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私を 想って 第一話

あらすじ

 高校二年生の鮎沢鞠毛あゆさわまりもは自分の名前について悩んでいた。
 でも、不器用な性格もあって相談できる友達はいない。
 父、正臣まさおみの再婚相手の涼花りょうかと認知症のかずと暮らしはじめることになった矢先、父が家からいなくなってしまう。
 父が失踪してから一ヶ月がたった夏休みの前夜、少し気になっていたクラスメイトの山中篤人やまなかあつとから
「おじさんの失踪を一緒に探そう」と言われたのだが、どうしても乗る気になれない。
そんな中、「あいつが息子を殺したんだ」と和が暴れ出す。
家族が心に抱えていた秘密とは……。
新しい環境、父の失踪、気になる人に素直になれない自分。
生きづらさを感じながらも、自分の居場所を探していく――。

 思春期特有の悩みなら数年我慢すれば解決するけれど、
 私の悩みは一生続くと思う。

「鞠毛さん、そろそろ晩ご飯にしましょう」
 私は台所から呼ぶ涼花さんに「はい」と返事をして、通知表を手にとった。
 気が滅入る。その原因は、通知表の中身ではない。表紙に書かれた自分の名前だ。
 鮎沢鞠毛。
 やっと馴染んできた名前であると同時に、ずっと私を悩ませてきた名前。そしてこれからも悩ませ続けていくのだろう。この名を目にする度、どうして『毛』なの。『藻』じゃダメだったのか? と思う。 
 まりも。
 音の響きは可愛らしくていい。でも、漢字がそれを台無しにしている。だけど自分で名前を変える勇気も気力も無い。
 この漢字のせいで、小学校では男子に卑猥な言葉でからかわれた。一部の下品な男子からは、不本意なあだ名で呼ばれ続けてきた。
 女子の友達は「鞠毛ちゃんが可愛いから、相手をして欲しくてからかっているんだよ」と言ってくれたが、断じて違う。
 からかってくる男子の声の中に、少しでもそんな成分が含まれていれば私だってここまで自分の名前を憂鬱に感じることはなかった。
 使われている『毛』という文字の強烈な印象が、相手の意識から消えないだけだと思う。

 私が三歳のとき、母は病気で死んだ。そう聞いている。詳しいことは知らないけれど、そのため、私は父の男手一つで育てられた。
 父はトラック運転手で、家にほとんどいない。寂しいという気持ちもあったのかもしれないが、いつの間にか感じなくなっていた。それよりも、自分一人でなんとかしていかないといけない。その意識の方が大きかった。
 小さい頃の記憶もあまりない。本当に催眠術で記憶を消去したように何もない。私が過ごしてきたであろう幼い頃の写真もないのだから想像もできない。
 父が休みの日に、一緒にラーメンを食べに行ったことは覚えている。近所のスーパーにあったイートインコーナーのお店だ。人がたくさんいてカラフルな壁紙を見つめ、安っぽい揚げ物の匂いが漂う中、他に客のいないテーブルで父と食べたラーメン。イスに腰掛け、足をぶらぶらさせていた。小学校に入る前のことだと思うが、いつのことなのか記憶は曖昧でハッキリしない。
 いつもは無口な父が「おいしいか」と何度も話しかけてきたことを覚えている。
 週の大半は父が留守にしていた為、借家と同じ敷地内にあった大家さんの家で、ご飯をもらっていたことはうっすらと覚えている。ガヤガヤとテレビや人の声がいつも聞こえていた。大家さんは一人で暮らしているおばさんでいつも目はギラギラとしていて怖かった。大家さんと一緒に食べた食事より、たまに父と食べに行ったラーメンの方が記憶に残っている。よくわからない音楽がぎゃんぎゃん鳴っているのに父には音が聞こえていないみたいに私を見たり時々ぼうっとどこかを見つめていた。

