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こたの缶詰紀行【鬼怒川温泉編】

▲前回の投稿。
今回の「鬼怒川・缶詰紀行」は前回の「伊豆・缶詰紀行」の続きになります。まだ読んでいない方はぜひ。

【1日目】

 伊豆での缶詰から数日挟んで、今日からまた3泊4日、今度は栃木県の鬼怒川温泉で缶詰をすることにした。
 鬼怒川温泉へは遠い昔、家族と日光旅行の際に泊まったことがある。その時は確か日光東照宮がちょうど改修工事をしていた。日光江戸村、日光さる軍団、東武ワールドスクエア、といった日光の定番観光地を巡ったのを覚えている。今回は缶詰なので観光はしないが、鬼怒川温泉の記憶がほぼ消えかけているので、非常に楽しみだ。

 新宿発13時の特急きぬがわに乗るために、僕はまず中央線を使って新宿駅に向かわなければならないのだが、家を出発する前にバタバタしていたせいで今から一番速い快速に乗って新宿駅へ向かったところで、新宿駅での乗り換えがわずか10分になってしまうことになった。これでは安心して乗り換えをすることが出来ない。特急に乗る前にトイレを済ませたり、飲み物を買っておこうと思っていたからだ。どうしよう。そんな時に、中央線にはピンチヒッターの特急あずさが通っていることを思い出す。僕は登山が趣味なので、長野・山梨方面の山へ行く際はよく利用している特急あずさだが、新宿方面に行く際に使ったことは今まで一度もなかった。だが今回はやむを得ない。特急あずさに乗れば新宿での乗り換え時間は20分。トイレを済ませる時間も、飲み物を買う時間も充分にある。そして僕は高い特急料金を払って、特急あずさで新宿へ向かうことにした。

 いつも見慣れた中央線沿線の風景も、特急に乗ってビュンビュンと駅を通過しながら見ると違った風景に見えるものだ。「東京」というと、新宿や渋谷、丸の内のような超高層ビル群をとかく思い浮かべがちだが、僕の中の「東京」はどちらかというとこの中央線や小田急線など、郊外に伸びている路線の沿線に広がる、果てしない住宅地に時おり緑の入り混じったこういう風景の方がしっくり来る。僕はこういう飾らない風景が好きだ。

左車窓に車両基地が見える。
何気ない住宅街を過ぎていく。

 高校時代、東京に1ヶ月ほど滞在することを何度かしていた。僕は普段、新潟にある普通科の高校に通っていたが、夏休みや冬休みといった長期休暇の間、美大受験のための予備校へ通うためにひとり上京して、寮生活を送っていた。
 ここでこの高校時代の予備校と寮での体験を書くとあまりにも長くなり、今回の缶詰からかなり脱線してしまうので内容にはあまり触れないが、僕は上京の間、西東京のひばりヶ丘という街にある寮で生活をしていた。西東京も閑静な住宅街が続く郊外の街だったが、街に漂うなんとも言えないぬるい空気が好きで、美大に入ってからもたまに意味もなく立ち寄ったりしている。
 今特急に揺られながら見ているこの街も、思い入れのある西東京の街も、ずっとその先の知らない街も、みなどこかで繋がっていると思うと、なかなかに感慨深いものがある。そんなことを思っていると、あっという間に新宿駅に到着した。

新宿駅で特急あずさとお別れ。

 特急きぬがわの乗り場は少し遠くに位置していて、階段を下りたり上ったりで乗り換えに10分ほどかかってしまう。危ない危ない、あのときケチって快速に乗っていたものなら乗り換えが間に合わなかったかもしれない。とは言え20分の乗り換えなので急いで特急きぬがわの待つホームへ向かう。だが、こういう急いでいるときに限って足止めをくらうものである。おじいさんが京王線のホームはどこかと尋ねてきた。急いではいるものの、見捨てる訳にはいかない。僕は、まずエスカレーターで上へ上がってください。そうしたら南改札から一度出て頂くと京王線乗り換えの看板があるのでそちらへ向かってください。分からなかったら駅員さんが窓口にいるので聞いてください。と伝え、先を急いだ。少々慌ただしい口調になってしまったのが申し訳ない。
 無事に特急きぬがわが止まっているホームに着いた。出発まであと5分。ギリギリだ。親切なことにホーム上に綺麗なトイレがあった。トイレを済ませ、自販機で飲み物を買い、自分の座席に座る。間に合った〜!ひといきつく間も無く列車は出発した。

