怯えは、変わる前の静けさ
今の自分に必要なのは、失敗を恐れないこと。滑っても、ケロッとすること。いちいち、間に受けないこと。そう言い聞かせている。
ライブをするにせよ、新譜を作るにせよ、日々の人間関係や生活にせよ。ここ数年、考えて考えて答えを出すことに怖くなって止めていた色んなことを、今は無理やりだとしても動かしていたい。
「精神を細くしている場合ではない。」
そんな感情と、
「やってやんぞゴルァ」
っていう闘争心が、絶妙に入り混じる毎日だ。
繊細は、大胆の裏返し
最近、そんなことを自分に思ったりする。真に受ける面積が人より多いから傷ついたりクヨクヨするのではなく、1つのことに向かう速度やパワーを使っているから砕けた時に痛いだけなんだと。
だからこう思う。別に繊細なわけじゃないんだ。どちらかと言えば、無策でも意思決定できる自分なんだ。だから無策なりに砕け散ることが、まぁまぁあるってだけのこと。実は、さほど弱い人間じゃない。
そういう意味では。
TikTokが面白い
社会情勢的に、今後どうなっていくか謎なTikTokに、先月からめちゃくちゃハマってる。気がつけば、今一番隙間時間を埋めているのはTikTokかもしれない。自分も、「どんな自分を、誰が見たいんだろう」って感情で投稿してる。noteだからこそ書くけど、noteで最初に話題になった頃に近い感覚。
色んな動画を投稿しながら、自分が興味あることと世の中の誰かの興味の掛け橋はどこなんだろうと、ある意味「どう思われてもいいや」って感覚で動画をアップしている。noteのように数千〜万字で気合を入れてコンテンツを作っているわけじゃないし、まして音楽作品のように「自分の生きた証」だなんて思うわけもない。
ウケなければ消せばいいや、くらいの気持ちで、実にカジュアルに動画を作るのが今はとっても楽しかったりする。今までの自分なら、「やるからにはleiftとして全方位、恥ずかしくない悔いのないものを」と考えていたけど、そういう小めんどくさい思考は、やめてみてる。
雑な言い方を自分にすると、
なんか、今はくだらない。そういうの。
「この俺」が、中途半端に「やめ」にはしない
一挙手一投足を熟考したから、leiftというアーティストは構想から2年で『Beige』というファーストアルバムをリリースできるほどの「実の詰まり」を具現化できた。
これまでの人生を振り返っても、こんなに足を自らの意志で止めて、ギリギリの精神状態で失敗して直してを繰り返した行為はない。今、聴きながらこのnoteを書いているけど、これを完成させた自分のことを誇りに思う。
具現化できると分かっていた
構想から2年弱かかったけど、自分は必ずこの作品を仕上げられると分かっていた。だからワンマンライブを今月やるという計画も、完成の遥か前から立てていた。物的証拠や、確証なんてあるはずがない。ただ無鉄砲に、どれだけ厳しい道でも自分はやり切れると、一寸も疑わなかった。
めちゃくちゃ不安だったし、自らすすんでプライドをへし折った。苦行でしかない数年をもう一度やれって言われたら、「数年は、遠慮しとこうかな・・・」って思う(笑)
別に今も状況が好転したとは言えないけど
心持ちが完全に、アルバムを作って不安に怯えながらライブをしてた頃とは違う。なんであんなに不安だったのかが、今は言葉にできる。
勿論、今それらの思考が皆無というのは嘘だよ?
ってか、今の自分が身を置く場所で
「数」に全く向き合わないのは、嘘であり逃げだと思う。
でも、一番恥ずかしいことってさ。
せっかく聴いてくれる、来てくれる人たちに、
自分が納得してない、楽しんでもらえる訳がない作品を
なんとなく期日を迎えたからお披露目することじゃね?
って、今は疑いなく思えてる。
「クオリティ」の定義
これまで毎作品、曲を作っている時は「クオリティを疑う」なんてあり得ない。でもいざ曲を世に送り出す、というタイミングで急に、自分の人気とか影響力とか、そういう「他人が価値を決めるもの」に不安になってしまう。
でも、ちょうど今書きながら思ったことがある。
例えばこの6つのジャンルのコンテンツを作るにしても、届け先が違ったり届ける内容が違うのは、とても自然なことなんじゃないか。
一番わかりやすいのは、音楽作品とnoteの違い。
昔は楽曲のセルフライナーノーツを書いていたけど、
ある瞬間からそういうのをやめた。
自分で届けることじゃねーなって。直感的に思ったからだ。音楽の裏側を自分で言葉にしない方が、音楽を聴く人に楽しんでもらえるじゃんって。
で、その辺りからここでは、楽曲と日々思うことの隙間というか、曲にしていく上で削ぎ落とした想いを書くようになった。書くからには、ある程度曲の告知にもなるように、バランスを考えながら。
じゃあ、ライブは何を叶える場?
