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第23回 モーツァルトとクラリネット②

みなさんこんにちは。
前回のモーツァルトとクラリネットについての記事はいかがでしたか。
固い文章の割に、スラスラと面白く読めたのではないでしょうか。
私も改めて再編集して文章を校訂している時は、本当に楽しく書くことが出来ました。

あぁ私はクラリネットが、音楽が好きなんだなぁと、
改めて思い直せる良い機会になりました。

今回は前回の続きをご紹介したいと思います。
主な内容はズバリ、モーツァルトのクラリネット協奏曲についてです。
ただし楽曲分析などのテクニカルな内容ではございません。
そちらはたくさんの奏者からのメッセージや演奏が割とみなさんの近くにあるはずですので、歴史的な側面でこの協奏曲と向き合ってみたいと思います。
あらゆる文献から得た内容をまとめておりますので、是非最後までお読みいただけたら嬉しいです!!
それでは、はじめていきましょう。

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1.モーツァルトとクラリネット・コンチェルト~作曲の経緯

《クラリネット・コンチェルト》イ長調K622は、モーツァルトが残した最後のコンチェルトである。彼がクラリネットの為に残したコンチェルトはこの一曲のみである。
しかしながら、表情豊かな旋律と美しい響きのこの曲は、すべてのクラリネッティストにとって永遠の財産の一つとなり、後世のクラリネット作品の模範を築いたのである。

自筆譜は既に消失しており、重要な資料として、現在残されているものは《バセット・ホルン・コンチェルト》ヘ長調K.621bの草稿であるが、これも途中までしか残っていない。(第1楽章の199小節目まで)正確な作曲の日付はわからないが、モーツァルト自身による作品目録への書き込みから、1791年9月28日から11月15日の間に、親しい友人で同じフリーメイスン結社の一員であったアントン・シュタードラー(Anton Paul Stadler 1753~1812)のために、ウィーンで作曲されたことが分かる。

このシュタードラーは、ウィーン宮廷楽団に仕えていた、当時並ぶ者のいなかったクラリネットの名手である。シュタードラーは、普段はとても言葉が鋭く厳しい男であったが、モーツァルトのオペラ《魔笛》K620の上演を聴き、作品の出来をほめるなど、モーツァルトの音楽に共感を抱いていた。モーツァルトとの親交も厚く、しばしばモーツァルトと手紙のやり取りをしていたようである。
※この協奏曲とクラリネットのためのもう一つの傑作、≪クラリネット五重奏曲≫K581はともに、そうしたシュタードラーのすぐれた演奏技法に刺激されて、モーツァルトが筆をとったものであった。

モーツァルトがシュタードラーの演奏を聴いたのは1791年4月16日から17日にウィーンの音楽家協会が行った慈善演奏会でのことだったとされている。その際、有名な《交響曲第40番》K550が演奏されたのではないかと言われている。この時モーツァルトは、オーケストラのクラリネット・パートを見事に吹いたシュタードラーの演奏を聴いて、とても感銘を受けたのであろう。シュタードラーの演奏は当時の批評家にも評判が高く、「クラリネットが人間の声をあれほどそっくり模倣できようとは、だれが考えたであろうか」と称賛する記事も残っている。

作曲家が同時代の名手の演奏に感銘を受けて作曲をすることは、ウェーバーやブラームスの例でも知られている。特にブラームスに関しては、最晩年に現在に残る重要なクラリネット作品を残したという点がモーツァルトと同じである。そして、それはクラリネットが古典派やロマン派の作曲家にとって魅力ある楽器であった、ということの証明にもなるであろう。

作曲年はモーツァルト生涯最後の年であるが、この後に書かれた作品はわずかな小品と、《レクイエム》二短調K626のみであり、モーツァルトのコンチェルト作品群で最後の大作であることがわかる。


2.モーツァルトとクラリネット・コンチェルト~初版譜

モーツァルトのクラリネット・コンチェルトの初版譜は、1801年にアンドレ社とブライトコップフ&ヘルテル社が出版したとパメラ・ポーリンによる研究により、明らかになった。アンドレ社は、モーツァルトの妻であるコンスタンツェに直接、出版を問い合わせている。

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