特急きぬがわ。
かつて成田エクスプレスとして使用されていた車両。

 僕の乗った号車は小さい男の子を連れたお母さん、老夫婦、それと僕の3組だけだった。全車指定席、僕は事前にネット予約で窓側の席を購入した。ネット予約だと3割引きで新宿から鬼怒川温泉までの片道が2860円になる。とってもオトクだ。
 小さい男の子とお母さんの座った席は一列目のシート。どうやらこの席は他の席に比べて窓の大きさが極端に小さくなっている。列車のつくり上仕方がないのかもしれないが、小さい男の子はかなりしょげてしまっている。僕は大きな窓の席を予約していたが、列車に乗っている間はずっと制作をして、たまに外の景色が見れれば良いな、くらいに思っていたので、席を代わってあげようと思った。小さいときの悲しい思い出は以外と歳をとってもしっかり覚えているもので、せっかくの特急なのに景色がよく見えないのはあまりに可哀想だ。とかなんとか考えて声をかけに行こうとすると、車掌さんが現れ、親子の切符を確認すると「後ろの空いている席でも良いですよ」と男の子とお母さんに優しく声をかけた。男の子はとてもニッコリとした表情で大きな窓の席に座った。お母さんもホッとしたようである。良かった、良かった。

最高の制作環境
山手線と並走。ぐんぐん追い越していく。
広々とした座席に大きな窓。
もともと成田エクスプレスとして使用されていた車両ということもあり、ビジネス向きといった感じのつくりだ。

 列車はしばらくの間はJR線を走り、途中から東武線を走る。このルートを列車で通るのは初めてなので、制作はしているものの、チラチラ窓の外が気になってしまう。大宮を過ぎると風景は長閑な田園地帯やら閑静な住宅街やらを通り抜けて行く。まもなくすると左車窓に違う路線が合流してくるのが見えた。JR両毛線との合流、栃木駅に停車した。
 栃木県栃木市の栃木駅。一見するとまさに栃木県の代表駅といったところだが、栃木県の県庁所在地は宇都宮市。代表駅も宇都宮駅である。これには昔からかなり気になっていた。他にも沖縄県は沖縄市があるのに那覇市が県庁所在地、山梨県も山梨市があるのに甲府市が県庁所在地というように、必ずしも県名と同じ市が県庁所在地とはならないようだ。栃木県に関しては、調べてみると昔の廃藩置県の制度が絡んでいるようである。あんまり地理歴史を掘り下げていくとつまらなくなりそうなのでこの辺で終わりにするが、土地の歴史を調べるのは楽しい。(そういや車のナンバープレートはなんでひらがなで「とちぎ」なんだろう...いかんいかんまた余計なことを考えてしまう)
 あれこれ考えたり、ボーッと景色を眺めたり、制作をしたりしていると列車は次第に山の中へ入って行った。放送で「まもなく鬼怒川温泉、終点です」と流れてきた。以外とあっという間だったなぁ...便利な世の中になったものだと思った。(何様だ)

