第ゼロ章 ワーホリを決めた夜。
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2016年9月、僕は金沢にいた。見知らぬ外国人が隣に座り、僕はただ、ひたすらに英語という未知の言語を聞いていた。
今振り返ると、この時に僕のワーホリは始まっていたのかもしれない。
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2016年8月、精神的に追い込まれて会社を休職。社長と話をして、しばしの時間をもらった。
当時の僕は地元のインテリアショップで働いていた。最初こそ順調で、だんだんと売り上げもあがり、お客様からの信頼も得られるようになってきた。
それと同時に、会社からのプレッシャーにどんどんと嫌気がさしていた。直属の上司ともうまくいかず、プライベートでは恋愛もうまくいかずに、もう全てが嫌になった。
たぶん、時間にして3ヶ月くらいだったと思う。だんだんと追い込まれていって、夜寝るのが嫌になった。
夜寝たら、それは朝が来る事を意味するからだ。
当然、朝も気が重い。会社なんて燃えてなくなればいいのにって本気で思ってた。
8月のお盆に向けて長い期間準備をしてきた、自分で立ち上げたイベントを終わらせた翌々日から、2ヶ月間の休みをもらった。
当時は地元でひとり暮らしをしていたので、会社を休んでからは家から出ることもなく、誰と会うこともなく、ひとりでずっと布団にくるまっていた。
社長のススメで地元の病院こそ行っていたが、それさえもめんどくさくて、何かと適当な理由をつけて、行かなかった日もある。
病院での診断は鬱病だった。
仲の良い友達がそんな俺を見るに見かねて、ラーメンに誘ってくれたりもした。友達と話している時は、何事もないように振る舞っていたけど、自分の情けなさと、これからの不安に胸は押しつぶされそうだった。
僕は小さい頃からストレスに弱かった。精神的にも弱かったんだと思う。
小学生の時は、とにかくトイレに行くし、ずっと緊張していたのか、まばたきがおかしかった。公文の先生にトイレのことを心配されて、親を呼ばれ、いとこにも、「こーた、まばたきが変だよ?」と言われたのをハッキリと覚えてる。
異常なまでにまばたきの回数が多かったのだ。
中学に上がってもストレスには弱かった。途中から髪の毛が抜け始めたのだ。たぶんだけど、これもストレス。
母親に皮膚科に連れてかれたけど、原因不明。今思うと、この時は精神科に行くべきだった。
学校に行きたくないなぁと思っていた事もあったけれど、そんな事は親には言えなかった。それに、友達もみんないいやつで、いじめられるような事もなかった。
学校に行かなくなる事で親ヘの心配もかけられないとも思ってた。今思うと、友達のその優しさと、親へ心配をかけまいとするその心がストレスの原因だったのかなって思う。
中学時代は、帯状疱疹がでた。顔全体と、歯の神経と、喉の奥まで出るめちゃくちゃひどいやつ。歯が痛くて親戚の歯医者に行ったら、皮膚科を紹介されて、疑問をもったまま皮膚科へ。
ストレスが原因で、神経系に異常があった。それが帯状疱疹という形で出てきた。
髪の毛は無い、顔はブツブツだらけ。ずっと帽子をかぶって、マスクで顔を隠して、見た目は完全に重病人。
もう最悪だった。それでも学校を休んだのは1日か2日だけ。
学校に行けさえすれば、親は心配しないと思っていたから。行きたくなかったけど、学校へ行った。
高校にあがると、少しずつ回復してきた。嫌な事はしない!と決める事が出来たからだ。
周りに流れないぞ!という覚悟ができる年齢になってきのだと思う。
部活の先輩が嫌いだったので、親には怒られたけど、関係ねぇ!と啖呵切って即退部。勉強したいとかいう、もっともらしい、それでいてすぐ見破られるであろう理由をつけて、顧問に退部の意思を伝えた。男子トイレで。
それから、やりたい事をやる。やりたくない事はしない。という反抗期に入った。
ちなみに、その反抗期は今でも真っ盛りだ。
定期テストの勉強なんかしないでM1グランプリを見ていたし、部活も辞めたから毎日ゲーム三昧。モンハンとポケモンにハマってた。
