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森会長 ”女性蔑視発言” の刃は「あなた」に向けられている

東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長がJOCの臨時評議員会で「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかります」と発言したと報じられ、波紋を呼んでいます。

個人的には、今回の騒動は、一般的にいわゆる「政治家の失言や不祥事」と呼ばれる事案とは別の問題を孕んでいるように思います。
そして、だからこそ私達にとても重いテーマを投げかけているように感じるのです。

それが一体何なのか、少し考えてみました。

(1)「女性が…」発言の3つの衝撃

森氏の一連の発言については、怒り、呆れ、絶望、嫌悪…などの感情とともに様々な意見が飛び交っています。
発言を批判する人たちの思考を分解すると、概ね以下の3つの点に衝撃を受け、憤りを感じているといえるのではないかと思います。

①森氏自身が女性蔑視的な価値観を持っているのではないかということ

まずは純粋に、森氏の持つ価値観や思想に対して「認めがたい」と感じた人は少なくなかったことでしょう。
もっともこの点は、これまでの森氏の発言からすると、それほど衝撃度が大きかったわけではないかもしれません。

②そのような価値観を持った人物が「東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の会長」を務めているという点

次に、②の点に強い問題意識を持った人は多いと思います。

具体的には、
「そのような発言をした人を辞めさせることができない組織は、ガンバナス的に大丈夫なのか?」
「この人が『会長』を務め続けることは、国際社会から見て日本人として恥ずかしい。」
「数十年前の旧い価値観を持った人が長らく政治や経済の指導的立場に居座り続けていること自体、日本社会にとって大きな損失ではないか?」
といった声が聞こえてきます。

この点は非常に重要な論点ではありますが、既に様々な意見が発信されていることもあり、本記事では深入りしないことにします。

③自身がした発言が「なぜ問題か」ということについて、本人が全く理解していない(ように見える)点

私が最も衝撃を感じたのは、最後の③の点です。
森氏の「謝罪会見」を見る限りでは、森氏の心の中に、「自らの発言により傷つき、悲しむ人がいる」という認識や、「自らの発言は今日の常識的な感覚からすると、決して許されないものであった」という認識は、全くないように感じられました。

むしろ、「今回の騒動は、マスコミがおもしろおかしく、”些末な”問題を針小棒大に取り上げているに過ぎない」という認識が透けて見えてくるように感じました。

おそらく、当初、JOC臨時評議員会での森氏の発言を批判した人たちは、森氏の謝罪会見を見て、「怒り」が湧いてくるというよりも、「なぜこの人は、ここまでズレているのだろうか?」と不思議に思ったのではないでしょうか。

(2)「まなざし」の哲学者サルトル

ーーなぜ、森氏はここまでズレているのか?

この点について、少し立ち入って考えてみたいと思います。
今回は、ジャン=ポール・サルトル(1905年 - 1980年)というフランスの哲学者の思想を補助線にして、思考してみます。

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サルトル哲学のキーワードの中に、「まなざし(眼差し)」というものがあります。

サルトルによれば、人間は常に「他人のまなざし」から逃れることはできず、「他人にどう見られているか」によって自分という存在が規定されます。

例えば、他人から「称賛のまなざし」を向けられれば、自分の生き方は正しいという実感や、自分は価値のある存在だという実感を得ることができます。
一方で、他人から無視されたりするる「蔑みのまなざし」を向けられれば、人間は、自分を「価値のない存在」として規定してしまいます。

そして、この「まなざし」というキーワドから、人間社会には、常に「見るもの」と「見られるもの」という関係が横たわっていることがわかります。

こんな場面を想像してみてください。

あなたは、隣人の秘密を探ろうとして、ドアの鍵穴から部屋の中を覗いています。そのとき、あなたはその隣人を「見るもの」であり、隣人(=「見られるもの」)の恥ずかしい姿を見ることができるかもしれません。

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またあなたは、その隣人のことをどう評するのも自由です。あなたは隣人のことを「ケチくさいやつだ」とバカにすることも「アホな人間だ」と罵ることもできるのです。

しかし、第三者である「他者」がその覗いているあなたの姿を発見した瞬間、事態は一変します。
その他者のまなざしのもとで、主体(=見るもの)として行動していたはずのあなたは、突然に他者のまなざしの客体(=見られるもの)となります。