 あの頃の私は、食事のとき以外狭い借家で何をして過ごしていたのだろう。テレビをつけてぼんやり過ごしていたのだろうか。
 次に覚えているのは、小学校に入ってから。名前のことでからかわれた記憶だ。
 国語の授業で『毛』の漢字を習ってからは、自分の名前で嫌な思いをし続けてきた。
 父の無口が遺伝したのか、しゃべる相手がいない環境で育ってきたからか、私も無口な子供に育った。名前のことでからかわれても、何も言い返せず、ただ嫌な気持ちだけがべっとりと残りその気持ちは消えることなく、かといって吹き出すこともなく、私の心の底で押しつぶされ、腐葉土のように重なり溜まったままだった。

 名前に不満を持っている。
 父はこのことを知らない。私の名前を嬉しそうに呼ぶ父に、打ち明けてはいけないことだと子どもなりに感じたからだ。
 でも今なら、不満をぶつけるのではなく、自分の名前の由来を父に聞くことができる。少しだけ興味も伴っているのは、私が成長したからなのかもしれない。
 この先もこの名前で生きていく。これまでの嫌な思いも全て引きずったままで。
 なぜこの名前になったのか。納得はできないだろうけど、事情を知りたい。できることなら、理解もしたい。
 それなのに、肝心の父はここにいない。
 だから、私の名前が『毛』である理由は謎のままだ。

 部屋を出た。しん、としていて、中学の修学旅行で行ったお寺を思いださせる細長い廊下をゆっくり歩いて台所に向かうと、キュウリの青い匂いが漂ってきた。
「おまたせしました」
 台所に入ると、涼花さんと和さんはすでに席に着いていた。父の席は今日も空いている。この席で父が座ってご飯を食べたことはあっただろうか。上手く思いだせない。
 年季の入った木造家屋だからか、キッチンよりも台所と呼ぶ方がしっくりくる。天井まである作り付けのガラス戸棚の中にある皿の数は、住んでいる人間よりも遙かに多い。
 デザインよりも頑丈さを優先させた食卓には、そうめんと、豚肉の冷しゃぶ。錦糸卵の横のスライスされたキュウリとトマトは、さっき畑からとってきたばかりだろう。
 終業式のあった今日も猛暑日だったから、さっぱりしたメニューは嬉しいが、女三人で食べるには量が多い。明日の朝食もそうめんになりそうだ。
 だけど、誰かが作ってくれる食事はとてもありがたいものだし、何より涼花さんの料理は美味しい。文句を言っては罰が当たる。
 通知表を空いている父の席に置いて、自分の椅子に座った。
「いただきます」
 三人で手を合わせ、箸を手にした。

 この家で暮らすようになってから、涼花さんのお店が休みの日の夕食は、家族そろってとっている。家でも学校でも食事のときは一人だったから、最初は家族で一緒に食事をとることに違和感があった。食べている姿を見るのも見られるのも気恥ずかしく落ち着かない気分だったけど、だいぶ慣れてきた。
「一学期お疲れ様でした。受験は高校二年の夏からスタートって聞くけど、どうなの?」
「夏休み明けに、進路希望調査があるみたい。田舎の学校だからかな。何もかものんびりしています」
 涼花さんからは「敬語で話さなくてもいいよ」と言われているけど、はいそうですかと、すぐに敬語を追い払うことは難しい。そのため、変な言葉使いになってしまう。
「鞠毛さんは、将来なりたい職業とかあるのかしら」
「……特にない、かな」
「やりたいことが見つかったら教えてね。全力で応援するから」
「今日は、まぁちゃんの好きなものばかりだね」
「そうだね」
 涼花さんとの会話に突然割り込んできた和さんに一瞬緊張したあと、涼花さんが答えた。
 和さんが話し始めたら、そこで涼花さんとの会話は終了だ。それがこの家のルール。涼花さんが申し訳なさそうに私に微笑んだ。
「お母さん、まぁちゃんの好きな物ばかり作ってくれて、ありがとね」
「和ちゃんもたくさん食べてね」
 和さんは、涼花さんのことをお母さんと呼ぶ。涼花さんはそれに合わせて、和さんのお母さんを演じる。
 この光景には、まだしばらく慣れそうにない。最初に遭遇したときは驚きのあまり声が出なかった。
 和さんは認知症だ。記憶の混濁が見られるらしい。それが原因で、涼花さんをお母さんと呼ぶ。症状としては軽い方だと聞いている。
 それと同じように、私は和さんから、まぁちゃんと呼ばれている。
 和さんの記憶が娘時代に戻ってしまっているようだから、私のことを、昔の知り合いか友達と間違えている可能性が大きい。
 名前が鞠毛だから、まあちゃんなのかもしれないが、『マリモ』の愛称が『まあちゃん』なのは、少し無理があると思っている。
 その前に、和さんが私という存在を理解しているのか。そのことも不明だった。
 和さんは、食事も着替えも、トイレや風呂といった日常生活を、一人で行うことができる。身なりに乱れたところもない。それだけに、初めて見たときは、八十近い和さんが、三十以上年下の涼花さんをお母さんと呼ぶことが、奇異に映った。認知症のことはよくわからない。近所の人が心配して和さんに話をしに来てくれたり病院に行ったり、ヘルパーさんが来る日もある。私は何をしていいのか分からず、大体その様子を静かに眺めているだけだった。
 食事のあとの片付けは私の担当で、それがこの家で唯一と言える私の仕事。
 涼花さんは申し訳なさそうにしているが、この家に来るまで私が家事をするのは当たり前のことだったから、かえって手持ち無沙汰なくらいだ。
 和さんは食事のあとは風呂に入り、寝るまで自分の部屋でテレビを見るのが日課だった。その間、涼花さんは、朝食の仕込みをしたり、経営しているお店の帳簿付けや、メールのチェックをしている。
 夕食を一緒にとること以外、互いに干渉しない生活。年齢の違う女性三人が、ルームシェアをしている感覚に近いのかもしれない。

