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雑記#1 牡牛座太陽と蟹座月

とある人物についての描写

彼は常に広々としてゆとりのある豊かな時間を生きている。

贅沢はしない。が、その限りあるリソースを味わい尽くし、素材のポテンシャルを最大限に発揮する知恵を持っている。

水と昆布と豆腐とネギ。例えばこれだけのものがあれば、美味しい湯豆腐が出来上がる。

隣の家の庭にレモンがなっていれば、その家の住人と仲良くなり、レモンをお裾分けしてもらってレモンシロップを作ったりする。

音楽を流し、楽しき会話の相手さえいれば求めるものは他にない。

彼は言う。

「どれだけ目の前の幸福に気づけるかなんだよ」と。

また、ある暖かい陽気の春の昼下がり、彼と花の咲く公園を歩いた時に感じたえもいわれぬ至福を思い出す。

この時、彼はこうも言った。

「こういう幸せをどれだけ積み重ねられるか、その蓄積が人生なんだ」

そう、おわかりの通り。

彼は牡牛座1度 「清らかな山の小川」に太陽を持っている。

したがって、私の太陽、射手座1度「退役軍人のキャンプファイヤー」とちょうどインコンジャンクトしている(150度の位置関係にある)。

彼の持つ、あるいは、彼を通って大地から湧き上がってくる純粋な陽のエネルギーは、私の太陽にとって常に新鮮な驚きと朗らかさを与えてくれる。

彼はまるで「陽と至福のストリーム」を常に周囲に展開する魔導士のようである。

彼を占星術的観点でもう少し掘り下げてみよう。

「陽と至福のストリーム」に加え、彼はもうひとつ強力な魔法を宿している。
これは彼の蟹座10度「カッティング過程のダイヤモンド」にある月と関係していると言えよう。

彼の周りには常に人が集まってくる。

彼の放つ「陽と至福のストリーム」に惹きつけられて、あるいは、彼の周囲に居れば豊かな時間が保障されているからこそ、人が集まってくるのかもしれない。

しかし、そこに居続けるには、自分自身をまるで家族付き合いかと見まごうレベルでさらけ出さなければならない。

自分を隠し、仮面をかぶったままそこに居続けることは不可能なのだ。なぜなら「家族レベルのお付き合い」と私の呼ぶ強力な魔法の圧が、常にその周囲に充満しているからである。

この圧を拒絶するか、受け入れるか。居心地の良さはこれによって決まる。

「私はこういうもんです、こう感じています、こうなったらいいなと思います」

と素直に打ち解けることができれば、その圧はあたたかく親密な関係性に昇華する。

しかし、無礼や配慮の欠いた言動、相手を信用しない態度、偏見やネガティブな感情などを持ち込んでしまうと、瞬く間にはじき出されてしまう。

私はよく、蟹座は海賊のサインだというイメージを持っているが、まさに、「家族レベルのお付き合い」という魔法は、空気で「お前は我が海賊団に属するにふさわしい人間か?」と問いかけているかのようである。

蟹座の恐ろしさが垣間見えたようだが、一度船に乗ることを許されたものは、家族に向けられる親しみと同じような暖かな感情的つながりを享受することができるのだ。

彼は、この「家族レベルのお付き合い」を駆使することにより、行く先々様々なコミュニティで、部外者には施されないような恩恵を受けてきたようだ。

レモンを例のとってみよう。

隣の家の庭に立派なレモンの木があったとして、普通なら「隣の庭のレモンはよその家のもの」で終わってしまうところを、彼の場合、何度か顔を合わせ笑顔で談笑するだけで、まるで共通の財産かのような状況にまで持っていってしまうことが多々あるのである。

カッティング過程のダイヤモンドの表象するような、美しく結晶化された感情的な一体感をストイックに求めればこその報酬なのであろう。

「人間関係は常に一対一だ」

「その人間と自分との一対一の関係性と、その人間と他の人間との一対一の関係性は同じく真実だ。一対一の関係性を築けない人は誰とも仲良くなることはできない」

このようなことを彼はよく言う。

人との感情的なつながりに対してかなり真剣であることが伺える台詞ではないだろうか。

彼は、社会的な成功を収めたわけでも、資産を築いたわけでも、研ぎ澄まされた知識や能力があるわけでもない。

こう言ってはなんだが、そのような社会的評価に値するようなものは、ほぼ何もないのである。

しかし、だからどうしたと彼はいうであろう。
そのような世間的な指標で測れるところに財産を築いていない。それだけのことなのである。

「陽と至福のストリーム」と「家族レベルのお付き合い」

星々が彼に与えたこの二つの魔法を最大限に発揮し続けるだけで、豊かな生を謳歌し続けることができるのだ、と私は彼を見て、そして占星術についてのささやかな知識を手にしたことで思うなどした。

以上、雑記でござる。

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