良さそうなのだが、賃貸を借りるのに必要な、礼金敷金、更新料、保証人が不要であるという点が最大の利点だろう。料金は、仕事に就けず、生活保護を受けられるなら生活可能なはずだ。

モダンな外観の宿もある

 訪れたのはいずれも平日のためか通りを歩く人は多くは無かった。
 二回目の来訪時、一回目に行ったときに目をつけていた中華屋に入った。
 注文したラーメンと餃子を平らげると、店主に尋ねる。「お店はどのくらい前からやっていますか」
「ええと、もう五十年になるよ。昭和四十二年からだから」
「五十年ですか……長いですね。当時と今では、ひとは少なくなりましたか」
「六千人ぐらい居るそうだよ。でもひと夏で百人ぐらい死んじゃうから、実際のところはわからないけどねえ」
「えっ、百人もですか」
「部屋にこもっているとね」
「熱中症?」
「うん、どうか?……去年なんかこの辺り一日に三回は救急車が来たよ」
 昼時を少し過ぎた時間で、他の客はおらず、店主はなぜか、はにかみながら話してくれた。

 

 店主の話は正確かどうかはわからない。すこし話を盛っているかもしれないが、ただ『話し』として受け入れれば良いと思った。私は、会計を済ませると店を後にした。”ショコラ”に会ったのはこの後のことである。

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 三回目に行ったときに、地区の住民と思われるひとに話しかけられた。ところがこのひとが何を言っているのか聞き取れない。何かを伝えようとしているのだが、発話が不明瞭なのだ。
 わたしは駄目もとで写真を撮ってよいかどうか聞いてみた。すると聞き取れたのが「警察?」という問いだった。
「違いますよ。私は警察の者では無いです」
「警察が$%&#、そんなリュック、$%&#」
 機嫌が悪いようでは無かったのでもうひと押ししてみたが、恥ずかしがっているようだった。しきりに何かを言っているがやはりわからない。
 諦めて立ち去ろうとしたとき、「いいよ」と聞き取れた。
 気が変わる前にすみやかに撮らせて貰った。SNSへの公開の有無についてのコミュニケーションは不可能であった。ゆえに目元をカットした写真をあげている。ハート型の眼鏡のフレームがお茶目なのだが割愛せざるをえない。実は、目はしっかり閉じた状態だった。たまたまなのか、あるいはわざと閉じていたのか。後者であればその意味は何だろうか。想像することはできるが真実を知る機会は無い。

話しかけてきた住民

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 なぜ寿地区のルポを行おうと思ったのか? うすうす気づいていたのかもしれないが言語化できなかった。
    それは恐れだった。ほんの少しのきっかけで仕事や家族を失って、転落してしまうのではないかという不安、いつか自分もドヤ街に沈んでしまうのではないかと云う漠然とした予感めいたものだった。

 仮に私が寿地区の住民になったと想像したらどうだろう。
 おそらくこの地区以外の場所に出歩くことが無くなるのではないか。他の地域に越境するには、心理的な境界を感じてしまう。
 仕事や家族、交友関係などのこれまで培ってきた社会性を失くしてこの地区に入ったのなら、地区の外は取り戻すことのできない社会であり、街のにぎわいに触れるのは辛い。自ずと心理的な境界ができあがるのではないか。
 心理的な境界が喚起される地理は、東は大岡川あたりまで、西は中村川、北は横浜橋商店街、南はJR根岸線なのだろう。
 この境界内が寿地区の住民の行動範囲内に収まるのかもしれない。
 東の境界がやや曖昧なのは、大岡川を越えたところに場外馬券場があるためなのだが、通常は大岡川より内よりの伊勢崎モール止まりと思われる。
 そう思うのは、寿地区プラス周辺の境界外であれば、それこそ何度も訪れている場所ばかりだからである。境界から外れた場所では、寿地区の住民と推定される人々を見かけることはほぼない。
 一度住んでしまうと、地区の中に沈んでしまい、末期を迎えるまで二度と境界の外に抜け出せないという無意識下の恐れを当時は抱いていた。
 私が直視することを避けていた場所、それが寿地区だったのだ。

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 一度目に訪れた時、歩き疲れたわたしは地区に連接する公園で休憩をしていた。
 天気の良い日で、花などの写真を撮り始めると「良い写真は撮れましたか」といつの間にかベンチに座っていた品の良いご老人に話かけられた。
 そこでわたしが寿地区に写真を撮りに来たことを告げると、「20年ぐらい前にボランティア活動をしていました」「そのころはみな気性が荒くてね。怖かったですよ」と、元町で商売をしていたという老紳士はゆったりとした口調で話してくれた。暫し、そこには社交的な交流があった。
 別れ際に、「良い写真が撮れるといいですね」と見送ってくれた。
 いつか、またあの公園を訪れてあの方を思う時間があっても良いはずだ。

 

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廃業した音羽食堂の看板

 最後に訪れた時、カウンターのみで営業してた食堂の女将の言葉を書き留めておくことにする。
「もうこの辺りはね、福祉の街だよ」

〈了〉

 
 
 

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