幻を視る
アメリカのポストモダン作家、スティーブ・エリクソンが一九八九年に発表した『黒い時計の旅』をわたしが初めて読んだのは、二十歳を過ぎたころだったはずだ。当時交際していた女性に薦められて読んだのだ。わたしはエリクソンのデビュー作『彷徨う日々』を先に読んでおり、彼女との会話の中でエリクソンの名が出た折に彼女から薦められたと記憶している。
『彷徨う日々』は相当に難解な小説だったが、ロマンスの要素が真ん中にあるとして読み進めたのでどこかロマンチックなものを感じ、楽しく読んだ。一方、『黒い時計の旅』はわたしが苦手とする世界史が物語を構成する大きな要素になっていたため、テキストを読み解くのに前者よりも難儀した。とはいえ、そもそもわたしは前衛的な表現が好きなので理解が及ばないまでも興味深く最後まで読んだが、感想としては「なんかすげぇものを読んだな」という大雑把なものであった。
その後、わたしは歳を取る中でさまざまな経験をし、今の自分となった。
昨年文筆家の柿内正午がイベントのために弘前に来ていたとき、わたしは彼に「柿内さんはエリクソンを読んだことある?」と尋ねた。わたしはいつも好きな作家にエリクソンの名を挙げているので、よくこの質問をするのである。そしてこの質問をしたときにふと、今の自分が『黒い時計の旅』を読んだらどのように作品を読むのだろうと、疑問が浮かんだ。そういえば、以前読んだのは、同作が絶版だったため図書館から借りていたな、と思い出しもした。その場でスマホを繰り調べると、二〇〇五年に白水社が再刊させているではないか。ということは、わたしは二六歳になる前に同作を読んでいたのか。思い返せば、二十六歳のときにはとうに彼女にフラれているので、時系列が合っていそうだ。
アマゾンから届いた『黒い時計の旅』を再読してみると、わからないことなどほとんどなかった。情報量が多いので細部を読み飛ばしているだろう自覚はあるのだが、それはそれとして、この作品は言うならばデビッド・リンチの映画と同じ論法で作られているのだと、初手で読み方の方向性を持つと、するすると場面をイメージしやすくなった。もちろん、『黒い時計の旅』との初対面を果たして以降、いくつものポストモダン小説に触れていたことも功を奏しているのだが、いわゆる「幻視」の何たるかをリンチから学んだことが、時空を平気で超えてくるテクストの読み解きに最も役立った。
『黒い時計の旅』の序盤ではマークという少年がときどき、自分の存在が「いつ、どこ」とも知れない場所にいるような感覚に囚われる描写がある。
また、同作の主人公格に当たる登場人物のひとり、バニング・ジェーンライトが初めて描写される場面ではすでに彼は死んでおり、その死者の口から延々と物語られる「アドルフ・ヒトラーが死んでいない二十世紀」が小説の背景となっている。
「いつ、どことも知れない世界」はシュールレアリズムでお決まりのモチーフであり、リンチ作品でも何度も表現されている。リンチはその世界をいつも自身が見る「夢」から持って帰ってきていた。余談になるが、神秘主義者のリンチはその夢をたぐりよせるためにメディテーションを行っていたそうで、リンチと同じく神秘主義者のカルト映画監督アレハンドロ・ホドロフスキーの作品に触れていると、スピリチュアリズムがいかに芸術活動に影響を与えているのかがよくわかる。なので、わたしはそういった自己完結ののちに優れた作品を生むスピリチュアリズムに対して、まったく否定的な意見がない。
死者が語る物語といえば、これまたリンチに強い影響を与えたビリー・ワイルダー監督の1950年発表の映画『サンセット大通り』がある。リンチの『マルホランド・ドライブ』は監督自身が『サンセット大通り』の影響をプロモでも公言しており、パンフレットや販促の冊子にも大きく取り上げられていた。
『黒い時計の旅』は現実の二十世紀ともう一つの二十世紀が絡み合う構造になっているが、SF/ファンタジーのようなタームが言語として現れず、とても自由闊達にテクストが時空を行き来する。とはいえ、同作はそのような自由な往来を経つつもいわゆる伏線回収となる展開がしっかりあり、何ページも離れた数行と数行がしっかり呼応している緻密さがある。しかし、その緻密さに気づいて読者が何とか完全読解を目指そうとしても、それを許さないテクストが挟み込まれるのが肝。読者はちゅうぶらりんとなり、物語の中に閉じ込められてしまう。
この小説を読んでいるわたしは、誰が視た幻なのだろうか?
