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Midnight #5 「波紋の声」 真夜中の賢者
銀座の街が、年の瀬の慌ただしさを増していく。大手企業が立ち並ぶオフィス街は、来期の予算策定と年末商戦の熱気に包まれていた。クリスマスイルミネーションは、そんな喧騒をより一層華やかに彩っている。
その賑わいから一歩外れた路地に、Bar Exchangeは佇んでいる。重厚な木戸の向こうから、ビリー・ホリデイの「Lover Man」が静かに漏れ出ていた。
上司から「あそこなら、何か見つかるかもしれない」と教えられた場所。木戸の前で、女性は一瞬たじろぐ。濃紺のスーツに、艶のある黒のパンプス。髪を一つに束ねた姿は、どこか凛としていながらも、今宵は疲れの色が滲んでいた。
意を決して、ドアに手をかける。暖かな光が、寒気と共に彼女を包み込んだ。
「いらっしゃいませ」
マスターの声が、静謐な空間に響く。
「失礼します...」
声には緊張が混じっていた。水島玲子、32歳。システムインテグレーターの中堅企業で営業部長を務めている。就任して一年。顧客の課題を的確に読み取る力を買われての抜擢だった。しかし今夜は、その自信が大きく揺らいでいた。
一杯目 『凍てつく心』
「カウンターはいかがでしょうか」
鷹宮は、バーの端の席へと視線で彼女を導いた。その場所は、バーの照明が柔らかく当たり、心を落ち着けるのに適した位置だった。
水島は、おそるおそるカウンターに腰掛ける。高級な木材が織りなす落ち着いた内装に、一瞬たじろぎそうになる。普段の彼女の行動範囲からは少し外れた場所。それでも、今夜はここに来るしかないと思った。
「お飲み物は...」
言いかけたマスターの言葉を遮るように、水島のスマートフォンが震える。画面には「藤川常務」の文字。一瞬、彼女の表情が強張った。
「失礼します」
水島は電話に出ることなく、マナーモードに切り替える。その仕草には、慣れない場所での緊張感と、何かから逃れたいような思いが混じっていた。
「お勧めのものを」
精一杯の強がりを込めて言ったその声は、少し震えていた。
マスターは無言で頷き、背の高い銅製のマグを取り出す。ウォッカを注ぎ、ジンジャービアを加えていく。
「モスコミュール。冷たい夜には、温かみのある一杯を」
ライムを絞り、カウンターに置かれたマグからは、生姜の香りが立ち上っていた。
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「ありがとうございます」
水島は両手でマグを包み込むように持った。温もりが、凍えた指先に染み渡る。
「私...今日、大きな商談がありました」
マグからそっと立ち上る湯気を見つめながら、彼女は話し始めた。
「大手自動車メーカーの基幹システム、刷新の案件です。このプロジェクト一つで、私たちの来期の売上げが決まると言っても過言ではない。それくらい重要な案件で...」
一口飲んだモスコミュールの温かさが、少しずつ言葉を解きほぐしていく。
「最終プレゼンは、完璧だったと思います。機能要件は全て満たし、移行計画も綿密で、チームの技術力も高く評価していただいた。でも...」
そこで言葉を切る。マグの中で、氷がゆっくりと溶けていく音が響いた。
「最後に調達部長が切り出してきたんです。『素晴らしい提案だ。ただし、このご時世だ。価格については、もう一度考えていただきたい』と」
「具体的な数字は?」
マスターが静かに促す。
「20%の値引きです」
水島の声が僅かに震えた。
「原価率が厳しい案件なのは、先方もご存知のはず。それなのに、なぜこんな...」
再び、スマートフォンが震える。今度は「田中課長」からのメッセージ。『明日朝一で対応案を』
「藤川常務なら、こんな無理難題にもきっと...」
そこで言葉を飲み込む。今日のプレゼンに常務が同席できなかったことへの後悔が、また彼女の心を締め付けた。
二杯目 『澄んだ波紋』
「二杯目は、いかがいたしましょう」
マスターの声が、彼女の混乱した思考を優しく遮った。
「何か...すっきりとしたものを」
マスターは静かに頷くと、背後の棚からジンのボトルを取り出した。
「ギムレット。考えを整理するのに向いたカクテルです」
