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「CHILLい」に飽きた話。

人は変わるものだ。

去年僕は、自分の音楽のことを「自分史上最高に安らげて落ち着ける空気」と呼んでいた。しかし今は「空気を良くするためのBGM」的な音楽を聞かなくなったし、ましてや作りたくない。

今日は、そんな心の変化の話をしたい。


そもそもCHILLとは何なのか

心が落ち着くこと?
体の疲れが解放されること?
心地がいい、穏やかな様?

なんとなく僕は「CHILL OUT」と聞くとプールサイドなイメージがあったのだが、ググってみたところ

出典:google翻訳

とのことらしい。なるほど、冷蔵庫のチルドみたいな話か。プールサイドっていうイメージは強ち間違ってはいないのか。どちらかというと涼しいっていうより「寒い」「寒気」みたいな意味が、いつしか何か安らぎのある、クールな対象になったのかな。

っていうか、CHILLの意味を改めて調べるの、初めてだった。それくらい、もう音楽だけじゃなく、カタカナ英語としても普及した言葉な気がする。


僕は「CHILLい」アーティストなのか?

そんな前提で、これからの話を聞いてほしい。

僕は自分のインストゥルメンタルトラックを、CHILLカテゴリのプレイリストで選曲されることが多い。

最初は「え、この曲ってCHILLいか?」って思ったこともあった。でも曲をリリースするとCHILL系のプレイリストに選曲される。(選曲してくれる人たちには、ただただ感謝な前提ね。ここは間違いなくそう。)

「そうか、自分はCHILLな音楽を作っているんだ」
「KOTARO SAITOはCHILLなアーティストなのか」

と自覚するようになった。


パッシブ・リスニング

僕のアーティスト活動は、今思えば受動的に進んできた。

基本は曲をプレイリストに入れてもらえていたから、リスナーの人は僕の曲と特に認識することがないまま、プレイリストを流しているうちに僕の曲に出会い、1リスナー・1再生が配信サイト上でカウントされてきた。

とても久しぶりに見た、僕のSpotifyでの人気曲再生回数

数字上で言えば、そんな聴かれ方で130万回とか再生してもらえているのだから、ただただ「ありがたい」そして「それだけ再生を促せるSpotifyがすごい」って話だ。僕の曲で数十万〜百万単位の規模で聴いてもらえている楽曲は、いわゆる「ムードを良くするためのBGM」たち。

だから、楽曲がプレイリストから外れた瞬間に、一気に再生数も、当然同じようにリスナー数も一気に下がっていく。この「プレイリストハック」にめちゃくちゃ躍起になっていた昔話noteを掘り起こすと、リストを外れた瞬間恥ずかしくて筆が止まり、書けなくなった自分を思い出す。


ピアノソロが一番いいと評価された過去

先ほどの130万回くらい再生されている『Right』という楽曲や、リリースして3年以上経つ今もプレイリストで静かに聴いてもらえている『Jasmine』という曲も、当時の想いを「一筆書き」で描いたピアノの即興演奏だ。

僕にとってピアノという楽器は「起源」「原体験」だと思っている。初めて自分からすすんで手を出した楽器で、テクニックに依存しない僕自身の「本質」を表現できる大切な手段だと思っている。

だから、たとえ数字上の成果でしかないとしても、自分のピアノソロが好きとブックマークしてくれたり、僕に直接「ピアノの音に癒されました」とメッセージをもらえることは、みなさんが想像している以上に嬉しい。上の2作、5曲のピアノ曲たちは、今後も大切にしたい。


でも、noteで何度も書いてきたけど、
僕自身は自分のことを「ピアニスト」だとは、
まっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっったく思ってない。
本当に、微塵も思っていない。

繰り返しになってしまうけど、ピアノは「起源」であり「原体験」だ。物心ついた思春期にたまたま家にあり、弾き始めたらのめりこみ、作曲をするときに不可欠だった存在。会社員だった頃、プロとしての音楽的素養が至らず、形にできる術がピアノソロしかなかった頃の拠り所。

つまり、僕はピアノ「も」好きだけど、ピアノは僕の中ではごく一部の要素でしかない、ということだ。だから、各サイトで僕の昔のピアノ曲が流れてくるたびに「なんか急にトーンが変わるなぁ」って自分では感じる。


チルの人、ピアノの人というイメージ

僕はめっちゃ陽キャではないけど、寡黙にピアノを弾くような人間でもない。ピアノは自分を司る要素のひとつであって、僕はむしろ自分のリズムやリフ、歌ものならばトップライン(メロディ)の方が自分らしい。

