プロローグ~「退職します。」~
※ 本作は実際の出来事に基づいていますが、登場人物名や店名、登場する名称はすべて架空のものであり、実在の人物や団体とは関係ありません。
「今月末で退職します。」
その一言が、心太朗(こたろう)の人生を大きく変えた。「…え?え?急展開すぎない?」と自分でも驚くほどのスピード感だった。自由を手に入れた今でも、あの日の出来事は心の中でリピート再生され続けている。「あれ、どこで間違えたんだっけ?」と、何度も巻き戻しては再生するのだ。
心太朗は、仕事を辞めてからの出来事を小説にしようと決意した。まあ、自分の経験を作品にするっていうのは悪くないアイデアだ、ってことで。だが、そんな決意をした彼自身もどこかで「いや、これ本当に続くのか?」と疑っている。それでも「やらなきゃ始まらないだろ!」と、自分に無理やりツッコミを入れている最中だ。
今、彼は思い返している。あの心の中に渦巻いていた感情、耐えがたいほどのストレスフルな日々、そしてそれをどうにかこうにか乗り越えて踏み出した一歩。実際のところ、「あの一歩、もっと早く踏み出せなかったのかよ?」と、過去の自分に対してツッコミたくなる気持ちは隠せない。
***
彼が働いていたのは、イタリアンレストラン「グラッツィエ」。おしゃれなインテリア、本格的な料理、そして連日満席の大繁盛。…って、これ店の紹介文じゃなくて、心太朗にとっては戦場だった。華やかな表舞台の裏で、彼の店長としての日々は「どう見てもブラックやん…」と嘆くことしかできないものだった。13時間にも及ぶ長時間労働、しかも休みの日には職場からの電話がバンバン鳴り響く。「まさか、俺の携帯が店のアラームになってないよな?」と疑いたくなるほどだ。
「もしもし店長、ポスターが剥がれていますよ。どうしますか?」
――どうするかって、そんなもん貼り直せや!ポスターのために休みを潰される心太朗は、心の中で叫んでいた。だが、彼はすでにそんなことを言える余裕すら失っていた。「なんで誰も貼り直さないんだよ…」と、ため息をつくのが精一杯。
ちなみに、この手の職場からの連絡はほぼ香取のせいだ。そう、部下の香取は料理の腕は一流なのに、なぜか「心太朗に面倒を押し付ける技術」も二流じゃなかった。しかも、心太朗が自分より若いってだけで、彼に対する態度がとんでもなく反抗的。「それって大人気ないよね?」と毎回思わされるのだ。
心太朗が上司の山辺(やまべ)からの指示を伝えても、「俺には俺のやり方がある」とかいう、どこぞのヒーローみたいなセリフが返ってくる。いや、今そのやり方じゃないから!と心の中でツッコミを入れるのが日課だ。そして、その度に香取は問題を放置し、心太朗にすべて押し付けられる。「…もう、誰が店長だよ?」と、自分の役割が分からなくなることもしばしば。
当然、その結果、山辺から「店長としてしっかりやってくれ」と叱られる。――いやいや、それ香取の仕事だから!と、叫びたくなる気持ちを抑えつつ、心太朗は黙って頭を下げる。
休日出勤?もちろん、無賃で。それが当たり前の日常だった。「これってボランティア?」と何度自問自答したか分からない。そして、次第にそのストレスは家庭にまで及び始めた。
「俺、こんなに働いてるのに、澄麗(すみれ)は家で楽してるよな…」
――言った瞬間、あぁやっちゃった、と自己嫌悪に襲われる。いや、そもそもその思考が間違ってるんだ、って分かっているのに、つい言葉にしてしまう自分に呆れ返る。
そんなある日、ついに限界が訪れた。電話がかかってきた。「ポスターが剥がれてる」――いやいや、ポスターぐらいで俺の限界来るなよ!と自分にツッコみたくなるが、その瞬間、心太朗はもうどうにもならなかった。
電話を切った後、うつむいたまましばらく動けない。「俺、ポスター一枚に人生持っていかれたぞ…?」と、自分の情けなさに笑ってしまう。そして、顔を上げた時、妊娠中の妻・澄麗の姿が目に入った。
「…もう辞めるよ。俺、これ以上無理だ」
澄麗は一瞬驚いたが、すぐに優しい表情になり、「無理しすぎだよ、コタちゃん。生活はなんとかなるから、体を大事にして」と、彼の手を握ってくれた。その瞬間、心太朗の心は崩壊。「あぁ、俺、全然ダメだ…」と、堪えきれずに涙が溢れてきた。これまで溜め込んでいたものが、一気に崩れ落ちた感覚だった。
泣きながら、心太朗は思った。「俺、どれだけ無理してたんだ…?」と。そして、澄麗への罪悪感と、そんな自分を支えてくれる彼女への感謝が入り混じり、さらに涙が止まらなくなる。もう「ポスターなんてどうでもいいわ」って本気で思い始めていた。
***
翌日、心太朗は山辺に呼び出された。事務所に入ると、いつもの厳しい顔ではなく、少し穏やかな表情の山辺がいた。いや、こういうときって大抵説得されるんだよな、と心太朗は内心構える。
「安川くん、ちょっと話いいか?」
安川とは心太朗の苗字だ。
――いや、もう話の内容は分かってますよね…?そんなツッコミを心の中でしつつ、心太朗は椅子に腰掛けた。
「辞めるなんて、本気か?」
――いや、本気も本気。これ以上本気の決意、見たことないくらい本気です。でも、そんなこと言えずに、「ええ、まぁ…」と曖昧に返すしかなかった。
山辺は続けた。「お前ほど頼りになる奴はいないんだ。バンドしてた頃から見てきたし、何があっても支えてきたつもりだ」
――いやいや、バンド関係ないでしょ?そんなツッコミをしつつも、彼の言葉に感謝の気持ちはあった。アルバイト時代から色々助けてもらったし、確かに支えられてきた。