栃木駅でJR両毛線と合流。
長閑な風景が広がる。
列車は山の中へ入っていく。

 鬼怒川温泉駅に到着。向かいのホームには特急スペーシアきぬがわが止まっていた。小さいとき、このスペーシアが大好きでプラレールを買ってよく遊んでいた。今となってはかなり古い特急列車だと思う。しかしまだまだ現役といった感じだ。記念にパシャリ。
 鬼怒川温泉駅の改札を出ると駅前は広い広場になっていた。「鬼」というロゴの入ったのれん、それにど真ん中に大きな金棒を持った鬼の像が立っている。よく考えたら鬼が怒る川で「鬼怒川」とは、なんと恐ろしい川の名だろう。この名の恐ろしさに皆近寄らないのか、それとも今日が平日だからだろうか、駅前は人気がなく閑散としている。そして周りは山で囲まれているせいか、都心にいたときより随分涼しい。それにしても今年の6月は本当に6月なのか疑り深くなるくらい暑くて暑くてたまらない。この分だと7月8月などどうなってしまうのだろうか。

鬼怒川温泉駅に到着。
向かいのホームに止まっていた特急スペーシアきぬがわ
背景に山を望む鬼怒川温泉駅舎
鬼怒太と書いてある鬼の像

 駅前からしばらく道なりに歩いて今回泊まる旅館を目指す。綺麗に整備されて新しく観光地化が進んでいるのはどうやら駅前だけで、街中は結構古い家屋やお土産屋が並んでいる。残念ながら潰れてしまった様子の店も何軒か横切った。 
 20分ほど歩いて旅館に到着。駅前や街中は人が全然いなかったのに旅館は大賑わい。入口で番号札を貰い、チェックインの順番が来たらお呼びするので座ってお待ちくださいと言われた。とりあえず荷物を置いて、高い天井のロビーにあるふかふかのイスに腰を下ろした。まわりを見渡すとご年配の方ばかりである。団体で来ているところもあれば、老夫婦で個人で来ているところもある。平均年齢で言うと70歳くらいだろうか。あとは子どもを連れた家族で泊まりに来ている客が数組ほどで、ひとりで泊まりに来ている大学生など他にいる訳がないといった感じである。ロビーでもまた制作を進め結局チェックインまで40分も待ってやっと番号が呼ばれた。チェックインでこんなに待ったのは初めてかもしれない。制作が進んだので決して無駄な時間ではなかったのだが。チェックインではどの客もみな「県民割で!」と言っている。なるほど、混んでいる理由はそういうことか。となると、この大勢の客は県外からの客ではなく栃木県民ということだな。旅館業界もこのご時世で色々と大変だったのだろう。それを取り返すかのような繁盛ぶりで、県民割の効果は偉大だなと思った。無事にチェックインを済ませて今回の缶詰部屋へ向かう。

高い天井のロビー

 ようやくここからが今回の本題である。前置きの字数を数えてみたらここまでで3600字。前回の伊豆缶詰紀行にも書いたが、前置きが長くなる癖があるにしても少し長すぎたかもしれない。これは文才があるのか(自分で言うな)、それとも文をまとめる能力がないのか分からないが(多分そう)、思ったこと、書きたいことがどんどん溢れてくる。そういった意味でも、僕の脳内を除き込んでいる感覚で読んで頂けたら幸いに思う。
 それに缶詰が本題とはいえ、移動も含めて旅は成立すると考えている僕である。(何を偉そうに...)
 と、心の中で自分にツッコミを入れつつ、部屋のドアを開ける。今回の缶詰部屋は和室12畳!ひとりで使うにはあまりにも広すぎる。だが、広いに越したことはない。そしてまた朝夕にバイキングがつき、温泉もついて1泊あたり約7000円と、かなりコスパのよいプランである。だいぶ古い旅館で建て付けが悪く、なかなか障子戸が開かない。そこもまた味だと思って障子戸を開けると、山が見えた。鬼怒川温泉は渓谷に沿って旅館、ホテルが立ち並んでいるので山がだいぶ近くに見える。そのためか、色々な虫の死骸など窓の外に落ちている。この古い感じ、虫の感じが苦手な人は厳しいかもしれないが、僕はむしろこういったところの方が好きなので嬉しい。

