『不満足な豚』になるな。
こんにちは、にっしー(@Kosuke241_N)です。
先日、親友のりらがとあるノートを公開しました。
このノートのテーマは、「不幸であることを自覚すべきか否か」。
ノートに僕の名前も登場していると言うことと、この話題に関して度々自分の中で内省したり りらや他の人と語っている内容と言うこともあるので、僕自身の現時点での考えを示しておこうと思います。
最初に断っておきますが、今回のnoteは5000字と長い上に読みにくく、理解しにくいと思います。
満足度とは、量でも質でもなく『割合』である
まず議論の前提となる、幸せについての僕の見解から始めます。
そのために満足について考えます。
そもそも満足かどうかは、それぞれの行為の絶対的な満足量 ではなく 相対的な満足度(それぞれの行為の絶対的な満足量 / 知っているMAXの満足量)で感じられるものだと思うのです。
どういうことかというと、仮に
①野菜が食べられることの満足量が10
②お肉が食べられることの満足量が100
③ドレッシングをかけて野菜が食べられることの満足量が50
だと置いた時に、
そもそもお肉なんて知らない、野菜さえ食べられれば満足な豚(MAX満足量=10)が野菜を食べる時(満足量10)に感じるのは
満足量 10/ MAX満足量 10 = 100%満足、超HAPPY
一方で、お肉の美味しさを知っている人間(MAX満足量100)が野菜を食べる時(満足量10)に感じるのは
満足量 10 / MAX満足量 100 = 10%満足、ぜんぜん不満
もし野菜にドレッシングをかけるて食べることができても(満足量50)、お肉の美味しさを知っている人間(MAX満足量100)は
満足量 50 / MAX満足量 100 = 50%満足、普通
50%の満足しか感じられないってことになります。
(わかりやすく説明したつもりなんですけど、伝わりますか、、?)
満足な豚か、不満足なソクラテスか
満足度に関してこのような見解を持っていると踏まえた上で、J・S・ミルの例の言葉を思い出してみましょう。
『満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。それと同じように、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。』
(もしこの言葉を知らない人がいれば、彼の言葉や功利主義に関して 前述のりらのnoteを参照してください。ごくごく簡単に言えば、これは功利主義に質的な視点を取り入れたJ・S・ミルの言葉です。)
この言葉の『良い』を『幸せだ』に置き換え、さらに先ほどの満足量・満足度を追記してみると、
『満足度100%だが満足量10の豚であるより、満足度50%だが満足量50の人間である方が幸せだ。それと同じように、満足度100%だが満足量100の愚者であるより、満足度50%だが満足量500のソクラテスである方が幸せだ。』
(まあ仮にソクラテスは満足量が1000の最強の食べ物を知っているが、満足量500のステーキwithライスしか食べれないやつだと考えてください。)
なるほど、さすが功利主義者だけあって、ミルは満足度の割合よりも絶対的な満足量を優先して幸せを捉えているわけですね。
一方で僕の考えでは、絶対的な満足量なんて関係なく、その人が現状に満足していれば十分幸せなんです。
高瀬舟に出てくる喜助的な(もし高瀬舟を知らなかったら、これを機にぜひ読んで、喜助の生き方について考えてみてください)、現状に満足し それを楽しめる人間であれば十分幸せで、それを第三者が口出しする必要はないと思っています。
カリクレス的考え方
「幸せは割合です。足るを知るをモットーに生きましょう!」
で、終われれば楽なんですけど、残念ながらそう簡単には行きません。
なんの脈絡もありませんが、ここでカリクレスという、プラトン著『ゴルギアス』において ソクラテスに議論で負かされる紀元前5世紀のアテナイの政治家の言葉を引用します。僕の意見とは関係ありません。引用したくなっちゃいました。
