人生に勝ち負けがあるとして。
それはどうやって決めるのだろう。
そもそも決める必要があるかどうか、という問いはさておき。
いつか、父と話していたときのこと。
「おまえは勝ち続けてきた人生だから」
と言われたことがある。
自分としてはそんなつもりもなかったので、なにを見て父はそう言っているのだろうと不思議に思った。
何かで日本一や世界一になったこともなければ、挫折を味わったこともある。「勝った!」と喜びに浸った経験は数えるほどもない。と思っている。
思い出すのは、負けた苦い経験の方が多かったりもする。
しかし父が言いたかったのは、五体満足で生まれ、勉強も運動も人並みにでき、自分で人生を選んでこれたのだから、といった意味のようだった。
確かにそう言われると、否定はない。
いままでの人生に感謝したい気持ちにもなる。
ただ、まだ疑問も残る。
そうでなかった場合はどうなのだろう?
五体満足ではなく、勉強や運動ができず、自分で人生を選んでこれなかった場合。
この3つの要素が続くと流石に、しんどくも思えてしまうけれど、それでも幸せに生きられる場合もあるはずで。それくらいに幸せのカタチは人それぞれだと思っている。
話は戻って、そうでなかった場合のこと。
わたしには兄がいる。
生まれたときから身体がわるく、何度も入退院を繰り返したという。また、育つにつれて難聴であることも判明した。大人になってからも、生まれつきの身体の不調が見つかり手術をしていた。
しかしそんな兄と、父と焚火を囲んでいたときのこと。「自分の好きなところ」というテーマで話をしていて(ここだけ見ると不思議な男たちにも見えるけれど)、わたしは答えに悩んでいた。あまり「好きなところ」に対する答えを持っていないのだ。
兄は違った。
「耳が聞こえないところ」
と答えたのだった。
耳が聞こえない人生だったから出会えた人がいる。
耳が聞こえないからこそ出来た経験もある。
だから自分は、そんな耳の聞こえないところが好きなのだと。
素直にすごいなと思った。
おまえは勝ち続けてきた人生だと父が言っても、自分の好きなところに悩む自分。
一方、父の言う勝ち続けてきた人生とは違う方向だったとしても、それを好きだと言えた兄。
純粋に、素敵だなと思った。
人生に勝ち負けがあるとして、それは自分の人生を、愛せるかどうかだと思う。
結局は自分が決めるものだ。
その愛し方を、兄は知っていたのだろう。
ここまで書いて、ふと気づいた、自分の好きなところ。
それはいのちを愛せることではないかと。
書きながら、猫がすり寄ってきて、愛らしく思った。
兄を、すごいなと、素敵だと思えた。
そんな自分を好きになってもいいんじゃないかと思えた。
そんな、自分の人生が勝ちに近寄った思考の変化。
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