それらの要素は、結局僕が思う「僕らしさ」はピアノを弾こうがチルトラックを作ろうが、コッテコテの前向きポップミュージックを作ろうが否応なしに「自分の癖」として映し出されてしまう。

僕は、そう思ってる。


逃れられない「僕らしさ」は、
僕に言わせれば「楽器」や「ムード」という、
人が決めたカテゴリでは括られようがない。


じゃあ、どうしてそれが伝わらず、結局何をリリースしても僕の上位にある曲はピアノやチル(結局両方ともCHILL)ばかりなのか。

答えはシンプルだ。

僕にKOTARO SAITOというアーティストメッセージを
自分の理想通りに「広く伝えるチカラ」がないからだ。
上述した「パッシブ・リスニング」に依存してきたアーティストだから。
需要が多いシーンで、「手段」として流れている音楽だからだ。


どうしたら「アクティブなアーティスト」になれるのか

その答えは僕なんかより、ライブを中心に、草の根活動で少しずつ少しずつファンを増やしているアーティストの皆さんの方が掴んでいるはず。

最近であれば、SNSで楽曲カバーを積極的に行なって、チャンネル登録者、フォロワーを数多く抱えてファンとのコミュニケーションが取れている方もこの感覚は既に知っていることだろう。つまり、

「ちゃんとファンがいる」ということ。

SpotifyやApple Musicなどの配信サイトがプレイリストに選ぼうがそうでなかろうが、一定の再生が継続してされる存在になることが「アクティブ」という状態だと僕は思っている。

これを叶えるためには、「曲のファン」ではなく「アーティストという人のファン」になってもらう必要がある。もちろん、SNS上でBGMとして鬼のように使われて「めちゃくちゃ流行って使われた曲」という形で配信サイト上で評価され人気に拍車がかかることもある。

だけど根本的に「長く」アーティストとして活動していくためには、「この楽曲が好き」というモチベーションに依存してはいけないと僕は思う。

つい先日、オンラインサロンを立ち上げたのは、この「アクティブ・リスニング」してもらえるアーティストに自分自身がなるために今、考えていることを共有する場が欲しかったから。

もちろん、僕がかつて推し進めてきた「プレイリストハック」によって得られたものは沢山あった。でも、今の自分が過去の自分に思うのは、僕のサロンで最初に話そうと思っている「アーティストとしての自己分析」が足りていなかったということだ。


どんなアーティストで、どんな音楽を生み出すのか

僕で言えば、

「KOTARO SAITO = ピアノ& CHILL」という価値観は、
Spotifyという「大きな大きな他人」によって作られたものだ。

僕がどうしてもピアノソロばかりをリリースしたくないと思っていたり、絶対にCHILLとは言えないような曲を作ってリリースしてみたりしたのは、今思えば「他人が決めた自分の市場価値への"反抗"」だったのかもしれない。


浅はかだよね。そんなの。
だって、自分の大事な大事な魂の一部ともいうべき音楽を
他人主導の枠を越えるために削り出してたかもしれないわけで。


一方でだ。

市場が決めた自分に適さない、あるいは競争原理から外れてしまった僕の大切な楽曲たち。これらは僕が人間性を、音楽への想いをきちんと伝えるための能力と波及力のなさゆえに、出しても出しても、(あえて皮肉に言うけど)千にも及ばないほどの再生に留まった。

「俺って、曲を届ける力を持ってないんだな」と、悔しく思った。同じ想いをしているアーティストの方も、僕のnote読者の中にいるかもしれない。


そんな人がもしいるなら、
僕が、僕に語りかけるこの言葉を聞いてほしい。

僕は果たして、
それらの曲を生み出したとき、自分の力だけで曲を世に届ける努力を
いったいどれだけしたんだろうか。

そもそも、その当時の僕は、自分が一体
どんなアーティストになりたいか、それはなぜかを
深く深く考えた上で曲を作っていたのだろうか。

月一で曲をリリースした方がアルゴリズム上良かったから、
僕はハイペースに、次から次へと(今思えば安易に)
曲を作ってリリースしてはいなかっただろうか。

・・・書いていて、自らの胸が痛む。
当時の僕にとっては全て図星だった。
だから、ずっと「パッシブ」だったのだろう。


楽曲を作るスキルだけでも、マーケティング力だけでもダメ

僕が現時点で考える一つの答えは、これ。

一番大事なのは、
僕が奏でる音楽に対する「何が一番の価値か」を
自分なりに常に答えを持つことだと思う。
変化は当然のこと。ただ、その瞬間に、「在る」事実が重要。

ちょっと賢ぶった言い方でそれを言うならば、

ブランドの物語や歴史

が、それにあたる。

楽曲の品質がいい、という謳い文句は、聴く側に「心地の良さ」は与える。一方、こと音楽に関しては「心地よい」の先に「愛情」に似た本能的に揺さぶられるものを僕は求めてしまう。