その瞬間、あなたは「見られるもの」に転落するのです。
サルトルはその時の感情を「羞恥」と表現しました。現代人は常に、誰かからの「まなざし」に神経過敏的に拘束されており、そこから逃れることができません。

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だから私達は、自由とのびのびと生きることができないというわけです。

(3)森氏が「ズレ」ている決定的要因

ここで、「まなざし」「見るもの」「見られるもの」というキーワードを、今回の騒動にあてはめて考えてみましょう。

記事によると、森氏が一連の発言をすると、その場にいたJOCの評議員会のメンバーからは笑い声があがったそうです。

この時、森氏や評議員会のメンバーと、発言の中に登場する「女性」の間には、以下のような関係にありました。

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森氏も評議員会のメンバーも「見るもの」ですから、客体としての「見られるもの」(=女性)のことを、どうとでも評価することができます。
これが、臨時評議員会での構図でした。

しかし、臨時評議員会が終わり森氏の発言が報道されると、この構図が逆転します。

報道がなされると、女性のみならず、多くのメディアや個人・団体が森氏の発言を批判し始めました。
つまり、森氏や評議員会のメンバーは、一転して「見るもの」としての地位を失い、「見られるもの」に転落しました。
「見るもの」と「見られるもの」の逆転現象が生まれたわけです。

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しかし、実は世界にただ1人だけ、この「逆転現象」に飲み込まれていない人物がいました

その人物こそ、何を隠そう、森会長本人です。

サルトルによれば、「見るもの」が「見られるもの」に転落すると、その人は「硬直」し「羞恥」するといいます。
しかし、その公式が成り立つのは、「見られるもの」に転落したその張本人が、自分が周囲からの「まなざし」を認識している場合に限定されます。
その本人が「まなざし」を認識していなければ、硬直も羞恥も生じるわけがありません。

私は、社会の人々は森氏の発言は大きな問題であるととらえているのに、当の本人はまったくもってそう捉えていないという先ほど問題提起をした「ズレ」の真因はここにあると考えています。

つまり、国際社会や多くの日本人が持っているジェンダーや差別に関する感覚は、森氏が感じる他者からの「まなざし」にまではなっていなかったということです。

もちろん、森氏も自分の発言がマスコミやメディアから批判を浴びれば、その批判を事実としては認識するはずです。
しかしその批判の根底にある価値観や信念は、彼本人の実存(=自分自身が生きているという感覚)を脅かすものとまではなっていなかっったということなのだろうと思います。

ではなぜ、このような事態が発生しているのでしょうか?その原因は何でしょうか?

ここでやっと、この記事のタイトルに行き着きます。結論を先にいうと、サルトル哲学的に考えた場合、「その原因は『あなた』にある」のです。

(4)世界の現実は「あなた」の一部である

ーー森発言の原因は「あなた」にある。

いきなり物騒な話になってしまいましたが、少し説明をさせてください。

サルトルは、「人間はいかに生きるべきか」という問いに対して、
「人間は、自由な個人が主体的に行動を起こして、社会と自分自身の変革を実現すべし」
と力強く説きます。

私達が生きる世界を一つの作品に喩えると、私達一人ひとりは、その作品の制作に共同して携わるアーティストだといえるでしょう。
だからこそ私達は、この世界をどのような作品にしたいかというビジョンを持ち、それに向けて主体的に行動をしなければいけないということです。

ところで私達は、普通、ここでいう「世界」は「自分の外側にある現実」であるという風に理解し、「世界」と「自分」は別個の存在だと考えています。

しかしサルトルは、「外側の現実」と「自分」とを、二つの別個のものとして捉える考え方を否定しました。

つまり、

「世界」は「自分」の働きかけ(またはその欠如)によって「そのような現実」になっているのだから、世界の現実は「私」の一部であり、私は「外側の現実の一部」でもある。
だから、両者は切り離して考えることはできない。

ということです。

だからこそ、その現実を「自分ごと」として主体的によいものにしようとする態度が重要になるのです。
サルトルはこれを「アンガージュマン」と呼びました。

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例えば、戦争を例にとってみましょう。

どこかの国で石油の利権を巡って戦争が起きているとします。
そしてあなたは、その戦争のニュース映像を見て心を痛め、戦争を引き起こした両国の指導者に対して憤りを感じるかもしれません。

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しかしサルトルによれば、戦争を自分の人生の外側からやってきた事件のように考えることは許されません。
戦争という現実はあくまで「私」の一部であり、それは「私が責任を負うべき戦争」なのです。

なぜかって?