今回の缶詰部屋。和室12畳。
旅館のこのスペース大好き。

 窓を開けると山の匂いがする。山の匂いを身体の隅から隅に届くくらい鼻から深く吸い込んで爽やかな気持ちで制作の準備に入った。
 まずは制作環境のセッティング。家からはライト、図鑑2冊、クッションを持ち運んで来た。前回の「伊豆・缶詰紀行」ではまだ何の制作をしているか公表していなかったが、この「鬼怒川・缶詰紀行」を書いている今はもう公表した後なので"制作"と言わなくても良いかもしれない。前回、そして今回の缶詰は僕の絵本作家としてのデビュー作『古生代水族館』の制作のための缶詰である。
 今回の缶詰はこの『古生代水族館』のイラスト原稿の締切日までの3泊4日を計画した。つまり、絶対にこの缶詰で終わらせなければならない。そして締切に間に合わなければ帰れないという訳だ。伊豆のときより余裕がない状況である。旅館という趣に合わないかもしれないが、これから4日間は自分との格闘になる訳だ。徹夜ももちろん毎日することになるだろう。普段は飲まないようにしているエナジードリンクも持ってきた。気合いは充分に入っている。さぁ、さっそく試合開始...いやいや制作開始である!

 夕飯まで3時間ほど制作。今となっては、最終日に無事に入稿を終えることが出来たのを知っているので淡々と文を書いているが、正直このときはかなり焦りがあった。締切まであと4日なのにまだ5ページ近く未完成のイラストが残っていたのだ。本当に終わるのか...いやいや終わらせなければならない。この『古生代水族館』を発表して皆んなが喜んでくれる未来を想像するのだ。そう言い聞かせ、とにかく手を動かした。もちろん、手抜きはダメだ。制作には常に命をかけて、熱量を持って取り組まねば決して良いものに仕上がらない。こういう切羽詰まった状況でもクオリティを下げることは絶対にしたくない。その信念で制作(もはや先に述べたよう格闘に近いが)をする。

 夕食の時間になった。腹が減っては戦ができぬ、とはまさにこういうときに使う言葉だなと関心した。空腹状態では全く頭が回らない。制作に力を入れるためにバイキングでしっかりと食事をとる。
 少し取りすぎてしまっただろうか...美味しそうなものがたくさんあったので隙間なくプレートに盛り付けた。前回は静岡、今回は栃木なのでメニューも違う。「鯉のあらい」があった。僕の実家新潟でも鯉料理がよく食卓に出てくる。「鯉のあらい」は鯉のお刺身を湯がいて氷水で締めたもので、酢味噌をつけて食べる。これは僕の大好物なので嬉しい。まさか栃木で鯉のあらいが食べれるとは。調べてみると、どうやら福島県の郷土料理らしい。東北地方を中心に食べられているようだ。それとアスパラの天ぷらが美味しい。揚げたてである。天ぷらで好きなのは、タラの芽、タケノコ、アスパラである。山菜や野菜の天ぷらは揚げたてが格別に美味しい。僕は天つゆでなく塩をつけて食べるのが好きだ。その方が素材の味を楽しめる。揚げたてのタラの芽の天ぷらなど美味しすぎて気絶してしまうほどだ。
 小さい頃、夏におばあちゃん家へ行くとよく山菜の天ぷらと冷やした素麺が出てきた。そのあと近くの川で遊んで、スイカ割り、そして夜には花火を楽しんだ。田舎でしか出来ないことだ。あぁ、なんて良い思い出だろう。少し行けば、まわりに山、川、海がそろっている自然豊かな環境で少年時代を過ごすことが出来たのは本当に財産だと思っている。今の作品にはこの経験がとても生きている気がする。絵に描いたような夏休み、僕には当たり前のことだったが大学生になった今振り返ると本当に良い時間だったなと思う。
 郷土料理のかんぴょうの入った味噌汁もまた美味しい。かんぴょうの味噌汁は初めて飲んだが、食感が最高だ。かんぴょうは栃木の特産品である。