僕の場合ファッションも同じで、高級素材で着心地を追求された服なのは当たり前で、その上で「なりたい自分になれるデザインやシルエット」「ブランドが発信する"姿勢"や"メッセージ"」への共鳴を求めてしまう。

聴いたり食べたり買ったりするのに、信頼関係を僕は求めてる。
ただでさえ、要不要に関わらず、
アホほど情報を浴びなきゃ生きられない時代に生きているから。


その楽曲のことを好きだなって思って、心を開いて心酔できるかどうか。顔も名前も知らない人が作った曲に心を預け、「誰が歌っている / 演奏しているんだろう」とアーティストのことを検索したくなるかどうか。

それって、単に「雰囲気いいよね」「リラックスできるよね」っていう概念とは、深みが違うように僕は思う。

踏み込んだことを言えば、たとえCHILLだとしても、「この曲めっちゃいい。誰のだろう?」って思ってアーティストページに飛んだら、それはムードがCHILLだろうと何だろうと「アクティブ・リスニング」と言える。



僕が曲を「信じる」ために求めること

ソングライティングやトラックのクオリティについてとやかく語る気はない。「いい曲の概念は?」みたいな議論を表面上でしても、意味がない。他人にとっての「いい」を、僕が定義する立場じゃない。

曲について唯一、「引き込まれるレベルの"好き"」
「この人、最高じゃん、追いたい」って思う信頼性を語るなら、

・深く考えられたコンセプトを持つこと
・コンセプトが、スキルによって「素敵だ」と感じる仕上がりであること
・結果、感覚的にアーティストの「らしさ」をブランドとして感じる

という3つの要素だと思う。

特に「深く考えられたコンセプト」というのが重要で、これがはっきりと存在するアーティストの楽曲は、概ね「出会いの曲"以外"」も僕は好きになる。楽曲のテイストやムードが異なる楽曲がアーティストページ上に並んでいたとしても、「バラついたとは思わない自然さ」を感じる。


「コラボ = 他人のタグ」に頼らない

昨今、コラボでリスナーを増やす「ストリーミング市場らしい"タグ付け"」のような手法が盛んに行われるようになった。リスナーとの出会いにつながる点で、出会の窓口を増やすためには必要な策かもしれない。

でも、それを叶えるためにはまず、「そのアーティストがどんな人なのか」が自らの音楽作品で表現できている必要がある。トップソングに並ぶ楽曲が、コラボ曲ばかりになってしまったとき。その「確固たる"らしさ"」を感じないアーティストに対しては、「〇〇は好きだけど、△△は好みじゃない」みたいな事象が起こりやすくなる。


それとこれは僕自身の経験でも思うことだけど、仮にめちゃくちゃリスナー数が多い人とコラボして自分のリスナー数が一時的に増えたとしても、自分がプレイリストピッチしたときに同じように配信サイト側が曲を取り扱ってくれるわけでは、全くない。

つまり、安易にコラボで人に乗っかって沢山の人に聴いてもらうだけじゃ、「アクティブ・リスニングされているアーティスト」とは見なされないということだ。

ブランディングの観点で考えたらわかりやすい。僕が仮に、何の脈絡もなく世界的人気のファッションブランドとコラボしたとしよう。一瞬、「あのブランドに選ばれた人」となって、フォロワーも増えるかもしれない。でも僕が彼らとコラボする意味やストーリー、無論それらに紐づく世界観を持ち合わせていなければ、そのコラボの話題性は

世界的ブランドが日本の無名アーティストを発掘して、すごい
or
日本の無名アーティストが、あの世界的ブランドに見出される

としかならない。そこに、僕の名前が載ることは、ないだろう。そもそもこの状態では、ダブルネームのコラボではなく、ただの"コバンザメ"。


有名な何かに、ピックアップされてチャンスを掴みたいと思う人は、かつての僕を含めて沢山いるんじゃないかと思う。でも僕の経験上、はっきり言わせてもらう。僕が下心を抱えて狙ってきたことは、叶わない。


