ご自愛ください、自分様
最近noteに向かう時は試運転のような形になる。
昨日、一昨日と書くことを休んでいきなり自分の臨みたいテーマに向かうのではなくて仕切り直して少し肩の力を抜いていく意味合いが強い。
かなり行きづまっている。どんづまりと表現してもいいだろうと思う。
今自分の取り組んでいることが一体何になるんだろう? そんな思いにならずにいられない。好きなことをしているのだからそれでいいじゃないか、そう言われればそこまで。しかし僕はそこまで割り切れない。
自分で悲壮感が漂っていることを感じる。結果にこだわりすぎというか、成果を出さなければと躍起になっている感じもする。結果というのはサイコロの目のようなものでサイコロを投げたことの意義は見失われて、出た目の数だけが話題になる。それが今この世界、資本主義社会だ。
とは言え、体調という意味でも体力という意味でもかなり自分の強度は上がってきている。それでも体が楽になってきたから感じるしんどさもあるわけで、なかなか色々が一筋縄ではいかない。
五月くらいからだろうか、熱い湯船に浸かっている。この真夏において42℃に毎日浸かっている。ある人たちから教わったのだが、医学的な研究では43℃以上の湯船に浸かったものはほぼされていない。しかし野菜を50℃の湯にさらせばシャキッとするだろう? 人間の細胞も熱い湯船に浸かると活性化する、と。それを聞いて少し熱い湯に浸かってみようと思った。
その影響か六月ごろはめちゃくちゃ体調がよかった。そこからも一日も欠かすことなく熱い湯船に入っている。その体調が夏の疲れなのか、ここのところなんだかシャキッとしないところも行きづまりを感じる要因だと思う。
この行きづまりの根元は多分、自分で自分を傷めつける自分の考え方にあると思う。行きづまって感じても日々一歩、一歩と踏み出していることは事実。問題なのはそれ以上にきっと自分を否定してしまっていること。
以前人に言ってもらったことがある。自分のことが嫌いな時は本当はとてもツラい時。
昨日、電車に揺られながら「ツラいね」と心の中で自分に言ってあげたら少し楽になった。ツラい自分にさえ寄りそえなければ、いつどこで大切な人に寄りそえるだろう?
こんなにボロボロになってそれでも前に足を踏み出そうとする自分ってヤツをもう少し大事にしてやりたい。
志紀