夕食バイキング

 そして今日はビールがあるのにお気づきだろうか。アルコールなんて入れて制作出来るのか!?と思われる読者の方もいるだろう。今日くらい許してほしい。今日は僕の21歳の誕生日なのである。誕生日にひとりで旅館とはこれ如何に。しかし、こんな誕生日もまた一興である。僕はお酒がどちらかというと強い方で、沢山飲まなければ酔うことがない。ビール1杯くらいであれば問題ないのである。お酒の中で好きなのは、1位がビールで2位が日本酒、そして3位が梅酒である。普段お酒を飲むぞ!という日はだいたいビールを飲む。小さい頃、冷えたビールを飲んで「くぅ〜最高だなぁ!!!」と言っている大人を見て、何がいいのか分からなかったが今では凄く納得できる。なるほど、このひとときのために頑張れるというわけだ。日本酒も大好きである。特に地元新潟の日本酒はうまい。小さい時からジュースを全く飲まなかったこともあり、僕は甘いお酒が苦手だ。ご飯と一緒にお酒を飲むときは、やはりビールか日本酒が合っている気がする。カクテルやチューハイを飲むくらいだったら、まだジュースの方が良いといった感じだ。その点、梅酒はどこか違うところがある気がする。甘いことには甘いのだが、梅酒はお酒としての美味しさを感じる。全く酒通じゃない僕が語ると色々な方に怒られそうなので、この辺で酒話しは終わりにする。
 そんなことをあれこれと思いつつ、21歳初めての晩餐を楽しんだ。

 夕食のあとは一刻も早く部屋へ戻って作業再開。とにかく進めなければならない。大浴場は夜の12時までやっているので、時間をずらして11時に行くことにした。3時間ほど制作して大浴場へ向かう。僕の缶詰部屋は本館から離れにある別館に位置していて、大浴場までは少し遠くなっている。向かう途中の通路にはマージャン部屋、ビリヤード部屋、卓球部屋、カラオケ部屋といった娯楽施設があり、年配の宿泊者たちがどの部屋でもワイワイと楽しんでいる。そんな光景を横目に見ながら大浴場へ向かう。古い旅館(といっても今回もホテルの類いだが)の通路はたいていカーペットが敷かれているものだ。何年前のものだろうか、しみがついていてかなりの年代物である。こういったところにもまた僕の好きな"レトロ"を感じる。5分ほど歩いて大浴場へ到着。結構遠かった。そもそも今回の旅館は前回の旅館に比べてかなりでかい。迷宮のようだ。渓谷に沿って、高低差のある地形に建てられているので、6階にロビーと入口があり、はたまた本館の6階と別館の1階が繋がっていたりと、なんとも頭がこんがらがりそうな構造をしている。ショーケースには屏風や絵画、高そうな壺が飾ってあり、なかなかにゴージャスなもてなしをしてくれる。
 大浴場ののれんをくぐる。やはり夜11時とあって、大勢の宿泊者がいるものの、湯に浸かっているのは2、3人といったところだ。温泉は少人数の方が落ち着く。そして今回の旅館もちゃんと露天風呂があるじゃないか!しかも前回の旅館より露天露天した露天風呂である。大きな石で囲ってあり、まわりには木々が生い茂っていて耳をすますと川のせせらぎが聞こえる。そしてなんと言っても「匂い」が最高である。露天風呂の扉を開けた瞬間、なんとも言えない山の匂いが僕を包み込んできた。あの夏の河原、少年時代によく嗅いだ匂いだ。涙が出てきそうになる。味もそうだが、匂いというものは思い出とともにしっかりと記憶に刻まれているのだなと、そんな風に思った。懐かしさに浸りながら、湯船に浸かって身体を癒す。
 ここでまた、こんなことを考える。今回で2回目の缶詰紀行だが、僕は凄くこの缶詰紀行に幸せを感じている。またクサイ話しになってしまいそうだが、文豪気取りで缶詰をしている痛い奴ということを自覚している上で語らせて欲しい。 
 旅館での缶詰は「人生の縮図」と言っても過言ではない気がしてきた。まず、旅というのは好奇心をくすぐるものがある。旅は僕の平凡な人生に深い味付けをしてくれた。そして制作という自分の好きなことに熱中して取り組み、食事は好きな料理が食べ放題のバイキング。温泉に浸かって疲れを癒やした後は、カラオケやマージャンといった娯楽を楽しむもよし、大きな畳の上で大の字になって寝転ぶもよし。それが1泊7000円で全て出来るとなったら僕はこれ以上の幸せはあるのかと思う。もちろん、お金をたっぷり貯めてもっと遠くのリゾート地へバカンス旅行などしてみたいし、海外旅行へもたくさん行きたい。けれどバイトで少しお金が溜まったら、缶詰の旅へまた出かけよう、くらいのモチベーションで生きていきたいなと思った。今の僕にはこれが丁度良い幸せなのである。
 物思いに耽っていると、二重の意味でのぼせてしまいそうになったので湯船から上がった。風呂上がりはお決まりの瓶牛乳である。今回の旅館は残念ながらフルーツ牛乳は売っていないが、コーヒー牛乳があったので買った。久しぶりのコーヒー牛乳も悪くない。すっかり良い気分になって部屋へ戻った。
 僕はまた制作を再開させ、3時に布団へ入って眠りについた。