有名な何かは、僕ら自身が無名有名問わず、
魅力を感じなければ、そもそも推したりしないんだ。


逆に言えば、双方の知名度の大小は、
実はコラボに関係がないように僕は最近思う。

片方が有名で片方が無名でも、有名な人の方が無名な人に、強烈に「関わりたい」と思える想いを抱いたら、それは立派なコラボだ。

そういう形のコラボは、見ていてとても刺激的だ。
想いが、コラボした人同士、曲やアイテムから、
熱気として伝わってくるからだ。



「掘り下げる孤独」を、表現して

僕はそう思うようになって、他人に誇れる数字を手に入れることより、自分の深さを追求する方向に舵を切った。ここに書いた通りなのだが。

自分からしたら、マジでただの「しんどいネガティブnote」
でも、思った以上に反響があって驚いた。

これを書いた年明けごろは、精神を極限まで痛めつけてた。妻や限られた音楽仲間がいなかったら。僕はどこかに、ひっそりと消えていた。

この時期に歯を食いしばって生み出した新曲が、
無事に形になった。しかも、
心から今、自分が「好き」と思える曲となった。
今も、新曲を聴きながら、魂が震え、涙腺が緩い。

まだリリースしていないけど、僕は、とりあえず今の時点で、「最高じゃん」って心から思えてる。「世に出して、どこのプレイリストに入って、どれだけ初週で回って・・・」って考えていた過去の自分とは、現時点で音楽に対するモチベーションがまるで違うのだ。

苦しくて仕方のなかった当時のnoteに反響があったのも、新しい自分が新曲を仕上げ切るのに、本当に大きな力になった。読んでくれた、リアクションをくれた皆さんには、寸前まで堕ちた僕を救ってもらえたと思ってる。

ほんとうに、ありがとう。


もちろん、各配信サイトのキュレーターの人たちが
僕の新しいチャレンジのことを「最高じゃん」って思ってくれたら嬉しい。


でも、今までのように
「どう思うかなぁ・・・。」って
心のどこか片隅で感じてしまっていた僕には、
もう戻りたくない。


だから僕は以前よりもずっと本音で、自分の感じていたことを表現し切る場を増やしてみようと決めた。トレンドより、今成功している他の人のケーススタディより、まずは僕自身が一番、僕を語り切れる表現で。




僕はCHILLいアーティストなのか?

読んだ皆さんがどう思うかはわからないけど、
僕は、結構普段CHILLれてない人間だって思ってる。

考えすぎて手が止まり、不安に震え、でも動けなかったほどに。


そんな自分に気づいた今、白状したいことがある。


雰囲気のいい人に憧れている「ダサい」俺

これが、僕の本質なんじゃないかって今は思ってる。

CHILLだと音楽を判断してもらった背景には、
「CHILLい涼しげな空気をまとってみたかった僕」がいる。

今はそう思う。
そもそも、雰囲気CHILLめは人は、noteでこんなに
密度大きめな長文書いたりしないだろうなって思う(笑)


卑屈ぶるわけじゃないけど、
僕はきっと、僕が思う天才なんかじゃない。
僕にとっての天才は、僕が憧れた「雰囲気」を自然に持つ人たちだ。



ちょうど9年前の料理写真が今日、Facebookに出てきた。当時作っていた曲と共に、最新の僕のスタイルと比較してみようと思う。

2013年

2013年の独身飯 当時の自分曰く、チキンとトマトのリゾット & トマト(笑)らしい。

現在

先日の前菜3種。酢締め真鯛とディル・モロヘイヤ・かぼちゃソースカルパッチョなど。

後者の曲や料理が前者より良いかどうかは別として、少なくとも「洗練された自分になる努力の跡」は、この比較から感じ取れた。今思えば2013年の料理、本当に笑える。これで、当時はドヤってたのも、笑える。

僕が自分の表現に求める「品質」や「ムード」は、
幼少期から持っていた感性なんかじゃない。
自分で美しいものを見て、感性を磨き、
世の中との距離感を徐々に学んで生まれたものだ。

自分は、天才なんかじゃない。

昔はそれが、悔しくて仕方なかった。
でも今は、そう言える自分のことを、少しずつ、好きになれてる。


だから、これから先の未来に僕は、
磨いてきた「"演出領域の"感性」の方じゃなく、もっと根本の
「ダサくて、情けなくて、イタい方の自分を磨いた姿」を、
知ってもらえる努力をしていこう。そう思ってる。

その自分になれた時、今の音楽や前菜3種を、
今の僕みたいに「ドヤってて笑える」って言えるように、
もっともっと自分を磨いていきたい。


--

それが、CHILLいかどうかは、皆さんが判断してもらって構わない。
僕はどう呼ばれても、僕でしかないのだから。




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leift / KOTARO SAITO
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