その時の友達は今でも親友だ。高校卒業後、そいつはアメリカに4年間留学。今では外資系企業で立派に働いている。
もちろん受験勉強なんかこれっぽっちもする気もなく、「大学なんか行かねぇよ!めんどくせぇし。」が口癖だった。
インテリアに興味を持ち始めたこともあったので、進学先は東京にある専門学校。とにかくその時に興味がある事、やりたい事だけをし続けようって、18歳のこの時から思ってた。
おかげで、高校2年生の時には髪の毛も元どおり。
専門学校ではニキビに悩まされたけど、はじめての彼女もできて、順風満帆。一目惚れで付き合えた彼女には結局振られたけど、その後の就活もうまくいって、卒業制作では銀賞。キャンパス内では金賞を獲得。
この頃はやることなすこと全てがうまくいっていた。
20歳の時に、新卒で某大手住宅メーカーに入社。結果としては、やりたくない部署に配属されて2ヶ月で辞めた。
人事にはどやされたけど、少しも後悔は無い。あの時辞めたから出来た経験がたくさんあったから。それは辞めなくても同じかもしれないけど。
この時も、絶賛反抗期中。飛び込み営業なんかやってられるか!と、朝礼後家に帰って、寝てから、夕方会社に戻って、また家に帰る。なんて事もしてた。
その後何度か転職を繰り返して、地元のインテリアショップへと繋がる。
転職を繰り返すたびに、給料は上がったり下がったり。3ヶ月間無給だった時期も実はある。
そんな時のストレス発散法は、女の子。20〜22歳の時の僕は、とにかくナンパをしたし、風俗、デリヘル、爆発する性欲にストレスのはけ口を求めた。
女の子をいかに落とすかゲームを友達としていたし、今思えば本当最低だよ。今だから言えるけどね。
地元に帰って、インテリアショップに就職したら、それも落ち着いてきた。たぶん実家の安心感がストレスを和らげてくれたんだと思う。
彼女もできて、仕事も順調。順風満帆な年だと思ってたのが2015年。
その1年後に海外行きを決めるなんて夢にも思っていない時期だった。
この時は地元で富士山を撮るのにはまっていて、毎週のように富士の麓へ車を走らせた。
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そして2016年8月末、休職中。いつものように布団にくるまっていた僕は、言葉にできない焦燥感に襲われて旅にでた。
19歳の時にスタートした旅。仕事を普通にしながら、長期休みを利用して日本全国いろいろなところを回った。
転職の隙間に九州へ行ってみたり、夏休みをフルに利用して、西日本一周をしてみたり。
僕にとって、旅は生きがいだった。人と一緒に過ごす事が嫌になっていたこの時期でさえも、旅に出て、いろいろな人と話せば回復するんじゃないかって、僕の大好きな旅に出たら元に戻れるんじゃないかって、思えた。それは、半ば旅にすがるような気持ちだった。
でも実際は旅に出ても、人と話したいとは思わなかった。
時期が時期だったので、何回も大学生に間違えられて話かけられたりもしたけど、この人たちと話したいなって思う事もなく、適当に返事を返していた。
あの時声をかけてくださった皆さん、すみませんでした。
ちなみに、この時の旅の行き先は、北陸・東北一周。
特に見たいものがあったわけではないけれど、行ったがなかった場所だったし、全く知らない土地で、全く知らない人達となら普通に話せるかもって思ってた。
新しい友達こそ出来なかったけれど、人生を変える出会いがあったのが、金沢だった。
金沢についた僕は、車中泊に疲れていた事もあり、その日の宿を探していた。
いつも旅する時のように、インターネットを開いて金沢の宿を検索。旅をする時はいつもゲストハウスに泊まると決めていた。何より安いし、同じように旅が好きな人に出会えるからだ。
そんな僕のお気に入りのゲストハウスは「古民家」。もともと建築とかインテリアが好きで、その業界で仕事をしていたし、その業界に興味をもったきっかけが、古民家だった。
今もそうだけど、とにかく日本の古民家が好き。金沢の夜も良さげな古民家ゲストハウスを見つけたので、そこに宿泊をした。ここで、人生を変える経験をすることになる。