【2日目・3日目】

 8時起床。顔を洗って目を覚まし、朝食のバイキングを食べに会場へ向かう。5時間寝れば結構体力は回復しているものである。
 朝バイキングは大好物の和食メニューを皿に盛り付ける。大根おろし、さばの塩焼き、ひじき煮、切り干し大根、玉子焼き、納豆、冷奴、ほうれん草のおひたし、ご飯、味噌汁、味付けのり、筑前煮。ザ・朝食といったメニューを盛りつけたこの定食は「こた定食」と言ってもいいくらいに僕の中で定番メニューと化している。朝食をしっかりと食べ、朝風呂へ向かうことにした。
 朝風呂は10時までやっているらしい。缶詰紀行では初めての朝風呂である。大浴場へ行ってみると夜よりも混んでいるようだ。そして外の景色はこうなっていたのか!と思った。夜はあたりが真っ暗だったので、うっすらと木々が生い茂っているのがなんとなく分かったが、朝風呂でその様子がはっきりと分かった。青々と生い茂っている。朝風呂は気分が良い。鳥のさえずりを聴きながら湯船に肩までしっかりと浸かる。これで今日も一日頑張れそうだ。部屋へ戻ると10時になっていた。よし、制作頑張るぞ!!僕はのめり込んで制作を進めた。
 実のところ、今回の鬼怒川での缶詰は3泊4日の間で一度も昼食を取っていない。朝、夕の2食バイキングのみで腹を満たした。したがって、外へ昼食がてら気分転換にふらっと、などというイベントが発生しないことを先にお伝えしておく。2日目、3日目はただひたすらに制作をして時間を過ごした。1日あたり15時間くらい制作をしていたと思う。あっという間に3日目の夜になってしまった。急に展開早っ!!!!本当に制作しかしていないから何も書くことがないのである(笑)