少し長いです。読みやすいように要約してますが、めんどくさい人は下に主張をまとめているので飛ばしてください。
正しく生きようとする者は、自分自身の欲望を抑えるようなことはしないで、欲望はできるだけ大きくなるがままに放置しておくべきだ。そして、できるだけ大きくなっているそれらの欲望に、勇気と思慮をもって、充分に奉仕できる者とならなければならない。そうして、欲望の求められるものがあれば、いつでも、何をもってでも、これの充足をはかるべきである、ということなのだ。しかしながら、このようなことは、世の大衆にはとてもできないことだとぼくは思う。だから、彼ら大衆は、それをひけ目に感じるがゆえに、そうした能力のある人たちを非難するのだが、そうすることで彼らは、自分たちの無能力を蔽い隠そうとするのである。(中略)こうして彼らは、(中略)自分たちは快楽に満足をあたえることができないものだから、それで節制や正義の徳をほめたたえるけれども、それも要するに、自分たちに意気地がないからである。
けれども、始めから王子の身分に生まれた人たちだとか、あるいは、自分みずからの持って生まれた素質によって、独裁者の地位であれ、権力者の地位であれ、何らかの支配的な権力を手に入れるだけの力をそなえた人たちだったとしたら、おおよそそのような人たちにとっては、節制や正義の徳よりも、何がほんとうのところ、もっと醜くて、もっと害になるものがありうるだろうか。
(中略)贅沢と、放埒と、自由とが、背後の力さえしっかりしておれば、それこそが人間の徳(卓越性)であり、また幸福なのであって、それ以外の、ああいった上べを飾るだけの綺麗事や、自然に反した人間の約束事は、馬鹿げたたわごとにすぎず、何の値打ちもないものなのだ。
(プラトン著、加来彰俊 藤沢令夫訳、『プラトン全集9 ゴルギアス メノン』、岩波書店、1974年、P.137-140)
(ちなみに「神は死んだ」でおなじみのニーチェは、カリクレスのことを尊敬していたそうです。)
彼の主張をまとめると、
・欲望は抑えずできる限り大きくし続け、それを満たし続けられるべきだ。
・そうすることができない人が、できる能力や境遇にある人を妬んで非難するが、それは自分の無能力さを隠したいからだ。
・それを満たす能力がある人にとって、欲望や贅沢こそが幸福なのだ。
(重ねておきますが、ここではなんとなくゴルギアスを引用したくなったので引用しただけです。)
りらの主張
ここで りらの主張を思い出してみましょう。彼は、
真に強い者は、自分が恵まれた環境を自覚している者たち。
いわば『満足なソクラテス』とでも言いましょうか。自分自身がしたいことを、環境を最大限利用し突き詰める人たち。僕が大学生活で出会った素敵な人たちは、そういった人たちで、心の底ではずっと羨んでいました。
しかし、真に憎いのは『満足な豚』です。
彼らは自分の恵まれた環境に自覚せず甘んじ、マジョリティーの人間よりも圧倒的に少ない努力量で、時には努力なんてせず結果を出します。
(中略)
別に僕は自分のことを不幸だと思ってるわけではないです。
僕はいろんなことに恵まれていました。
自分をサポートしてくれる親がいて、共に活動してくれる友人たちがいます。
ただ、時たま思うだけです。
「あぁ、もっとこうだったらいいのにな。」と。
その「もっとこうだったらいいのに。」という僕の理想を体現している人たちが、周りに沢山いるというだけのことなのです。
けど、だからこそ、頑張れたのかもしれないと思うことが多々あります。
結局、人間理想を追いかけて現状に満足しない「不満足なソクラテス」で在り続けることが大事なのかも、と思ったり。
このように語っています。
正直言ってめちゃくちゃ共感です。
自分が不幸とは全く思っていないけど、「もう少しラクにやりたいことがやれれば良いな」って思うことが 全く無いと言ったら完全に嘘になります。
ちなみの僕の夢は
・東京大阪を夜行バスを使わず新幹線で往復できる人になる
・カフェで一番安いコーヒー以外でも気楽に頼める人になる
・古本屋さんを何件も回って読みたい本を探すんじゃなく、読みたい本は新品で買える人になる