これに尽きる。
先月末に書いたこちらの通りだ。
音楽で語ったことやnoteで綴る言葉がしみったれたものだとして、ライブもしみったれてたら、ライブに来る意味がない。ライブはライブの顔があるべきで、直接顔を合わせられるからこそ面と向かってどんな顔で皆さんに会うべきか、って話だ。自分の感情通りの言葉を使うなら、
でありたいし、きっと人は直接会ったときのエネルギーが最も作用するはず。どんな歌を歌い曲を弾いても、ポジティブでありたい。
そもそも音楽でネガティブを語るのだって、聴き手が共鳴してポジティブになるためだろ?って話でさ。負を負で受け取るなんて、自分は嫌だ。自分のライブに来てくれる方にも、そんなことはしたくない。
ライブ悩んでいたことは完全なる思考の置き所の迷いでしかなく、定まった今は黙って前に進むだけ。そして、ここで約束しておく。
leift 1st. One-man Live Beige
日時:6月21日(水)開場18:30 開演19:30
会場:表参道WALL&WALL
(東京メトロ表参道駅より徒歩1分)
出演:
leift
サポートメンバー:
宮内告典(ドラム)
Hajime Uchiyama(ギター)
チケット料金:
前売 5,000円
当日 5,500円(前売り券が売り切れ次第販売終了)
※ワンドリンク別
チケット販売はこちら(どちらでも買っていただけます)
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人気や影響力への、今の自分なりの答え
「いやいや、それはお世辞 & 言い過ぎでしょ」って思いながら聞いたけど、noteの効果なのか、とあるアーティスト仲間のご友人(知らない方)が、
って言ってくれてるという話を聞いた。言い過ぎなんだけど、そう言ってもらえるのは素直に嬉しい。ありがとうございます。
おそらくそう言ってくれた方が接触したコンテンツは、楽曲以上にこのnoteだと思う。「noteのフォロワー1万人」っていう数自体が多いのか少ないのかは尺度によるんだろうけど、少なくとも音楽なのかleiftやKOTARO SAITOに興味がある人の、何か得になるコンテンツを発信できたはず。
だとすれば、だ。
人気や話題は、誰かにとって「良い」から集まる
極めて当たり前の話なんだけど、自分の想いをまっすぐに届けようと試みる中で、その姿勢が「ハマる相手」と「ハマらない相手」というのがいる。ハマった場合はそのままいけばいいかもしれない。ハマらなかった場合に、
なのか
なのかで、漠然と欲していた「話題性」や「人気」は因数分解できるんじゃないか。全方位同じ自分で生きるのは、まるで運動会のリレーにタキシードで出るようなものだ。
許せる範囲で、TPOってあって良い。
勿論、ハマらない相手に自分が寄り添おうとしない選択だって大いにあり得る。自分だって媚びようとは思ってない。ただ、自分のことを思っている以上に小さく狭く考えがちだったりするから、
などの事案は、実は沢山ありそうに最近思う。分かりやすくするためにABCで語ったけど、語ることと叶えることは時と場所で変えても自分を整合できると今は思えてる。
そんなことを語りながらだけど
繰り返しになるけど、ライブのleiftを是非見てほしい。
実際、しっかりワンマンやるのは初めてだし、開催する自分もまだ、どんな客層になるのかは定かではない。
楽曲にもnoteにも、インスタにもTwitterにもTikTokにも(TikTokはやり始めたばかりで違うかもだけど)、物体的な便益以外で齊藤耕太郎を感じて、好きでいてくれてる方は絶対にいる!と勝手に信じてる。そんな生身を、ライブという生の場で自分がどう下処理して料理するかを、見てほしい。
ライブのセットリストを短縮してお届けしながら、TikTokではシンセや機材が好きなDTMerたちが見てくれているのもあり、そういう話も沢山織り込んでお届けしようと思ってます。実際のライブでは話さないから、そういう意味ではTikTok上でのleiftのTPOで、ワンマンを予感してもらえたら嬉しい。
改めて
「精神を細くしている場合ではない。」
そんな感情と、
「やってやんぞゴルァ」
に加えて、
って、誰にでもなく、きっと自分に向かって毎日言ってる。そういう、燃えたぎっている今のテンションを伝えられれば、このnoteは成功なのかな。
いろいろよろしく!