絵画、物語を伴わない映像作品、アニメ作品なども手掛けているリンチであるが、こと劇場用映画に関しては、単純にリンチが視た幻を仔細にビジュアル化していると言い切れるわけではなく、あくまで映画の中の世界の裏を走っているもう一つの世界を登場人物の幻視を通して、あるいは「映画の観客の目線」を通して描いているという言い方ができる。これはリンチが夢を映画に取り込むにおいて、たとえその繋がりが淡くとも、イメージを物語に接続させようとしたい意思があるように思える。イメージとイメージの連なりにある行間を埋めるのはあなただ、といった明確な意図があることはリンチ自身がインタビューなどでも何度も語っている。ちなみに劇場用映画以外の作品はシュール丸出しで、まんま夢、という解釈で落ち着きそうな味わいがある。
『黒い時計の旅』のマフィアとバニング・ジェーンライトが絡むくだりでは、物凄くテンポの良い描写が続く。丁々発止の会話文とアクショナブルな描写はハードボイルドかノワールかパルプかといった風合いだ。エリクソンは映画、小説、音楽、アメコミにも造詣が深いと研究書で読んだ。あれほど難解な作品を紡ぐ作家が日常的にポップ・カルチャー浸かっているのは何とも痛快である。エリクソンはニール・ゲイマンのコミック『サンドマン』が好きだという。ちなみにサンドマンもまたゲイマンの幻視をビジュアライズし、「夢」を題材にした物語である。また、リンチもソープオペラやメロドラマを好んでおり、好きな映画として『ベイブ』を挙げたりするほど、表面的に見ると「俗っぽい」一面がある。『エレファントマン』『ストレイト・ストーリー』ではウェルメイドにメガホンを取ったリンチは、物語の理解の難度の調節なぞ容易いことなのだろうし、エリクソンもまたしかりだ。
先述したように『黒い時計の旅』はSFでもなければファンタジーでもない。便宜的にポストモダン小説という言葉で表すことができるが、冠言葉を付与しないならば、ひとことで「小説」となる。リンチの映画もホラーともファンタジーとも呼びにくいテイストがある。相当な非現実を描いているはずが、なぜか観客は自分の中にある現実を映画から見出してしまう。光と闇があり、美しさの裏には醜さがあり、世界の理不尽にも筋が通るセオリーがどこかで走っており、正義も悪も曖昧で、人は全員がどこか狂っている。このような不安を醸し出すのが、リンチ作品の醍醐味だ。
アート志向の映画監督はその多くが、シネフィルにのみ知られる存在となるが、リンチの名声は大きい。これはリンチの持つポップネスのなせる技なのではないかと思う。リンチが見せる映像、物語はともすれば思わず笑ってしまうものが多い。『ブルーベルベット』の庭から千切れた耳を拾うシーンは見る側のテンション次第では引き攣った笑いを生むし、同作のデニス・ホッパーの過剰な演技もイキきっていてギャグテイストを感じる。『イレイザーヘッド』でもラジエイターガール(このネームセンスがもう面白い)が「In Heaven」を歌うシーンは不気味すぎて笑うしかない。ほかにも『マルホランド・ドライブ』でアンジェロ・バダラメンディがコーヒーを吐くシーンや、なかなかにシリアスなシーンで謎のカウボーイが「ハウディ!」と挨拶をするシーンなど、緊張と緩和を使った相当にレベルの高いギャグが繰り出される。『ツイン・ピークス』は『同 リターンズ』も含めて、油断するとシュールなコント展開がねじこまれるので、リンチのコメディセンスを堪能するのにうってつけだ。『リターンズ』のカイル・マクラクランのアホ姿は刮目に値する。
物を語り、物を語らず、われわれを行間のすきまの囚人にしようとする作家たちの手つきは、ほとんど魔法だ。
キューブリックもJ・G・バラードもルー・リードも逝った。それまでこの世界に存在していた魔法使いが去ってしまった喪失感を今後の人生で何度味わえばいいのだろう。『ツイン・ピークス』がWOWOWで日本初放送された日、当時13歳だったわたしは既に『イレイザーヘッド』と『ブルーベルベット』をVHSレンタルで履修済みで、不気味な世界で飄々と立ち振る舞うデイル・クーパー捜査官の活躍を本当に素直に楽しんでいたものだ。日本の青森県に住む十代の若者にもリンチは魔法をかけることができる。そして、わたしにかかったその魔法は今も解けていない。わたしは幻を視て、幻を描くための旅から逃れられなくなった。その行いが、誰かのつまらない現実を壊してくれることを知ってしまった。
わたしも魔法が使いたい。
こんな風に思わせてくれた偉大なヒーローに感謝を込め、この拙いテキストを捧げる。