家族でブータンにきて半年が経ったいま思うこと
2024年6月3日
我々家族にとって、一生忘れられない日。
我が家の男児3人が、のびのびと幼少期を過ごした島根県津和野町を飛び出し
ブータン王国にランディングした日である。
その日から半年が経ち、ようやく自分の中でいろんなことを文字起こししていこうというマインドセットができた。
丁度ブータンにくる前、山口のycamで大好きな石川直樹さんの講演会が奇跡的にあり参加した。さらに幸運なことに色々と話す時間を得ることができた。そこで言われたのがとにかく日記をつけるといいということ。きっとそうやって自分なりの星座をつくっていくことなんだろうなと思い、実践してきた。だが、何故か前向きになれない自分がいた。でもなぜか今日、その引っかかってきたものがとれ、湯水が湧くように自分の経験を文字に起こしたい欲求に襲われた。
まずは、津和野町からブータンにきたところを書かなければスタートラインに立てないと思い、文字に起こしていきたいと思う。
大学を卒業してからこれまで、ひとつの場所に最長で3年間。教育という柱はそのままに、本物のジプシーかのごとく生きる場所を変えてきた。その3年間の壁を初めて越えたのが津和野町だった。
仕事は保小連携コーディネーターという、全国でも唯一無二の職種で、やりがいはたっぷりだった。保育園と小学校に架け橋をかける役割。自身の子どもたちの年齢もドンピシャで当事者意識も人一倍だった。
子どもたちも、うしのしっぽという子ども園との出逢いがあり、毎日が冒険の生活を楽しんでいた。標高400mにある牧場の奥地で暮らすように日々を過ごす。なんて贅沢な日々だったんだろうと改めて思う。代表のまゆみさんとの出逢いが、我々が津和野町に移住を決めた大きな決め手であった。
生活環境も申し分なく、春は満開の桜と共に歩み、夏は清流日本一の高津川で朝から晩まで遊び、秋は実りの作物を贅沢にいただき、冬は厳しいけれど雪遊びそして薪ストーブと共に暮らす。トレッキング、キャンプ、カブトムシ、家庭菜園、カナヘビ、薪割り、タヌキイノシシキツネにアナグマ、梅仕事柿仕事味噌仕込みにポポー探し。
仲良しの友人は、60,70歳以上の方々が中心で、その次に30,40代。でも、今思うと20代や高校生たちとも一緒に何かすることが多かった、津和野は本当に多世代と交流できる町だと今更ながら思う。そんな先輩方から手仕事を教えてもらい、一緒に山に入って山のイロハを教えてもらい、晩酌しながら一緒に酔っ払う。
今、こうやって文字にしてみて改めて感じるが、これ以上の幸せってないよね?ってぐらい、本当に充実した日々だった。プライベートでも、会社を立ち上げて津和野初のクラフトビールを作ったり、津和野蚤の市というマルシェを開催したり、津和野フットサルクラブでコーチしながらプレーしたり、横道にある通称牛小屋と呼ばれる、おそらく行ったことある人は少ないではないかという朝からやっているバーに呼ばれたり、木部の重鎮たちとの会合にもしばしば呼ばれたりと、本当やること盛りだくさんだった。
繋がりは越境し、隣町にも仲間が増えて吉賀町も大好きな町となり、益田市浜田市温泉津から松江海士町まで、気がつけば島根県バイブスが高まりまくっていた。地域ではなくて、流域で楽しんでいた。
そのように、過ごした時間そのものが自分にとっての財産であり、三男が生まれた地であり、子どもたちにとっての故郷であり、大切な人たちとのたくさんの出逢いがあった場所なので、比例するように、町を出たくない気持ちも日に日に強くなっていった。
ブータン行きの話自体は、実は津和野町にくる前にあったのだがコロナでのび、忘れかけていたところに本格的な話があったのが1月。そこから急ピッチに話が進み、出国日が決まったのも出発3週間前の5月という異常なスピード感だった。
「町を出たくない気持ち」と「出発までの期間の短さ」の結果、津和野町を出る数日前からの記憶がほとんどないです。あの時の精神状態はおそらくマジでキマッていたと思う。残っている仕事と、ブータン行きのビザやら書類の準備をしながら、動物園の檻の中で異常行動を起こしている熊と同じように、ブータンに送る荷物、実家に送る荷物、捨てる物、掃除などやること沢山あるのに家の中で同じ動線を何度も何度も往来していた記憶だけは凄まじくある。というか、ほぼその記憶しかない。nomadで開いてくれた送別パーティーも、すみません、最早誰がいたかも本当に記憶がないのです。そんな状態なのに、マジで沢山の人が自分たちを助けてくれたことに感謝しかないです。心の底からのBig Thanksしかないです。そしてこの話を妻にしたところ、妻は自分より前からバーサク状態になっていたとのことでした。つまり、夫婦揃って思考停止状態でした。
仕事も、文科省採択を受けた架け橋プログラム事業の最終年度を空ける形になってしまったし、町内で挨拶できなかった人たちも沢山いるし、津和野町に対して後ろ髪引かれるものがあるのは事実。
それでもブータン行きを決めたのはなんだったのか。
これが、自分の中でずーーーーっとモヤモヤしてた。
分からないではなく、自分の心にあることがモヤモヤやった。
それをふと、アウトプットしたくなった。
大きかったのは、ブータンの話をもらった時と並行して起きた、担任のとある事件。内容は慎みますが、学校の対応は遅れ、行政も知っていながらも何もアクションを起こされなかった。当の先生ものほほんとして、翌日に普通に学校にきて、普通に授業をしていた。それを当たり前のように見ている管理職と、その事実を知っていながらも何も動かない教育委員会。こちらが動いたら言われた言葉が「学校が何かしら動くと思っていました」その学校と話せば、自衛のためか主語は「大人」一切、子どもが主語の話が出てこない。その言葉の数々に、公教育を変えていきたい、という自分の源流が少しずつ減っていくのを感じてしまった。
それ以降、とにかく環境を変えたい気持ちに駆られた。そのためには環境を変える=物理的に場所を変える、というのが手っ取り早かった。元々、家族で海外に暮らすという経験を早い段階でしたかったことはとても大きく、子どもたちに異文化で暮らす経験をしてほしかった。これだけ多様化し、資本主義も?がつく時代に、変わらない学校教育。その初期段階において、教科学習ではない、もっと広い、自分たちが動くことで得られる学びというものを感じてほしかった。そのチャンスが目の前にあり、それをもし手放したら次にそのチャンスがくるのはいつだろう、と思ったら答えはひとつでした。子どもたちは今、こちらでの「異なるもの」「未知なるもの」にどう対応していくかで全てが埋まっているのか、とても充実した日々を送っています。毎日が冒険のように。
最後に、おそらく今日書きたくなった理由は、ブータンにきてから今後やっていきたいと直感的に感じていたことが、ここ数日でトピック的に複数の人から聞くことがあったから。キーワードは地球。それらは短期的なものではなくて、暮らしながら学ぶ。それを地域ではなくてもっと飛び越えてやっていく。
そんなことがしたかったから、大好きな津和野町を飛び出て今ここにいるんだなと腑に落ちた数日でした。おそらく、今それを体現しているんだと感じています。これは、少しずつ言語化が自分に必要なので、アウトプットしていかなければ。
半年ぶりの、近況報告。ちゃんと生きてます!
HAPPY NEW YEAR 2025 to everyone !!!!!