高校生に向けて授業をせよと依頼され、はてどんな内容にしたものかと悩んだあげく、イタリア語の恋愛詩を取り上げることにした。現代のイタリア男の口説き文句がSNSでバズったりしてたから、中世のイタリア男の甘美な詩句もたぶんうけるだろうと踏んだのだ。 よく知られている?ように、イタリア男の口説き文句には、天使がよく登場する。実はこれ、中世末期に活躍した清新体派と呼ばれる詩人たちが「開発」した比喩的表現なのだ。というわけで、グイニツェッリ、ダンテ、ペトラルカという3人の詩人から、そ
『嫌われる勇気』が世に出てから10年近く経ったらしい。私自身は出版されて間もない頃にこの本を手にしたような気がする。衝撃的な内容で、あっという間に読み終えた。それから何年間か私の座右の書となった。自分一人のものとしておくのは勿体ないので、色んな人にプレゼントした。友人、教え子、母、恋人(今の妻)、恋人(今の妻)の母、等々。 つい最近、イタリア人の友人が人間関係に悩んでいたのでこの本をプレゼントしようと思いついた。イタリア語に翻訳されていことは、知っていたか。アマゾンイタリ
私は普段、イタリア語の詩を日本語訳で読むことがない。が、この間ペトラルカの『カンツォニエーレ』の解説動画を作る際、池田簾の名高い邦訳を見てみた。以下が第1ソネットの訳文である。 とても美しい文章だが、私は強烈な違和感を覚える。あまりに優れた日本語表現になっているため、イタリア語原文から離れていく感覚を抱いてしまうのだ。これはあくまで個人的な感覚である。ペトラルカのような大詩人の場合、日本の古典に精通した訳者が彫琢した日本語で訳し上げることは、むしろ多くの人が望むところだ
ボブ・ディランにノーベル文学賞が与えられたのだから、Zornに芥川賞が与えられてもよいはず。 https://youtu.be/cq8a0_LedZ8?si=0rOCA4YemWh8JMmU
ドイツ戦の前日、森保監督の言葉:https://youtu.be/XTO6HSyrMrg?t=661
先日とあるイタリア人YouTuberの動画を見ていると、プラトンのイデア論に関して、次のような解説をしていた。 例えば、目の前にリンゴが一つあったとする。それを齧ったら一部なくなる。が、それはまだリンゴである。半分以上食べれば、元とはまったく違う形になる。だが、やはり残されたものはリンゴである。それでは、全てなくなったらどうか。それでも、やはりリンゴは残る。リンゴの概念が確かに残っているのである。 これは、少し簡略化しすぎているけれども、イデア論の解説としてはいたって
よく見ているAbema Primeというオンライン報道番組で、「歴史をどう学ぶ」というテーマをめぐる討論があった。 西村ひろゆき氏、脳科学者茂木氏、元経産相官僚宇佐美氏といったお馴染みの面々に加え、今回はゲスト論客として元航空幕僚長田母神氏が参加した。茂木氏の意見は「歴史は通史を少し学べば十分で、もっとも大事な学問に時間を割いた方がよい」というのもの。それに対して、田母神氏は「祖国に誇りを持つため歴史を学ぶべきだ」と主張する。(ひろゆき氏や宇佐美氏も持論を提示していたが
イリヤ・ソミン氏の記事「ロシア人にご褒美を与えることによって、プーチンと戦う方法」 https://reason.com/volokh/2022/03/06/how-to-fight-putin-by-offering-russians-a-million-little-carrots/
「デマ」が広がっていて問題だ、と言われている。デマが拡散しているとしたら確かに問題であろう。だが、ある情報が「デマ」であるとどのようにして確定するのであろうか。 これはちょっと厄介な問題である。専門家の意見を聞けばいい、ととりあえずは考えることはできる。だが、専門家の意見が食い違っている場合はどうだろうか。そもそも、誰が専門家なのかをまず見定める必要がある。そのこと自体かなりハードルが高いものだ。 結局多くの人は、自分の周りにいる人やメディアの情報を頼りに、「デマ」と
もうかれこれ15年以上も文学研究に従事してきて、ことあるごとに自問することがある。文学研究は本当に必要なのか。文学研究を弁護すべく、少し理屈をこねてみよう。 学問の世界には、一般の社会を動かしている経済の原則を当てはめるわけにはいかない。真理の追求は、利害損得とは関係ないからだ。 この理屈は、数学、科学、哲学、歴史学などには通用しそうだが、こと文学研究はどうだろうか。文学者や文学作品に関して、真理を追求することはそこまで重要ではないように思えてしまう。 もう少し
以前の記事で、私は外国語で書かれた文章はできるだけオリジナルで読む−原文至上主義者である、と述べた。しかし、容易に予想がつくことだろうが、原文至上主義において理想と現実の間の溝は深い。ヘーゲルの哲学書を原文で読みたい!と思うことはすぐできるが、これを読みこなす言語力を獲得することは至難の技だ。だから、原文至上主義を貫くためには、適度の妥協が肝心である。 さて私は、20年以上前にイタリアに留学してからずっと、原文至上主義を維持し続けている。その間、イタリア語、フランス語、
シェイクスピアの戯曲は英語で、ヘーゲルの哲学書はドイツ語で……外国語で書かれた作品はすべて原語で読むべきだという主義主張がある。これを仮に原語主義と呼んでおこう。 私はかなりの原語主義者であるが、原語主義を貫くことの非合理性もよく分かっている。書かれた言語によって読むべきだとすれば、当然その言語をよく知っていなければならないことになる。例えば、旧約聖書とプラトンと孔子を読みたければ、ヘブライ語と古代ギリシャ語と中国語をマスターしなければならず、それは無理だろうという話に
若者が選挙に行かないことが問題視されている。その理由について、行っても何も変わらないと考えているからだ、としばしば言われる。本当だろうか。 では、仮に自分の一票で世の中が変わるかもしれないという状況があれば、若者は選挙に行くのだろうか。むしろ、その責任感の重さに負けて、なおさら投票に行かなくなってしまうのではないだろうか。 おそらく、選挙に行かない人は、若者に限らず、「得をしない」から行かないのであって、「変わらない」から行かないのではない。この二つの理由は同じよう
この国があまりに多くの問題を抱えているせいだろうか、SNSを見ていると、人々が自分の意見をよく表明するようになった気がする。これはいいことだろう。 日本は(一応)民主主義の国家である。国のこと、地方自治体のことを、お上に決めてもらうのではなく、みんなで決めなければいけない。そのスタート地点に立つためには、各自が自分の意見を持ち、それを表明することが必要であろう。「自分はよく分からないんで、とりあえず皆さんの意見に合わせます」という人ばかりであったら、民主主義は成り立たな
だいぶ長い間Twitterをしていたが、ここにきて居心地があまり良くなくなってきた。 プロフィールで確認すると、Twitterを開始したのは2015年10月のようである。2016年には、初の単著を刊行し、国際シンポジウムを開催した。告知のために、Twitterアカウントを作成したのである。 その後Twitterを通じて、隣接する分野の学者さんや、同じような志向をもっている方々に出会った。自分の意見を表明する手段にもなり、他人の様々な意見に触れることもできた。ピンチの