「俺が引退したら、お前を幹部に推薦するつもりだ」
――いや、幹部とかそういう問題じゃないんです。もう限界なんですよ、と心の中で叫びつつも、表面上は「考えます」と答えた。でも、その言葉には自分でも「もう、これ以上考える余地ないでしょ?」というツッコミが混じっていた。
***
その日の夜、心太朗はふと店の入口を見た。閉店作業をしようと思ったが、本来担当するはずの香取は仕事を残したままいつの間にかいなくなっていた。「あいつ、何も言わずに帰りやがったな…」と、胸の中に冷たいものが流れ込むのを感じた。これが決定打だった。
どれだけ働いても感謝されない現実に、「俺、澄麗よりも香取さんのために働いてるのか?」と考えるようになった。疲れ果てた心は、気づけばもう限界だった。あの日、辞める決意をしたのは、もう他に選択肢がなかったからだ。
***
それからは、まさに地獄の耐久レースが始まった。山辺の説得に耳を貸さず、力強く「退職宣言」した心太朗。山辺もついに「もう無理!」と白旗を上げるしかなかった。その結果、退職日は決まったが、そこからが本当の試練だった。
お盆休み、世間が「連休ばんざーい!」と浮かれている中、心太朗は12連勤という名の地獄に突入。「おい!心太朗!もっと早く辞めとけよ?」と自分にツッコミを入れながらも、12連勤の毎日はまるで「仕事のカーニバル」。体力と精神力がフル回転しっぱなしだった。これは退職までに過労死するのではないかと不安になった。
連勤後の休日には、店からの電話を完全シャットアウトするために、携帯の電源を切る決断。電源オフの携帯が、まるで心の中のノイズも消してくれる魔法のツールのように感じられた。実際はただの着信拒否。
退職まであと数日という頃、台風のニュースが飛び込んできた。「これで出勤日が少しでも減ったらラッキーだな!」と内心で願っていた心太朗。しかし、今回の台風は約束破りの遅刻魔だった。天気予報はずれにずれて、最終的に台風は「行くの止めるわ!」とドタキャン。結局、心太朗は見事に退職まで皆勤賞を達成することに!
引き継ぎの準備も頼んでいたのに、山辺は「後でやる」と言って動かず、他のスタッフも「やりたくない」を貫く。まさに「仕事から逃げるゲーム」開催中だった。「もう知らん!これで困るのは無責任な連中だ!」と腹をくくり、最終日を終えた。
***
家に帰ると、澄麗がまるでレストランのような豪華なディナーを用意していた。ステーキにケーキ、ワインまで!心太朗の目は、まるで子供がクリスマスプレゼントを見たときのように輝いていた。「これ、全部俺のため?」と少し疑いながらも、美味しい料理に舌鼓を打った。
食後、澄麗が取り出したのは手紙。彼女はそれを声に出して読んでくれると言う。
「コタちゃん
長年にわたり、グラッツィエでの勤務、本当にお疲れ様でした。
毎日長時間働いてこれたことをとても尊敬してます。
後半は「しんどい」という事が多く、何よりコタちゃんの身体が壊れてしまわないか心配する日々でした。
それでも朝になると、大きなため息をついて仕事に向かうコタちゃんを見送ることしかできず、何も力になれてないのではないかともどかしく思う毎日でした。
7月末に仕事を辞めたいと聞いたとき、正直ほっとしました。
グラッツィエから離れてほしかったからです。
今日の日まで精いっぱい勤めてきたコタちゃん、本当におつかれ様です。
これからはゆっくりと心と身体を休めて、また一緒に前へ進んでいきましょう!
私はコタちゃんがどんな道を選んでも2人3脚(子供も一緒)で生きてゆきます。
なので安心して進みたい道を歩んでください。
いつもありがとう!そしてこれからもよろしくお願いします。 澄麗」
心太朗は思わず笑顔がこぼれた。澄麗の温かい言葉に触れ、涙が出そうになりながらも、心の中では「これぞ家族の力!」と、うるっときた。澄麗への感謝の気持ちと、彼女と過ごすこれからの時間を大切にしようと、心の中で固く誓った。
そして、次の日からは「無職ライフ」の幕開け。どう過ごすかはまだ未定だが、心太朗の新たな人生が、リフレッシュと共に始まるのだった。
***
心太朗は今、自分の経験を小説にしている。無職になってからのこの2週間は、心太朗にとっての再生期だった。いわゆる「正常な感覚」に戻り、自由な時間ができ、家族の大切さに気づき、ついには本音を言えるようになった。元々の性格がいささか極端だったせいか、心太朗はこの変化を「自分がようやくまともになった!」と大げさに喜んでいる。とはいえ、喜びすぎてちょっとドン引きされたりもしているが。
ブラック企業で働く同士たちや、今まさに無職で苦しんでいる人たちに向けて、心太朗は「元気出るストーリー」を届けたいと思っている。もちろん、彼自身もその先に待つ結末がどんなものになるのかはまだわからない。自己顕示欲丸出しの「日記型」小説にしようと決意したが、正直言って「俺、このままだとどうなるんだろう?」と、内心で不安にかられている。
心太朗は、どうせなら「面白いストーリー」を作ろうと息巻いている。無職になってからは、心の中で「ハッピーエンド」を迎えようと全力で奮闘中だ。彼が目指すのは「無職のススメ」という一見気軽なタイトルの本だが、実際にはその内容がどうなるかはまだ不明。結末のない「元社畜の挑戦日記」として、彼は今まさにその冒険を始めたばかりである。
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