日の目を見ない人にも感謝したい
8月31日は、とまりぎ同窓会2019『Tobitate祭 〜集う・繋がる・創っていく〜』でした。
自分は運営コアとして5月ごろから、この同窓会の企画に携わっていました。
「運営側として動いていたので、今回のイベントには思い入れがある」という事実を抜きにしても、昨日の本番は成功だったと思うし、参加者の様子を見ているとものすごい達成感がありました。
ただ、同時に思ったのは、「『運営』は影の存在ではなく、むしろ目立つ。本当の影の存在は、それを支えるスタッフである」ということでした。
スタッフに残ったものとは?
「運営は黒子だ」とかよく言うけど、実際は例えば運営代表や司会、パフォーマーや作品提供者、トランシーバー持って動き回ってる人って、逆に目立ってるし顔も覚えてもらえるんですよね。
だからいろんな人に声をかけてもらいやすいし、仕事を労ってくれるし、その結果、本番が終わったあとの充足感や満足感も感じやすい。
でも、当日スタッフはそうじゃない。
当日スタッフとして動いていた人の顔を、参加者はどのくらい覚えているでしょうか。
たぶん覚えていて1〜2人、だいたい1人も覚えてないと思うんですよね。
でも、彼らの活躍がなかったらイベントは絶対に成功しませんでした。
もちろん、目立つ人はそれなりの責任を持っていたり多くの仕事をこなした人たちなので、別にそういった人たちを否定したいわけではありません。
でも、仕事の量や責任の量を差し引いても、当日のスタッフには圧倒的に残るものが少ない気がしてならないんです。
無名の人の存在で、全ては成り立つ
大きなイベントはむしろ、役職の付かない無名の人のたくさんの協力のもとに成り立っています。
人を支えるのが好きな人は多いし(僕もその1人だけど)、それを楽しめる人もたくさんいます。
でも、昨日のような運営方法で、多くの仕事を完全ボランティアでこなし、自分自身に新しい知り合いが増えるわけでもない。もちろん金銭の授受もない。
そんな中、次回もぜひスタッフをやりたい!って思える人はかなり少ないと思うんですよね。率直に。
実際昨日はけっこうきつかったと思う。
だから何が言いたいって訳ではないし、僕にもまだまだ分からないこととか知らないことが多い。見えていない部分も多いと思うけど、少なくともスタッフの1人1人に個人として感謝したいと思います。
本当の意味で、関わってくれた人全員に心から感謝したいなあ、と。(ここでの言葉がめちゃくちゃ軽いのは重々承知しています。)
「昨日ボランティアとして働いてくれてありがとう!」
ではなく、
「昨日のイベントに、○○さんがスタッフとして動いてくれて本当によかった!ありがとう!」
って言えたら良いなって、(今は)思ってます。
承認されたいだけなのかもしれない
こうやって書いてきたけど、結局僕は人のために働いてるわけじゃなく、自分のために働いてるんですよねえ、きっと。
そういう意味で、ただ承認欲求があるだけだし、この文章も自分のために書いてるという側面が実は強いと思います。
めちゃくちゃ褒められたいし認められたい。
でもそれは全体としての仕事や成果に対してじゃなくて、個人の存在に対しての承認が欲しい。
それを求めて、何が悪いんだろう。
そんなことを考えた、本番翌日でした。
2徹で迎えたからの本番からの、寝不足の状態なのでもしかしたらひどい文章かもしれないけど、もし何かしら響いたら、ちょっとこういうことについても立ち止まって考えてみたりして欲しいです。
note読んでいただき ありがとうございます! 頑張って執筆していきますので、よかったら次の記事も読んでみてください!