それは、あなたは反戦運動に身を投じることもできたはずなのにそれをせず、世間体や臆病さから、この戦争を「受け入れた」といえるからです。

ーーあらゆることが可能であるのに対し、それをせずに受け入れた以上、それは、他の誰でもない「あなた自身の選択」である。

ーー「反対意見を言わない」という沈黙は、「その主義主張に反対をしない」という一つの態度表明である。「何もしない、何も選ばない」という傍観主義は、「世界がどのようになってもいいですよ」という「あなた自身の選択」である。

なかなか手厳しい言説ですが、サルトルはそう考えます。

(5)森発言の刃があなたに向けられる理由

翻って、今回の騒動について改めて考えてみましょう。

まず、この問題を「旧くてズレた価値観を持った人間が会長を務めていては日本の恥だから辞めさせよ」という視点のみで捉えていては、問題の本質を見誤ります。

考えてみてください。相当の地位を持つ人物の今回のような発言が問題になったのは、これが初めてのことでしょうか?森氏以外にこのような発言をする人は、これまでにいなかったのでしょうか?

そんなことは決してありません。これまで、政治家による数々の差別的な発言が取り沙汰されてきました。
昨年一年間だけを振り返ってみても、様々なニュースを思い出せると思います。(→例えば、『同性愛広がれば「足立区滅びる」 白石正輝・自民区議が議会で発言』

そうだとすると、サルトル的に考えるのであれば、差別的な価値観を持ち、それを堂々と公言できる人が政治家になれるような世界を、私達は日々の行動(したこと、しなかったこと)によって作り上げてきたということができます。

ということは、今回の騒動はその一つの事象に過ぎないのですから、森氏固有の問題とすることはできません。
つまり、森氏の人格を批判しても解決する問題ではなく、逆に、責任は社会や市民一人ひとりの側にあるということになります。

だからこそ、森氏の発言に対して批判の刃を向けたくなった人たちにとって、その刃はブーメランのように、自分たちに返ってきます。
その刃は世界や社会の構成員である「わたし」や「あなた」の首元につきつけられ、「それで、あなたはどう行動するんだ?」と問いかけてくるのです。

改めて、「明確に反対の意思表示や行動をしない『沈黙』は、『反対しないという』態度表明である」というサルトルの指摘は、鋭いものだなと感じます。

サルトルの立場からすれば、私達一人ひとりが森氏の発言に違和感を覚えても事態を傍観し、何の行動もせず日常生活に没頭していくのであれば、それは、私達が「彼の言動を容認する社会を作り上げている」ということと同義なのです。

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そうは言っても、一体私達に、何ができるというのでしょうか?

一般市民の私たちが「差別のない世界を作る」と言っても、政界に居座る重鎮たちの凝り固まった価値観を変えていくことなど、到底できないようにも思えます。
一つの方法が民主主義に基づく選挙なのでしょうが、「自分が一票を投じたからといって、日本の政治の重鎮たちがすぐに変わるとは思えない」というのが、本音のところではないでしょうか?

(6)世界を変える方法①半径50cmのアンガージュマン

そこで最後に、私達が世界に参画し、世界を理想的な姿に変えていくための考え方のヒントを2つ提示して、終わりにしたいと思います。

前述したサルトルの「アンガージュマン」は、典型的には、「◯◯反対!」というデモに参加したり、市民の力を結集して革命を起こしたりするような行動のことを指していました。

ただ、今回問題になったようなジェンダーに関するテーマについては、世界史の教科書に「◯◯革命」という名前で載っているような「一晩にしてオセロの表が裏にひっくり返るような変革」ではなく、お風呂のお湯がだんだんと温かくなっていくように、社会全体の空気をじわじわと変えていく方法の方が現実的であり効果的であると考えます。
社会の「当たり前」を少しずつ変えていくことで、最後に大きな変革に結びつけるのです。

