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blog #page.4
嫌われるのが
怖かったのではなくて
手を離されるのが怖かった。
「繋がり」の価値観と
私独特の「孤独」を見つめた時
その質感は、生命綱のようなものだった気がしている。
とても嫌な表現だけど、しがみつく、縋るようなイメージ。
この手を話されたら生きていけないような恐怖を感じていた。
だからいつも
やっぱり……
「私は愛されない」
「私は必要とされない」
「人はかわってしまう」
私はひとりぼっちなんだ。
恐怖から
信頼を確認するために
無意識に試すような事もしたし
必要とされているかにいつも怯えていた。
「生命綱」だったから
そうせざるを得なかったんだ。
執着や依存という言葉では
片付けられないくらいに
生きていくために私にとっては
大事な事だったのだと思う。
孤独の質感は
胸を抉られるような痛みがあり
必要とされないという要因を探し出しては自分がいかに無価値な人間かを証明し、期待しないように自分を戒めてきた。
どうして
必要とされないといけないの
どうして
選ばれないといけないの
孤独を感じるたびに
自分に問い続けてきた
そのなかで
「自由」や「選択」や「創造」
みたいなものが見えてきた。
「あぁ、私もっと自由に自分の人生を生きてもいいんだ」
人に必要とされなければ生きていけないと思っていたから、自由の価値観が自分のなかにあることすら見えなくなっていた。
この寂しさの背景には
様々な要因があるんだけど
幼少期の体験が愛着の器に
大きな穴をつくってしまっていたからなんだなと思っている。
必要とされること
愛されること
ずっと変わらないことが
「安心して大丈夫だよ」
「そこにいていいよ」
「ひとりじゃないよ」
「生きていてもいいよ」
本能的に
存在の証明になっていたんだ。
私にとっては
依存も執着も
願いに気づくための
大切なプロセスだったんだ。
そうしないと
生きて来れなかったんだね。
安心して大丈夫だよ。
そのままで生きていていいよ。
そう自分に言えた時
心がすーっと軽くなり
駆り立てるために
踏ん張るために入っていた
肩の力が緩んだきがして
「よく頑張ってきたね」と
自分に声をかけた時
深い安堵を感じたんだ。
それと同時に
私がどんな時も
変わらずに
側にいてくれた人
応援してくれてた人
愛してくれた人
繋がってくれた人への
深い深い感謝に包まれた。
今までの人生を
捉え直す体験をしている。
ひとりでは
気づけなかったし
自己共感やエンパシーに
出会わなければ
愛着の傷を見つめる事は出来なかったと思っている。
「そこに痛みがあるよね」
「なにがあるの」
#自己共感
#エンパシー協会
不安型愛着スタイル
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