氷を使わず、ジンとライムジュースだけで作られるカクテル。透明な液体が、クーペグラスに注がれていく。その清らかな流れに、水島は見入っていた。
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「かつて、私がある国際交渉の場に立ち会った時のことです」
グラスを置きながら、マスターは静かに言葉を紡ぎ始めた。
「日本の自動車メーカーと、アメリカの部品メーカーとの取引交渉でした。最初、アメリカ側は法外な価格を提示してきた。誰もが、それは受け入れられないと思った」
マスターの目が、遠い記憶を辿るように細められる。
「しかし、それは交渉の常套手段だった。最初に極端な要求をすることで、その後の『妥協案』が、どれほど合理的に見えるか」
水島は、その言葉の意味を考えながら、ギムレットを一口含んだ。透明な液体は、舌の上で爽やかな余韻を残していく。
「心理学では、これを『対比効果』と呼びます。私たちは常に、物事を相対的に判断する生き物なのです」
「相対的に...」
「たとえば、40度のお湯に手を入れた後では、20度の水は冷たく感じる。でも、5度の水に手を入れた後なら、同じ20度の水が温かく感じる」
マスターは、カウンターに置かれた水滴を、静かに布で拭い取りながら続けた。
「その部品メーカーの本当の狙いは、価格ではありませんでした。彼らが求めていたのは、長期的な取引関係の確立。最初の法外な要求は、その後の本命の条件を通すための『対比』として機能していたのです」
「では、この20%という数字も...」
水島の目が、僅かに輝きを増す。
「プレゼンの最中、調達部長は何か、特に関心を示した項目はありませんでしたか?」
「そういえば...保守体制の説明の時、やけに熱心にメモを取っていました。『24時間365日の対応は、本当に可能なのか』と」
「なるほど」
マスターの声には、確かな理解が滲んでいた。
三杯目 『真実の波紋』
窓の外では、雪が静かに舞い始めていた。時計の針は、午後11時を指している。
マスターは、普段は使わない棚から、特別なグラスを取り出した。底が二重になった、不思議な形のグラス。その下層部分には、鏡のように磨き上げられた銀箔が施されている。
「このカクテルは...」
そこでマスターは一瞬言葉を切り、遠い記憶を辿るように目を細めた。
「かつて、ある重要な交渉の場で出会ったものです。交渉の本質を教えてくれたカクテルです」
最初に注がれたのは、無色透明な液体。グラスの底に、静かな水面のように広がっていく。
「人の言葉には、いつも表層の波紋があります。時に、その波紋に目を奪われすぎると...」
次に注がれたのは、薄く青みを帯びた液体。グラスの底で、銀箔が微かに輝きを放つ。
「本当の意図を見失ってしまう」
最後に加えられたのは、一滴の透明な液体。それが落ちた瞬間、グラスの底から細かな泡が立ち上り始めた。その泡は表面で広がり、まるで満月の夜の海面のような模様を描き出す。
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「これを『Echo』と呼ばせていただきましょう」
完成したカクテルは、底からゆっくりと立ち上る泡が、表面で波紋を描き続けている。まるで、誰かの言葉の余韻のように。
水島は、うっとりとその変化を見つめていた。そして、ゆっくりとグラスに手を伸ばす。
「調達部長は...」
彼女の声に、確信が宿り始めていた。
「20%の値引きは、本当の要求ではない。むしろ、システムの安定性、保守の確実性。それこそが、先方の本当の関心事なのかもしれません」
「相手の言葉は、このカクテルのように」
マスターは、グラスに映る照明を見つめながら言った。
「表面の波紋の下に、本当の意味が隠れている。時には、その波紋が落ち着くのを待つことも大切です」
水島は、カクテルを一口含んだ。爽やかな清涼感の後に、深い余韻が広がっていく。
「明日、もう一度プレゼンの機会をいただこうと思います。値引きの話は後回しにして...まずは保守体制の具体的な提案から。24時間体制の実現可能性、チームの態勢、過去の実績...」
グラスの中で、泡は静かに立ち上り続けていた。その波紋は、今や彼女の心の中にも、確かな形を描き始めていた。
外では、雪が降り続いている。しかし、その白い雪片の向こうに、確かな明日への光が見えていた。