そして言うまでもなく、そこでいう「社会」を分解していけば、必ずその社会生活を営んでいる私達一人ひとりまで行き着きます。
つまり、私達一人ひとりの日々の言動や行動が、社会全体の空気を作っていくわけです。

例えば、どんなに小さな発信でもいいので、自分なりの考えや意見を誰かに伝えること。または、家族や友だちと会話をして、身近な他の人の意見を聞いてみること。

もしくは、家庭内の家事や育児に積極的に関わること。職場で違和感のある発言や行動を見かけたら、スルーをせずにその違和感を言葉にすること。

それら一つ一つが大きなうねりとなって、社会全体の空気感を変えていくのではないかと思うのです。

いわば、自分の生活の半径50cmの世界から、アンガージュマンを体現していくことが必要なのではないでしょうか。

(7)世界を変える方法②パラダイム・シフトは世代交代

とはいえ、そのような小さな行動をいくら積み重ねていても、日本の「トップ」が変わらない限り、効果は薄いようにも思えます。

例えば、森氏は現在83歳。他にも、日本の政治の中枢には60代、70代、80代の重鎮たちが「鎮座」しています。
他国と比べて閣僚や政治の実権を握る政治家達が高齢であることを指摘されている日本では、20代、30代の人々の「声」を政治に届け、それによって世界を変えていくことは不可能なことなのでしょうか?

このような考えが頭をよぎる時、参考になるのが、トーマス・クーンという科学史の学者の研究成果です。

クーンについては、「パラダイムシフト」という言葉でご存じの方も多いのではないかと思います。
その時代や分野において当然のことと考えられていた認識や思想、社会全体の価値観などが劇的に変化するのが、パラダイムシフト」です。

では、パラダイムシフトは歴史的にはどのようにして起きてきたのか?
この点について、エンジェル投資家として活躍した故・瀧本哲史氏は、東京大学で行った講演の中で解説をしています。

瀧本市の書籍から引用する形で、本記事でも紹介をさせてください。(書籍は、「伝説の東大講義」とも呼ばれる生前の講演を書籍化した『2020年6月30日にまたここで会おう』です)

瀧本氏はこの講演の中で、「天動説から地動説への転換」という史実を例にとって、「このようなパラダイム・シフトは実際にはどういうふうに起きたか知っていますか?どのようにして、人々の考え方が180°ガラリと変わったのでしょうか?」と聴講者たちに問いかけます。

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ある生徒は、「学会とかで議論して、認められたのでは?」と答えますが、そうではないそうです。

以下、書籍からの抜粋・引用です。

クーンはですね、地動説の他に、ニュートン力学やダーウィンの進化論など、科学の歴史上で起きたいろんな科学革命を調査・研究した結果、たいへん身も蓋もない結論に達してしまったんですね。

 ふつうに考えれば、天動説を唱える人に対して、地動説の人が「こうこう、こういう理由で天動説は観察データから見るとおかしいから、地動説ですね」って言ったら、天動説の人が「なるほどー、言われてみるとたしかにそうだ。俺が間違ってた。ごめんなさい!」っていうふうに考えを改めて地動説になったとか思うじゃないですか。

 でも、クーンが調べてみたら、ぜんぜん違ったんですよ。
 天動説から地動説に変わった理由というのは、説得でも論破でもなくて、じつは「世代交代」でしかなかったんです。

 つまり、パラダイムシフトとは世代交代だということなんです。
 地動説が出てきたあとも、ずっと世の中は天動説でした。
 古い世代の学者たちは、どれだけ確かな新事実を突きつけられても、自説を曲げるようなことはけっしてなかったんですね。

 でも、新しく学者になった若い人たちは違います。古い常識に染まってないから、天動説と地動説とを冷静に比較して、どうやら地動説のほうが正しそうだってことで、最初は圧倒的な少数派ですが、地動説の人として生きていったんです。

 で、それが50年とか続くと、天動説の人は平均年齢が上がっていって、やがて全員死んじゃいますよね。地動説を信じていたのは若くて少数派でしたが、旧世代がみんな死んじゃったことで、人口動態的に、地動説の人が圧倒的な多数派に切り替わるときが訪れちゃったわけですよ。結果的に。

