見出し画像

サヨナラはいらない

「鍵、持った?」

 玄関先で靴を履く大きな背中に向かって問う。振り向いたあごと鼻の描く稜線が、やっぱり今でも愛おしい。

「うん、持ったよ」

 無理に顔をすぼめて、彼は笑って見せた。私の言葉を待って、でも返ってこない言葉に、彼は静かに落胆の息を吐いた。

「サトミも元気でね」

「うん、リョウ君も」

 もう、呼び捨てでは呼べない、呼ばない。それを受けてまた、彼は傷付いた顔をする。なんともいたたまれない空気になる。恋人との別れと言うのは何度繰り返しても慣れるものではないようだ。

「それじゃ、また」

 手をあげて、彼はドアノブに手をかけた。グッと力を込めるその仕草が、何かやはり言葉を待っているように思えてならなかった。だが私は彼の期待する言葉を返すでもなく、またね、と、その言葉の行き先を考えることもなく応じた。バタン、と音を立ててドアが閉まって、止まっていた時間が流れ始める。

 最後の最後まで、彼の顔を正面から見られなかった。私たちは何も嫌い合って別れた訳ではない。彼の未練のある様も、私のまだ胸にわだかまる気持ちも、それらが私たちがまだ終わっていないことを明らかにしている。

 これで、よかったんだろうか? 彼に別れを告げてよかったんだろうか?

 自分の胸に手を当てる。コンプレックスだった小さな胸。この胸を彼は可愛い、そう言って笑ってくれた。その胸に、手を当てる。

 よくこんな絶壁と一年も付き合ってくれたよな。歴代元カレは、大体ブラを外すと顔を歪めた。

 言葉にしないが「ちっちゃい」と思っているのがすぐに分かるような表情をした。でも、彼は違った。それだけで、彼のことが大好きになった。欠点を愛してくれたことが、とても嬉しかった。

 なのに、私は別れを切り出した。

 特段、不満があったわけでない、浮気もされていないし、暴力だって振るわれていない。むしろとても優しくて、大切にしてくれて、幸せだった。だけど、優しさや思いやりがある半面、彼には刺激的な要素が欠落していた。マンネリと言えばいいのだろうか、そんな状態に陥った。そんなぬるいビールみたいな関係が、ある日突然嫌になった。

「ごめん、別れて」

 そのひと言に、彼はおおいに困惑した。なんで? どうして? の嵐。それがやむと、好きな人出来た? オレのこと嫌いになった? と目に涙を溜めた。

 そのどれもに違うの、と重ねて首を横に振った。マンネリと言っても心底飽きていたわけではない。もちろん、彼に言った通り嫌いになったわけでもない。強いて言うならば、賞味期限が切れてしまったのだ。

 それでも彼の背中を見送って尚、私は彼が好きだ。

 ここへ来て、母のある言葉を思い出した。愛だけでは、生きてゆけない。いつだったか、母が私に放ったその言葉の意味を、理解してしまった。

 一緒にいるだけでよかった。一緒に過ごすだけでよかった。でも、未来を描くことが出来なかった。

 やはり、私たちの愛は終わってしまったと言うことなのだろうか。大きく息を吐く。

 そう言えば、サヨナラは言わなかったな。お互いに、またね、で済ませた。

 私たちの間には、サヨナラはいらなかったのだろうか?

 多分、いらなかったんだろうな。

おはようございます、こんにちは、こんばんは。 あなたの逢坂です。 あなたのお気持ち、ありがたく頂戴いたします(#^.^#)