 私は、今の状態をとても歓迎している。
 この家で生活するようになって四ヶ月。二人とも法律上は私の家族だけど、気持ちの上では、まだ家族とは思えていない。家族と思える日が来るのかもわからない。
 後片付けを終えると、涼花さんに成績表を渡した。
 父の代わりに目を通してもらう。父がいないのだから、しかたない。涼花さんは優しい笑みのまま私を見つめる。
「成績いいのね」
「前の学校の授業で習った内容だったから、です」
「そうだとしても、去年の終わりからいろいろあったでしょ。今までの暮らしと大きく変わったわけだし。それなのにこの成績は、すごいと思うわ」
 表情にも、声にも、再婚相手の連れ子に媚びている雰囲気はなかった。本当に感心しているらしい。うんうんと頷くたびにいい香りがする。いつでも涼花さんはいい香りがしてる。まるで花のような人だ。
「さっきの続きだけど、進学したかったら遠慮なく言ってね。正臣さん――お父さんが今いないからって、気兼ねしなくていいのよ……家族なんだから」
「考えてみます」
 そう言って部屋に戻った。裸足でぺたぺたと暗くて長い廊下を歩いているとこの先の自分の人生のように感じる。
 進路についても、家族についても、考えてみるつもりなどなかった。そもそも、自分の将来について想像したことがない。真っ暗で先が見えない。

 あっという間に歳をとって、死ねたらいいのに。
 子供の頃からこんなことばかり考えていた。
 積極的に死にたいわけではない。だけど、生きたいとも感じていない。いつもと変わらない毎日がずっと続くと思っていたそんなとき父から「結婚したい人がいる」と思いも寄らない言葉を聞き、びっくりしてどんな風に返事をしたのか今も思いだすことが出来ない。
 涼花さんに会ったのは、去年の秋口だった。
「若いっていいわね。この先が楽しみね」
 涼花さんはそう言って微笑んだが、楽しい未来を思い描いたことがなかったから、返事に困った。私が戸惑っているのを、緊張しているのだと勘違いしてくれなければ気まずい初対面になっていたことだろう。
 夏休みが明ければ、あれから一年。
 去年の年末に父が再婚した。高校一年の三学期が終わるのを待って、引っ越しをして転校した。三月末からこの家で暮らし始めて、家族が増えた。
 涼花さんが言うように、私の生活環境はこの数ヶ月で大きく変わった。でも、中身は環境ほど大きく変化はしていない。
 相変わらず、今の自分からつながる未来は、まったく想像できないままだった。
 本当に、あっという間に歳をとれたらいいのに……。
「こんばんは、おじゃましまーす」
 玄関が開く音と一緒に声が聞こえてきた。



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