兼六園と21世紀美術館を後にした僕は、夕方宿にチェックイン。宿の説明を一通り受けて、6人部屋に案内された。
観光シーズンからは少しずれていたので、同じ部屋にいたのは、僕と、一人の日本人と、一人の外国人。
みんなベッドのカーテンを閉じていたので、この時は誰とも話すことなく、夜の金沢へ出かけた。
宿で自転車を借りて、金沢の夜の街をひととおり撮影。途中で雨が降ってきたので、楽しみにしていた金沢カレーを食べて宿へ帰った。
この時の旅は、完全なる勢いで出てきたので、計画は何も無し。
翌日の予定を夜に決めて移動するという繰り返し。
決めることさえもめんどくさて、その日の朝まで決めていないことも多々あった。
金沢ではゲストハウスで情報をたくさん得ることができそうだったので、共有リビングへ降りていった。
降りていった時は誰もいなかったリビングに、能登出身のオーナーがやってきてくれた。
以前から、能登半島一周をしてみたかったので、オーナーにオススメスポットを聞いて、次の日は能登を一周して、富山に抜ける計画を立てた。
そんな時、同室の外国人もリビングに降りてきた。
何か聞きたいことがあったようで、オーナーと英語で会話をしている。
オーナーが流暢に話す英語がかっこよかった。そして目が合った僕と短髪イケメン外国人。彼がどこの国から来ていたのかは結局分からなかったけど、おそらくヨーロッパのどこかだと思う。
当時の僕にとって、英語なんてものは未知の言語だったので、いきなりの「How are you?」にどきまぎしたのを鮮明に覚えている。
なんとか「I'm good」と返して、その場を乗り切るも、彼は僕の隣に腰を下ろした。
彼と話してみたい気持ち半分、英語を話せない恐怖半分。海外に行こうなんて、この瞬間はまだ思ってもいなかったし、元々がビビリな僕。
その場に自分がいる事がストレスだったし、ただただ時間が過ぎてくれって思っていた。言葉が分からない事は、こんなにも怖いんだって思った。
それでもオーナーに通訳をしてもらいながら、3人でコミニュケーションをとった。
なんとか会話についていくような形で、様々なことを話した。
でもその話した内容は、緊張をしていたのか、まるで覚えていない。
ただ、ひとつだけ覚えているのは"悔しい"という感情。
もともと旅先で人と話すのが好きだった僕は、外国人の彼が、日本に興味を持ってこの地に来てくれているのに、彼の言葉を彼の言葉で理解することができなかったことが悔しかった。
彼がどこの国の人か今はもう分からないから、もしかしたら、英語は彼にとって第二言語だったかもしれない。でも少なくとも、当時の僕にとっては"英語を流暢に話す外国人"だった。
そして話をひとしきり終えて、外国人が立ったその瞬間、今でもすごく不思議だけど、海外へ行こう!って「決めた」。
なんの迷いもなく、海外に行きたいと「思った」わけでもなく、ただ「決めた」。
今あの時のことを振り返ってみても、人生を変える決断だったろうに、なんの躊躇もなく決めたのは、精神的な疲れのせいで、どこか頭のネジが飛んでいたからだとしか思えない。
日本社会からも、逃げたかった。
それまでの僕は海外に興味なんてなかった。
兄貴はアメリカに6年近く行っていたし、妹はフランスへ短期留学、いとこもハワイで短期留学、さっき話した地元の親友もアメリカに4年留学と、海外勢がこんなにもたくさん身の回りにいたのにも関わらず、海外なんか行かねーよ!俺は日本が好き。と豪語していた。
そんな僕が、どこの国の人かも分からない外国人と出会ってしまったおかげで、良くも悪くもサクッと海外行きを決めてしまったのだ。頭のネジが吹っ飛んでたとしか言いようがない。
ワーホリを決めた金沢のゲストハウス白。翌日の朝。
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翌日は予定どおりに宿を出発。順調に能登を回って、富山県へ。
その後の旅も順調で、日本海沿いを新潟・山形・秋田・青森と北上していった。どうせ東北に行くなら、本州最北端まで行こうと決めていたので、大間崎を目指してひたすらハンドルを握った。