 こうして、世の中は地動説に転換しました。
 残念なことに、これがパラダイムシフトの正体です。
 身も蓋もないんです。
 新しくて正しい理論は、いかにそれが正しくても、古くて間違った理論を一瞬で駆逐するようなことはなくてですね、50年とか100年とか、すごい長い時間をかけて、結果論としてしかパラダイムはシフトしないんですよ。

この例をもとに、瀧本氏は次のように続けます。

でもこれ、逆に考えると、めちゃくちゃ希望だと思いませんか?
「世の中を変えたい」と考える人はいつの時代も多いですけど、なかなか世の中って思うようには変わらないですよね。選挙に行って一票を投じても変わった実感はぜんぜん得られないし、努力して上の世代の考え方を変えようとしても、徒労に終わるばかりです。

 で、そこで「やっぱり世の中は変わらない」って諦めちゃう若い人も多いんですが、みなさんが新しくて正しい考え方を選べば、最初は少数派ですが、何十年も経って世代が交代さえすれば、必ずパラダイムシフトは起こせるってことなんですね。
 つまり、世の中が変わるかどうかっていうのは、若者であるみなさんとみなさんに続く世代が、これからどういう選択をするか、どういう「学派」をつくっていくか、で決まるんですよ。

 たしかに時間はかかりますけど、下の世代が正しい選択をしていけば、いつか必ず世の中は変わるんです。

#『2020年6月30日にまたここで会おう』(瀧本哲史著。段落分け、強調は筆者)

たしかに、今すぐに政治の重鎮たちの頭の中をひっくり返して「ズレ」をなくすことは難しいかもしれない。
でも、社会の空気の変化は、世代交代によって実現できる。
この事実は、私達にとって非常に心強いものになると思います。

まとめ

長々と書いてしまいましたが、最も強調したいのは、今回の騒動を問題だと思うのであれば、私達は「沈黙」を通すのではなく日本の未来のために半径50cmからでよいので行動しなければならない、ということです。

サルトルといえば、人類学者レヴィ・ストロースにこてんぱんにされた「敗者」のイメージもありますが、サルトル哲学のキーワードは、私達に大きなヒントと勇気を与えてくれるものだと感じました。

最後に、本記事のアウトラインをまとめておきます。

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(1)今回の騒動の一番の問題点は、森氏がした発言が「なぜ問題か」ということについて、本人が全く理解していない(ように見える)点である。
森氏の態度を見ていると、「なぜこの人は、ここまでズレているのだろうか?」という疑問が湧いてくる。

(2)フランスの哲学者サルトルによれば、人間は常に「他人のまなざし」から逃れることはできず、「他人にどう見られているか」によって自分という存在が規定される。
そのため、人間社会には、常に「見るもの」と「見られるもの」という関係が横たわっている。

(3)森氏の態度の「ズレ」の原因は、自身の発言が報道され「見られるもの」に転落したその本人が社会からの「まなざし」を認識しておらず、羞恥心を全く感じていないことにある。
すなわち、国際社会や多くの日本人が持っているジェンダーや差別に関する感覚は、森氏が感じる他者からの「まなざし」にまではなっていなかったといえる。

(4)サルトルは、世界の現実は「私」の一部であり、私は「外側の現実の一部」でもあると考え、世界の現実を「自分ごと」として主体的によいものにしようとする態度(アンガージュマン)が重要であると主張する。
サルトルによれば、「反対意見を言わない」という沈黙は、「その主義主張に反対をしない」という一つの態度表明であるということになる。

(5)この考え方に基づけば、森氏の発言の責任は、社会や市民一人ひとりの側にあるということになる。そのため、森氏の発言に対する批判の刃は、「わたし」や「あなた」の首元につきつけられ、「それで、あなたはどう行動するんだ?」と問いかけてくることになる。

(6)(7)だからこそ、私達一人ひとりの日々の言動や行動が、社会全体の空気を作っていくという点が重要であり、特にジェンダーの問題は、社会全体の空気をじわじわと変えていく必要がある。
また、歴史的なパラダイム・シフトは、実は世代交代によって起きてきたという点も重要である。


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最後までご覧いただきありがとうございました!
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