人の出会いが必然である理由。
君と私がクラスが一緒だったのも、あの日病院にいたのも、偶然じゃない。運命なんかでもない。君が今までしてきた選択と、私が今までしてきた選択が、私達を会わせたの。私達は、自分の意思で出会ったんだよ。
--- 君の膵臓をたべたい 住野よる
これは、「君の膵臓をたべたい」という小説の一節。
膵臓の病気で、余命宣告をされた桜良と、ふとしたことからそれを知ってしまった、クラスメイトの男の子のお話。
恋愛小説に分類される小説だと思う。
でも、これは高校生同士のフレッシュな瑞々しい恋愛を描いたものではない。
深い深い人間の姿を描いた作品だと思う。
死を身近に感じるし、人との関わり方を考えさせられる。自分という人間の価値がどこにあるのか、それを作るのは誰なのか。
全人類に平等な時間。死。今。
それを考えさせられる作品だ。
でも、今日書きたいのはそういう事ではない。この話は、また別のnoteで話したいと思う。
今日書きたいのは、「人との出会いが必然である理由」を見つけたからだ。
結論から言ってしまえば、noteの冒頭に引用した文に集約される。
僕は人との出会いを大切にしたいと思っている。
それは、旅をするようになって気づいた事であって、社会に出てから強く思うようになって、オーストラリアにきて、より強い確信に変わった事でもある。
そして、その出会いは、必ず必然だと思っていた。
僕と出会った誰かは、出会うべくして出会ったと思っている。
僕と出会うだけじゃない。
街を歩く家族、友達、カップル。
その彼ら全てが、必然の出会いで結びついている。
だけど、今まではどうしてもうまく言葉に出来なかった。
心ではそう理解しているけど、それを言葉に出すことができずに、少しだけもやもやしていた。
必然なら、必然なりの理由があるはず。
それをずっと探していた。
そんな時に出会った言葉が、上に引用した文章だ。
僕らは、どんな時も自分の選択で生きている。
一見、周りの環境に影響をされてしまったような状況であろうと、それを選ばないという選択だって出来るはずだ。
僕らは、自分の人生しか生きることは出来ないのだから。
母親から生まれる時でさえ、そう思える。
子供を作ろうと思ったのは、両親の選択かもしれない。
だけど、この世に産み落とされるその瞬間、僕らは"生"を選んだのではないだろうか。
そして、今まで出来た友達、恋人、過ごした時間、行った場所、全ての経験。
それらは、全部自分の選択によるものだ。
その選択が、別の誰かの選択と交差したところで、僕らは出会う。
僕がオーストラリアに来る選択をしていなかったら、絶対に出会うことの無かったであろう人達はたくさんいる。
むしろ、ほとんどがそうじゃないか。
Twitterをやっていなかったら、Instagramをやっていなかったら、もはや、SNSを作ると選択した人がこの世に存在していなければ、出会うことの無かった人はたくさんいるだろう。
全ての人の選択が交わる点に、僕らの出会いが隠されている。
全ての人が自分の意思で選んでいる以上、それを偶然とは呼べない。
立派な必然だ。
人との出会いが必然である理由を僕はやっと見つけることができた。
そして、今までの選択が間違っていなかったと、自信を持つことも出来た。
もちろん、違う選択をしていても、同じ事を思ったろうと思う。きっと。
でも、今生きている僕の世界は、僕が選んだ世界なのだ。
そして、きみの生きている、きみの世界は、きみが選んだ世界なのだ。
きみと僕の選択が交わる時、僕らは出会う。
その瞬間を僕は、ずっと大切にしたい。
こーた
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