大間崎について目標達成のご褒美として、大間のまぐろ丼をいただいた。
大間からの予定は決まっていなかったので、とりあえず近くの道の駅で車中泊。真っ暗な車の中で考えていたのは、海外生活についてだった。
そして、青森の道の駅で寝ていたその日、旅を切り上げてワーキングホリデーの説明会へ行くことを決めた。
岩手の平泉・宮城の松島だけは絶対に寄りたかったので、その2つへのルートを検索して、最短で地元に帰る日程を組んだ。
岩手から宮城へ抜ける時、たしか台風16号が猛威を奮っていて、至るところで土砂崩れ。
太平洋側を南下する予定が、内陸を通過していくプランに変更を余儀なくされた。
もう心の中では、ワーホリで海外へ!だったので、ちょっとした遠回りも嫌になっていた。
岩手の道の駅で巨大台風をやり過ごし、無事松島に到着。これで日本三景を制覇することになる。コレクター魂が松島を避けることを許さなかったのだ。
無事松島の景色をカメラに収め、その後、福島で一晩車中泊、栃木を抜けて、地元の山梨まで一気に帰った。
僕のこれからの人生を一変することになった旅が終わった。
まさか、自分でも海外行きを決意して、ひとり暮らしのあの寂しい部屋に戻ることになるとは思わなかった。
ただ、今のままじゃやばいと思って家を飛び出して、大好きな旅をとおして元気になれたらな。くらいにしか思っていなかった。
今思うと、会社でうまく立ち回れなくなったのも、彼女と別れたのも、心を病んで旅に出たのも、全てのタイミングがバッチリはまっていたんじゃないかと思う。
「人生を変えなさい」「ここから逃げてもいいんだよ」っていう、天の声だったのかなって。
そしてその天の声こそ、僕自身が心の奥底で叫んでいた、本当の気持ちだったんじゃないかなって思ってる。
名前も、どこからきたかも分からない外国人のおかげで、僕は自分の心の声に気づく事が出来た。
いや、本当は気づいていた自分の心の声に、やっと目を向ける事が出来るようになった。
だから海外に来るのに、英語を話したいとか、外資で働きたいとか、そんな立派な理由はなかった。
ただ今の現状から逃げ出したかった。
あとはわずかばかりのオーストラリアを旅してみたいって気持ち。
ラウンドはずっと描いている目標のひとつかな。
この時の旅ほど忘れられない旅はない。きっとこの金沢の夜は一生忘れることはないんだろうなって、とても大切な記憶として、今も心の中にしまってある。
この旅が無かったら、僕のワーホリは存在しなかった。僕のワーホリは、この2016年9月からもう既に、始まっていたのだと思う。
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◁ プロローグ
第一章 到着後の不安とワクワク ▷
2019.4.8 公開
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第ゼロ章、いかがでしたでしょうか。
オーストラリアワーホリでは、最大2年間(2019.7月以降は3年間)滞在する事ができます。でもワーホリはオーストラリアに来てから始まりじゃない。準備も含め、行く前の不安や期待も全部ひっくるめて、ワーホリは始まります。
オーストラリアへ実際に渡る前の気持ちはすごく大事です。その瞬間の不安も恐怖も抱きしめてあげてください。
この本(note)やこの章の感想をTwitterやInstagramで呟いていただけると嬉しいです。全てRTしたいですし、ぜひリプでお話ししたいです。
この本をにきっかけに、ワーホリに悩む人や頑張りたい人、頑張っている人etc.ワーホリや海外へ行く、たくさんの方と繋がりたいと思っております。
ぜひ、一言で良いので、感想等を頂けると幸いです。
どうぞよろしくお願い致します。
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こーた
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