ことです。
でも、不思議と『満足な豚』には反感は覚えないんです。
『満足した豚』って本当に実在するのか。
そろそろなんの話やねん。
ってなってくるけど、僕が人と接する上での最重要スタンスは以下のnoteの通りです。
読むのがめんどくさい人向けにまとめると、
「心に抱えた孤独や虚しさと 誰も笑顔の裏闘ってる」っていうお話し。
(いやタイトルそのまんまやん!ってツッコミはおいといて、冗談抜きでこれがもっとも簡潔でわかりやすいまとめです。)
満足した豚も、実は空を自在に飛び回る鳥に憧れて 空を飛びたくてもがいているかもしれない、立派な鬣を備えた馬を見るたびに惚れ惚れしていて、そんな馬みたいな美しい鬣を身につけるにはどうすれば良いかを考えて苦悩しているかもしれない。
今の時代、どうやっても「知らない」なんてことはできないです。
インスタグラムで友達の充実したリアルも「知れる」し、
ニュースを見れば世界には学校に通えない子供達がいることを「知れ」るし、
戦争地帯に暮らす人がいることも簡単に「知れ」ます。
普段から考えないかもしれないし、考えるのを拒否しているのかもしれないけど、実際ほとんんど誰もが自分が得た知識や経験から『理想』を持っていて、その『理想』と今の自分の『リアル』の間に横たわる『ギャップ』に苦しんでいると思うんです。
そんな実情を知らずに満足”そうに見える”豚を批判するのが嫌なんです。
必死で『自分は満足なんだ』って言い聞かせている人がいれば、「それが僕らなんだよ」って声をかけてあげたい。
みんなちがって、みんないい
さて、ヒートアップしてきましたがもうそろそろ終わります。
ここまで読み進めた人、あとちょっとです!
これは別の記事で書きたいと思っていることですが、僕の座右の銘は
人は、誰でも、どこかに、その人なりに輝ける場所がある
という言葉です。
全員がザッカーバーグになれなくて良いし、全員が落合陽一になれなくても大丈夫。
清掃員という立場で人類を月に送る手伝いをする人のように、それぞれの場所で、それぞれができることで輝けば良いんです。
それができるようになるために大事になことは、『お互いを認め合える関係性』を作っていくことじゃないでしょうか。
誰かの『理想』を不可能だと言って切り捨てるんじゃなく、それに1歩でも近づけるように応援する。
それぞれの『理想』に優劣なんてないんだから、お互いの理想を分かち合い、たとえ相手のことが理解できなくても、それを認める。
そもそも『理想』に正解も不正解もないんだから、みんながそれぞれの『理想』に走っていける環境を作る。
そうしていくことが、今の僕らに求められることなんじゃないでしょうか。
『不満足な豚』になるな
全てを自らの不幸な境遇のせいにして、何も行動を起こさない人がいて欲しくない。
自分が恵まれない境遇にあるからと言って、他人の足を引っ張って欲しくない。
変わりたいと言いながら、本当は悲劇のヒーロー気取りを続けたい。なんて状況はよくないに決まってる。
とにかく、自らの境遇を嘆いてばかりで何もしない『不満足な豚』にだけはなったらダメなんです。
僕が嫌いな人がいるとすれば、それは”自らの境遇を嘆いてばかりで何もしない『不満足な豚』”です。
不幸であることを自覚すべきか否か
最後に、忘れかけていたnoteのテーマに戻りましょう。
不幸であることを自覚すべきか否か。
僕の結論は、、、どっちでも良い。
ここにきてどっちでも良いかよー、、!
自分でもびっくりの結論。
でも 本当に、1番大事なのは『幸せなのか不幸なのか』じゃなく、『与えられた境遇の中で できる限りのことをして、自分のやりたいことに向かって進んでいけるかどうか』だと思います。
僕は現在 不幸ではないし、今の状況に不満を感じている訳でもないけど、もっと素敵そうな世界を知ってしまったから、その世界と現状のギャップを埋めるために自分なりに動いてみています。
それぞれ、自分の環境の中で、自分にできることを頑張っていきましょう。
note読んでいただき ありがとうございます! 頑張って執筆していきますので、よかったら次の記事も読んでみてください!