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午後3時の交渉学 第6話「価格交渉の流儀」
1. 見積書の迷路
「この金額は、どう見ても...」
カフェ・フィロソフィアのテーブルには、三社の見積書が広げられていた。40代前半の女性、藤本美咲は、額の違いに困惑した表情を浮かべている。
リビングのリフォーム見積もり。最も高い会社と最も安い会社で、80万円もの差があった。
榊原教授は、いつもの窓際の席から、その光景をしばらく見守っていた。美咲は先月、教授の研究室の同窓会でこのカフェを知り、それ以来の常連になっていた。
「藤本さん」教授は静かに声をかけた。「見積書との睨めっこは、もう30分になりますよ」
「先生...」美咲は申し訳なさそうに微笑んだ。「見積書を見ていると分かる方がいらっしゃるかと思って」
「なるほど」教授は席を移動しながら言った。「私の広告代理店時代の経験が、お役に立つかもしれませんね」
「広告代理店...ですか?」
「ええ。価格というのは、時として見えない価値を映し出す『鏡』なんです」
そう言って教授は、ウェイトレスにコーヒーを注文した。午後の陽光が、テーブルの上の見積書を照らしている。
「では」教授は穏やかに微笑んだ。「価格交渉の『流儀』について、お話ししましょうか」
2. 見えない数字
「まず、この三社の見積書の『内訳』を見てみましょう」 教授は丁寧に書類を並べ直した。
「A社が280万円、B社が230万円、C社が200万円...」美咲が読み上げる。
「単純に安いほうがいい、とお考えですか?」
「いいえ...」美咲は少し困ったように答えた。「むしろ、安すぎる見積もりに不安を感じて」
「その感覚」教授が嬉しそうに頷く。「とても大切です。価格には、必ず『見えない数字』が隠れているんです」
その時、カフェの入り口のドアが開いた。スーツ姿の中年男性が入ってくる。
「やあ、中村さん」教授が立ち上がった。「ちょうどいいところに」
前回のカフェで出会った元人事部長の中村だった。
「実は中村さん、ご自宅のリフォームを去年されたんですよ」教授が説明する。「その時の経験が、きっと参考になるはずです」
中村は、テーブルの見積書に目を通しながら、静かに笑みを浮かべた。
「ああ、この構図は見覚えがあります」彼は席に着きながら言った。「私も最初、価格の差に悩みました。でも、教授から学んだ『三つの数字』の見方で...」
「三つの数字?」美咲が身を乗り出す。
教授は、白いナプキンの上にペンで丸を三つ描いた。
「価格交渉で最も重要なのは、『表の数字』『隠れた数字』、そして『未来の数字』です」
美咲は急いでスマートフォンのメモ帳を開いた。窓の外では、秋の風が木々を揺らしている。
3. 三つの数字の真実
「まず『表の数字』」教授がナプキンの一つ目の丸を指す。「これは見積書に書かれた金額だけではありません」
中村が説明を引き継いだ。「私の場合、各社に『過去の施工実績は何件か』『年間どれくらいの件数を手がけているか』という質問をしました」
「なるほど」美咲がメモを取る。「実績という数字ですね」
「その通り」教授が続ける。「次に『隠れた数字』。これが実は最も重要です」
「私も、ここで失敗しかけました」中村が苦笑する。「見積額以外にかかる費用、例えば...」
「例えば?」
「養生シートの費用、近隣への挨拶代、廃材の処理費用、それに保証期間が切れた後のメンテナンス費用...」中村は指を折りながら説明した。「最も安い見積もりを出した業者は、これらを別途請求すると小さく書いてあった」
教授は静かに頷きながら、コーヒーに手を伸ばす。
「広告業界でもよくある話です」 その言葉に、美咲と中村が興味深そうに顔を上げた。
「私が若かりし頃」教授の目が遠くを見つめる。「大手メーカーの広告キャンペーンを担当していました。競合他社より大幅に安い見積もりを出したのはいいのですが...」
「何が?」
「印刷費、素材費、改版費...次々と追加請求が発生。結局、全体のコストは競合の1.5倍に」教授は自嘲気味に笑う。「その時、上司から叩き込まれたんです。『価格は氷山の一角。水面下の数字こそが本質だ』とね」
美咲は見積書を見直し始めた。確かに、細かい但し書きの項目が、それぞれ微妙に違っている。
「そして最後が」教授が三つ目の丸を指す。「『未来の数字』です」
その時、スマートフォンが震えた。C社からのメールだった。
