1ダースの恋 Vol.16
律の元に亜美から連絡が来なくなって一週間が経っていた。
あんなに楽しそうに毎日メッセージを寄越したのに、どういうことなんだろうか。ネットで偶然目に入った『脈アリ女性からの連絡が途絶えるヤバい理由!!』とかいう動画が、妙に恐ろしく感じる嫌な感覚を覚えていた。
職場の電話が鳴って、ごま塩頭の上司に呼び出されたのはそんなことをぼんやりと考えている水曜日の夕方のことだった。
「佐藤君?」
「はい、なんでしょう?」
「あの岩本水香って君の知り合いかい?」
「あ、え? ああ、はい」
曖昧に頷いて返事をすると、電話を代わるように伝えられた。
「お電話代わりました、佐藤です」
「リッツ、私よ」
その声を忘れたことがあっただろうか。岩本水香本人が、電話口の向こうにいることを瞬時に悟った。
「えっと……岩本様。どういったご用件でしょう?」
「今夜、歌舞伎座の前に来られる?」
「は?」
「食事、しましょう」
「あの、それは? というか日本にいらっしゃる?」
水香はくぐもった笑い声を出した。
「話があるの。20:30に歌舞伎座の前、遅れないで」
それだけ言った水香はあっさり電話を切ってしまった。
相変わらず勝手な女だ。ちょうどいい、むしゃくしゃしているし、文句のひとつでも言ってやろう。
20:30になってのこのこと歌舞伎座の前に来てしまった。
そう言えば、水香に連れられて一度だけ歌舞伎を見に来たんだよな。
演目は、ロングセラーアニメの実写歌舞伎。どうしても見たいけど、見に行く相手がいないのを強引に付き合えと水香は誤魔化した。そういうところが可愛いと思っていた。
ストレートな感情表現をするようで、妙に乙女めいているというか。そういうところが、実は好きだった。そしてそういう部分というのは、水香は律以外には見せることがなかった。
水香の予約した店では個室に通された。天ぷらが美味しいのよ、そう笑った水香は完成された女になっていた。
何を話せばいいのかも分からず、何を思って10年ぶりに再会しようと思ったのかも分からず、口を閉ざしてやけに少ない量のビールを舐めて、水香の話に相槌を打つ。
天ぷらが旨くて、特にナスの天ぷらが。
旨そうに食べていると、こっそり水香が「これあげる」と言った。
そうだ、コイツ、ナス嫌いだったな。
途中から日本酒に切り替えて、したたかに酔ったところで水香は口を開いた。
「リッツ、あなたはどうしてピアノを弾いていないの?」
「え?」
心臓が止まった気がした。なんでか? なんでだろう。
水香は真っ直ぐこちらを見つめる。ウソを許さない目だ。
かぶりを振って、そのことは話せないと訴えた。
「お前が、オレに引導を渡したんだろう。お前がオレには演者は無理だと言った」
「ウソよ!」
水香は大きな声を出した。
「私はあなたにバトンを渡したつもりだった」
「バトン?」
「そう、バトンよ」
もう一度かぶりを振る。
「あなたなら、出来るというバトンを渡したのよ。必ず一緒に演奏しましょうと」
「そんな、バカな。世界の岩本水香と一緒にやろうなんて」
「本気だったわ」
真剣な水香の迫力に圧倒される。
「それがもう叶わないのなら、リッツ、あなた私のパートナーになる気はない?」
「え?」
「結婚する気はないのかと聞いているの」
あまりの急展開に開いた口が塞がらず、でも目の前で恥ずかしげに頬を染める水香を見ていると、彼女の放ったひと言にウソはないのだと感じた。
オレが、結婚、コイツと。バカな。
おかしくて笑いが出た。
「水香、よせ。冗談キツイ」
そう言ってグラスから日本酒を飲もうとすると、水香が両手でテーブルを叩いた。
「そういうところよ。あなたがくだらないと思うことに斜に構えるのは構わない。でも、こちらが大切にしているものまで、踏みにじるようなところ。そういうところが、私は気に食わないの」
水香の目は烈火のように燃えていた。
「だから、どこかであなたは思っていたんでしょう? 自分のピアノはくだらないって。だから挑むこともせずに尻尾を巻いて逃げた。ごめんなさい。さっきの言葉、忘れて。そんな男とパートナーなんて、私もヤキが回っていたみたい。それじゃ」
そう言った水香は律を残して個室をあとにした。追えばいいのだろう。追えばいいのだろうが追う気にもならず。グラスに残った酒を飲み干して席を立った。
支払いは水香が済ませていた。
どこまで男のプライドをへし折る気だ。まったく。
言われた言葉、すべてが的を得ていて、ぐうの音も出なかった。こんなだから、亜美にも愛想をつかれたのだろうか。
全部嫌になって、自宅に帰り着くとウイスキーをストレートであおった。
翌日、俺は軽い二日酔いの中で目が覚めた。
いつもの天井。いつもの布団。
もう日は暮れていて、開けっ放しのカーテンの向こうでは
闇夜が広がっていた。
ここは確かに俺の部屋だ。
だけど、何でだろうか。
俺は、得も言われぬ寂しさを
感じていた。
そんな時に限ってスマホがブルブルと
けたたましく震えながら部屋中に
着信音を鳴り響かせる。
「誰だよ。」と思わず、呟きながら着信画面を見ると
そこには「亜美ちゃん」の名前が書かれていた。
1週間もろくに連絡を寄こさなかったくせに
こんなタイミングで電話がかかってくるなんて。。
嫌な予感しかしない。
でも、出ない訳にはいかない。
俺は腹を決めて電話に出た。
「もしもし?どうかしたの?久しぶりじゃん!」
相変わらず、格好をつけたいがためか俺は平静を装って
応答をした。