 最後の夕食バイキングへ向かう。3回も同じメニューの夕食をとっていると、美味しいメニュー、あまり口に合わないメニューなどの把握がついてくる。
 そして同じように連泊している宿泊客も覚えてくるものである。昨日となりの席で食べていた老夫婦とまた隣の席になってしまった。向こうもきっと同じことを思っているだろう。その老夫婦は仲睦まじく会話をしながら食事を楽しんでいる。おじいさんが会話の中でボケて、おばあさんが笑いながらツッコミを入れているのが面白い。会話を盗み聞きしながら僕はいつもと同じメニューの夕食を食べる。年老いてからもこうやって2人で旅行を楽しんでいるのがとても微笑ましい。
 あたりを見渡すと数組か大学生くらいのカップルで来ている宿泊客もいるようだ。てっきり大学生のカップルは箱根や草津などへ行くものだと思っていた。これまた楽しそうで微笑ましい。
 一方僕はというと、21年間恋愛とは全く無縁の人生を送ってきた。思い返すといつも絵を描くことしか頭になく、恋愛のことなんていっときも考えたことがなかった。親からも友人からも心配されていて、挙げ句の果てには友人に嘘のうわさまで流されるほどである。友人に聞くと、あまりに僕の浮いた話がないため、嘘のうわさでも作らない限り僕が恋愛に興味を持たないんじゃないかと言うことだそうだ。(この友人とは長年の親友なので行きすぎた嫌がらせ等でないことを安心して欲しい)
 気持ちはありがたいが、嘘のうわさを流されては困る。しかし最近は自分でもこのまま一生ひとりなのではないかと、少し心配になってきた。こんなひとりで缶詰をするような人間を好いてくれる人がいたら良いのだが...そんな風に思う。旅先で恋人と楽しさを共有できたら楽しいだろうな、とも思う。もしかしたら僕には少し早いのかもしれない。
 そんなことをアレコレと考えて最後の夕食を終えた。こんなにちょっとしたことで色々なことを考えてしまう性格だと大変じゃないか、と思われてしまうかもしれないが、寝たら忘れてしまう性格でもあるので全く苦労はしていない。

 温泉で疲れを癒やして、いよいよラストスパートの制作に取り掛かる。目標としては夜明けまでに『古生代水族館』のイラストを全て終わらせて、朝散歩に出かける、というふうにした。今回ばかりはエナジードリンクもチャージして、いざ制作開始である。あぁ、長い道のりだった。ついにラスト1枚のイラストを仕上げれば完了。絵本の制作なので、文の構成などまだしなければならないが、とりあえずイラストを描き終えることができれば安心だ。とにかく手を動かし、でも妥協はしないようにと、絵本が発売されたときのことを考えながら僕は無我夢中でイラストを描き進め、朝の4時に最後の1枚を描き終えることができた。

【4日目】

 終わった〜〜〜!!!!!!!!!!!これでなんとか、夏に絵本を発売出来そうだ。水族館をテーマにした絵本なので、どうしても夏休みに発売を間に合わせたかったのだ。そのため、大学の課題やバイトがある中でも必死に描き進めてきた。今こうして長い一仕事を終えたことに、喜びと安堵を噛み締めて、よく頑張ったと自分に言い聞かせた。少し興奮状態でもあったので眠気はない。それに今から寝たところでチェックアウトをすっぽかしてしまう可能性がある。
 僕は気分転換と少しの観光をと思い、カメラを片手に早朝の鬼怒川温泉の街へ散歩に出かけた。

あたりはまだ薄暗い。ホラー映画のワンシーンのようだ。

 外へ出るとまだ日が昇る前で、うっすらと山の輪郭が見えるほどである。渓谷の街ということもあり、霧がかかっていてホラー映画のワンシーンのようなサスペンス感がどことなく漂っている。鬼怒川温泉は廃墟の街としても有名で、その廃墟群がこれまた早朝の薄暗さや霧と相まって、異世界へ連れて来られたような感覚に落とし込んでくる。しばらく歩くとだんだんあたりが明るくなってきた。
 大きな橋が川にかかっているので渡ってみる。この橋の名は「ふれあい橋」というそうだ。名前に反してこの橋もなかなかにサスペンスな雰囲気を醸し出している。手すりをしっかり握って橋から少し下を見ると20m近く高さがあるだろう、ゴゴゴゴゴと物凄い音を立てながら勢いよく川が流れている。心臓あたりがヒヤッとする。ジェットコースターに乗ったときのあの感覚である。恐ろしい、、、なるべく橋の真ん中を歩くことにする。渓谷に沿って沢山のホテルが立ち並んでいる。とても良い眺めである。何度も言っているが、僕はこういう高低差のある地形が大好きだ。高低差フェチとでも言った方が良いかもしれない。地形を観察するのが趣味と教授に話したら面白がって話に食いついてくれたが、友人にはあまり理解されていない趣味である。あたりを写真にパシャパシャとおさめる。カメラを買ってからというものの、人生の豊かさがかなり上がった気がする。カメラを持って歩いているだけで、普段は気にしないようなものにも目が届き、観察力が鍛えられた気がする。