「追加のお見積もりが...」
4. 広告マンの告白
「『工事中に床下の補強が必要になる可能性があります。その場合、追加で30万円ほど...』」 美咲がメールを読み上げる。
「なるほど」教授が意味深に頷く。「『未来の数字』が見え始めましたね」
そこで教授は、自らの経験を語り始めた。
「私が広告代理店を辞めることを決意したきっかけは、ある大きな失敗でした」教授の声が、いつもより少し低くなる。「創業100周年を迎える老舗企業のキャンペーンでした」
中村と美咲は、静かに耳を傾ける。
「予算内に収めようと、品質や安全性の面でぎりぎりの選択をしていった。結果、式典当日にトラブルが...」教授は深いため息をつく。「そこで気付いたんです。価格交渉とは、単なる数字の押し問答ではない。それは『価値の対話』なんだと」
ウェイトレスが新しいコーヒーを運んでくる。湯気が立ち上る様子を、三人はしばらく黙って見つめていた。
「実は」美咲が静かに切り出した。「このリフォーム、私の母との思い出の家なんです。母は今、介護施設で。でも時々、家に帰ってきたがって...」
教授の目が、優しく輝いた。
「そうですか。では、この工事には『見えない価値』があるわけですね」
「はい。だから単に安ければいいわけじゃなくて...」
「そこです」中村が熱心に言った。「私が最終的に選んだのは、一番高いA社でした。なぜか分かりますか?」
美咲は首を傾げた。
「その理由を、お話ししましょう」 中村は、自身のスマートフォンの画像フォルダを開き始めた。
5. 写真の中の価値
「これが、私の家のリフォーム前と後です」
中村が見せる写真には、古い和室が美しいモダンな空間に生まれ変わった様子が映っていた。しかし教授は、その写真よりも、その横にある一枚の写真に目を留めた。
「この写真は?」
「はい」中村が優しく微笑む。「工事期間中、職人さんが毎日、家族の写真を養生テープで丁寧に保護してくれていた時の様子です」
美咲は息を呑んだ。
「A社の現場担当者が『お客様の大切な思い出は、私たちも大切にさせていただきます』と」中村は続けた。「その言葉に、妻が涙を流したんです」
教授は静かに頷いた。 「価格の背後にある『価値』が見えてきましたね」
「それだけではありません」中村がさらに写真をスクロールする。「工事中、近所への挨拶回り。毎日の清掃。そして...」
最後の写真には、工事完了後に開かれた小さなティーパーティーの様子が映っていた。
「職人さんたちが『お施主様と一緒にお茶を』と提案してくれて。家の思い出話に花が咲いて...」
「なるほど」教授が意味深に言う。「『金額以上の価値』を提供する姿勢が見えると」
美咲は自分の見積書を見直し始めた。 「そういえば、A社の担当者は『お母様が戻ってこられる時のことも考えて』と言ってくれて...」
その時、カフェの扉が開いた。 見覚えのある顔。第一話で中古車の購入を相談した藤原が、満面の笑みで入ってきた。
「先生!ご報告があって...」
教授は、意味深な微笑みを浮かべていた。 新しい「交渉の物語」が、また始まろうとしていた。
6. 価値の循環
「藤原さん」教授が立ち上がる。「その笑顔を見ると、良い選択ができたようですね」
「はい!」藤原は勢いよく頷いた。「実は昨日、車を購入したんです。ただし...」
彼女は少し照れたように笑う。 「最初に検討していた外車ではなく、国産車を。でも、その分浮いた予算で、両親へのプレゼントも」
「ほう」教授が興味深そうに促す。
「実家の古くなったエアコンの取り替えを。業者さんとの交渉も、先生に教わった通り、具体的な数字で...」
美咲が思わず身を乗り出した。 「エアコンの取り付け...私も来月検討していて」
「あ、よろしければ」藤原が自分のスマートフォンを取り出す。「見積もり比較表を作ったんです。これ、すごく役立って...」
中村が教授に向かって小声で言った。 「先生の教えが、こうして循環していくんですね」
「ええ」教授は満足げに頷く。「価値ある交渉は、必ず誰かの役に立つ。それが私の信念です」
その時、美咲のスマートフォンが鳴った。A社からの着信だ。
「出てみましょう」教授が促す。「ただし、『表の数字』『隠れた数字』『未来の数字』。そして、その先にある『価値』を意識して」
美咲は深く息を吸い、電話に出た。
「はい、藤本です...ええ、見積もりの件で...」
窓の外では、秋の夕暮れが街を優しく染め始めていた。
(第6話 終わり)