親友の訃報とこれからのピアノ業界について
朝FBを開くと親友の訃報。
人生100年時代と言われる昨今においてあまりにも早すぎる死でした。
まだ人生後半戦。
折り返したばっかりじゃねーか・・・
彼は非常に優秀な調律師で、ピアノ業界、そしてピアノを知り尽くした人物でした。
文化の消滅
時と共に消滅していく文化。
地球上で唯一人間だけが「伝える」という技術を持っています。
ある日猿が突然火の起こし方を発見したとしても、それを「伝え残す」ということはできません。
ここが猿と人間の脳みその最大の違いなのかもしれない。
ピアノ文化というのもすでになくなりつつあります。
現代ではピアノを購入するという選択肢もなくなってきました。
昭和時代は、ちょっと豪華な本棚くらいのノリでピアノを買う時代があったものでした。
ピアノはハイテク新興楽器
そもそもピアノという楽器はボーカルやギター、ドラムのような原始的な楽器とは構造そのものが完全に異なっており、人類にとってはハイテク新興楽器なのです。
MellotronやMoogなどがデジタル化し、楽器そのものが消滅の危機にあるように、ピアノそのものも完全にデジタル化し、消滅してしまう未来だってリアルにあるのかも?と思う今日この頃。
MIDIはアップデートされベロシティなどの幅も増えてきており、最新のサンプリング音源などは決して調律は狂わないし、常に良い音を提供してくれます。
それはそれで素晴らしい。
デジタル化技術のおかげです。
しかし、ピアノという巨大な表現装置とアーティストが一体となるあの感覚、一体となって出てくる音、この芸術を消滅させてしまってもいいのでしょうか。
決して狂わないことは絶対の正義なの?
と言われればプログラマーとしての立場では正義ですが、アーティストとしてはそれが唯一絶対の正解だとは思いません。
バレンボイムがベートーベンを弾けば、ベートーベンの音律に変わる。
なぜかはわかりませんし、解る必要もないのがアートの世界。
でも確かに変わる。
これはデジタル機器では体験できない世界なわけです。
教えてもらったから伝えなきゃ
先日龍笛のお稽古をしてもらった際に師匠がいっていた言葉がすごく胸に響いています。
「教えてもらったからね、残さなきゃ、伝えなきゃ」
誰かがやるだろう。
自分がやらなくても誰かが残すだろう。
みんながそう思って結局消滅間近になってやっと業界みんなで立ち上がる。
時すでに遅しで消滅・・・
なんて文化は人類史において凄まじい数存在していることでしょう。
アートに意味なんてない
意味はないんです。
ピアノ文化、そしてピアノの音を残す、ピアノというアートを残すことになんの意味もありません。
ピアノ文化やピアノの音を伝えるなんてことは、『火の起こし方』と違って人類の生存と生活に必要のない存在であり、、、しかしそんな存在が詰まるところ芸術なわけです。
でも、「教えてもらったから残さなきゃ・・・」
これこそが意味のないアートをアーティストとして歴史に残す活動をする唯一腑に落ちる原動力になるような気がします。
旅立ったピアノ業界のスペシャリストは筆者にピアノの音を教えてくれました。
調律を実践しながらここをこうするとこうなる・・・というレクチャーと、学校では決して学ぶことのできない感性の部分を教えてくれました。
そして何より金田式電流伝送DC録音のスペシャリスト、五島昭彦氏からはピアノの録音方法をみっちり仕込んでもらいました。
この膨大な叡智、教えを無駄にするのか?
ありえないですよね。
教えてくれた人に失礼。
そして、教えてくれた人の師匠にも失礼、教えてもらったものは次にバトンを渡さないと歴史そのものに対して、そして人類という存在そのものに無礼なのではないだろうか。
と筆者は考える。
今の時代、現場にはHow to をすでに完全マスターした人材しか求められません。
目的がHow toマスターなので「学ぶ段階」でそこに感性が乗ることがなくなってきました。
ただ、故松岡氏の調律も五島氏のDC録音もHow to が存在しません。
レシピがないからHow toとしてプログラム化はできない。
さらに言えば、アートに意味はない、だから効率化する必要はない。
意味がないことの意味自体が芸術の真髄なのかもしれません。
「意味がないこと」、実は人類にとって大変貴重な余白部分になるのではないかとざっくり感じます。
まとめ:じゃあなんでアートを残すの?これからのピアノ業界
ホモサピエンスであるが故。
How toのない概念をホモサピエンスとして継承し伝える、この行動理念こそがアートそのものだと言える。
これからのピアノ業界、またみんなが高級な本棚みたいな感覚でピアノを買い出すとか、ピアノ教室が流行るとか、伸びていくことはないでしょう。
そもそもがすでにピアノ業界自体にマーケットが存在していません。
買い手もいなければ売り手もいない状況。
多分このままだとピアノの音は身近な存在ではなくなってしまうでしょうし、しっかり調整されたピアノの音を聴いたことがない弦楽器奏者なんてのも誕生するかもしれません。
デジタルカメラ専門のフォトグラファーが当たり前になりつつある昨今、いつの日か、生ピアノを演奏できないデジタルピアノ専門のピアニストなんてのも当たり前になる可能性だってあります。
文化の変容そのものを否定する必要はありません。
世界中のピアニストが電子ピアノで録音するのもOK。
生ピアノをiPhoneで録音するのも素晴らしいです!OK。
人類の進歩の賜物です。
でもやっぱりピアノの音、そして文化を誰かが残さないといけない。
意味がなくても誰かがピアノの本質的な部分の音を伝えなきゃいけないし定義し続けなければいけない。
デジタルモデリング音源では決して伝えられない。
デジタルサンプリング音源だけでは奏者と融合した音は伝えられない。
誰かがやる。
Kotaro Studioがやります。
いえ、Kotaro Studioもやります。
だってピアノの音を教えてもらったから。
発信は怖い、発言だって怖い。
だって黙ってりゃなにも起こらないんだから。
でもやる。
だって教えてもらったから。
次に伝える。
ありがとう、まっちゃん。
ご冥福をお祈りいたします。