鬼怒川にかかる「ふれあい橋」
渓谷に沿って旅館が立ち並ぶ。
山、川、橋、建物、何もかも巨大。
スケール感に圧倒される。

 橋を渡って渓谷沿いの道をまた進んでいく。橋の付近と比べて周りにたくさんの廃墟が立ち並ぶようになってきた。廃墟というものはどこか人を惹きつけるものがある。廃墟好きな人は結構たくさんいるようで、廃墟の写真集など本屋さんへ行くとよく見かける。古い温泉街へ行くとたまに廃墟に出会うことが出来るが、この鬼怒川温泉の廃墟は規模が全然違う。物凄い数の廃墟が今もまだ取り壊されることなく、かつての活気が戻るのを待ち侘びるかのように佇んでいる。窓や壁はボロボロで、いつ崩れ落ちてもおかしくない様子だ。蜘蛛の巣が絡み合って、建物の中にまで植物が侵入している。よく見ると、当時使っていたソファや机、看板などもそのまま残っているようだ。こんなにもボロボロになってしまったが、ひと昔前までは沢山の宿泊客で活気に満ち溢れていたことを想像すると、胸のあたりがキュンと苦しくなった。なぜこんなにも廃れてしまったものに魅力を感じてしまうのだろうか。言葉では言い表せないような、なんとも言えない気持ちになる。

山に佇む鉄塔
どことなく不穏な空気が漂う温泉街。

 バブルの残骸に溢れた街、鬼怒川温泉。僕はこの街をとても気に入ってしまった。この朝散歩だけで、充分すぎるくらいの観光になった気がする。正直のところ、イラストを描き終えたときの感動よりも廃墟群を目の前にしたときの感動の方が強かった。圧を感じた。たまにこういった刺激を身体に取り込むことは大事なことである。夢中で廃墟の写真を撮りながら旅館へ戻った。

コーヒーショップと書かれたこの店は、かつてどんな賑わいを見せていたのだろうか。
あまりにも彩度が低い景観。
空も、地面も、建物も、みな同じ色をしている。
建物に植物が侵入している。神秘的な美しさを感じる。
とにかく坂が多い。高低差好きにはたまらない。
霧が良い演出をしてくれている。
早朝は人もいなく、撮影にはもってこいだ。
ボロボロになったホテルの看板

 最後の朝風呂でひと汗流し、最後の朝食をしっかりと食べ、清々しい気持ちで部屋へと戻る。
 部屋へ戻ると少し遅れてイラストを描き終えた感動がやってきた。ついに、ついに描き上げたのだ、僕は絵本作家になるのだと。21歳で絵本作家デビュー。これは早いように聞こえるが、僕は物心ついた時から毎日ひたすら絵を描いてきて、上手くなるために、いつか作家として食べていけるようにと、練習もひと一倍してきたつもりだし、制作には常に全力で取り組んできた。そういうふうに思うと、10年以上の長い長い下積み時代である。しかし僕の絵本作家人生はまだ始まりかけたところにすぎないので、ここからが肝心だと自分に言い聞かせ、それでも無事にデビュー作を描き終えたことの喜びを噛み締めた。

 鬼怒川温泉、4日間ありがとう。きっとこの思い出は生涯忘れることがないだろう。

再び特急きぬがわに乗って新宿へ帰る。
最終日のこの日はよく晴れていた。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!

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