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Midnight #2 「絆の檻」 真夜中の賢者


一杯目:影が揺れるころ

銀座の街を強い風が吹き抜けていった。 十一月の寒気が、高層ビルの谷間を縫うように通り過ぎる。 ネオンの明かりが揺れ、急ぐ人々の足音が石畳に響く。

古びたビルの地下、重厚な木戸の前で、一人の女性が立ち止まった。 真鍮のドアノッカーが、ほのかな光を放っている。 「Bar Exchange」という控えめな表札だけが、ここが特別な場所であることを物語っていた。

ドアを開けると、いつもと違う景色が広がっていた。 ショーケースの照明が一つ消え、琥珀色の灯りの代わりに、やや青みがかった光が不思議な影を落としている。 コルトレーンの「Blue in Green」が、その光景に不思議なほど馴染んでいた。

「球切れです」 マスターはそう言いながら、グラスを丁寧に磨いていた。 その腕の動きには、何か意図的なものが感じられた。

カウンターに座る女性は、平井咲子。34歳。 大手電機メーカーの購買部で最年少マネージャーとして頭角を現してきた実力者。妥協を許さない仕事ぶりと、取引先への誠実な対応で、業界内での評価も高かった。「平井さんの一声で決まる」と言われるほどの存在だった。

しかし今夜は、その凛とした佇まいに、見慣れない疲れが染みついている。 バーボンのロックを前に、三度目のため息。 スマートフォンには、ある取引先からのメールが、青い照明を冷たく反射していた。

「困りましたね」 マスターは、暗くなったショーケースから一本の古いボトルを取り出しながら言った。

「分かりますか?」 平井の声には、疲れと共に僅かな驚きが混じっていた。

「ええ。メールの差出人を、何度も見返していましたから」
マスターは、古いボトルのラベルを青い光に透かした。
「長年の取引先。そこから、受け入れがたい条件を提示された」

平井は小さく頷いた。 グラスの氷が、静かに溶けていく。

「15年のお付き合いです」 彼女は画面を見つめたまま言った。
「私が新入社員の頃からの取引先で、山下電機さん。開発部の若手だった山下専務が、今は経営のトップに」

「なるほど」 マスターは古いボトルからアンバー色の液体を注ぎ始めた。

「うちが納期トラブルで大変な時期がありました」 平井の目が、遠い記憶を追いかけるように細まる。
「他社は軒並み見放す中、唯一支援してくれたのが山下さんで。夜通し付き合ってくれて、なんとか危機を乗り越えられた」

「そうでしたか」 マスターの声には、静かな温かみがあった。

「だから今回も...」 平井は少し言葉を詰まらせた。
「予算は厳しいけど、なんとか応えたい。けれど部下たちの顔を見ると...」

「新規案件の内容を、もう少し詳しく聞かせていただけますか?」

二杯目:青い光のもとで

平井はスマートフォンを置き、真っ直ぐにマスターを見た。

「半導体の製造装置の開発案件です。予算は例年の半分以下。でも作業量は1.5倍」 彼女は一息ついて続けた。
「しかも、納期は3ヶ月短縮。技術者たちの残業は確実に増える」

「そこまでの無理が...」 マスターの言葉に、平井は苦しそうに頷いた。

「部下たちにも『断るべきです』と進言されました。でも、山下さんから直々に『頼むよ』って...」 平井は一気にグラスを傾けた。

カウンターの隅では、中年のサラリーマンが資料とにらめっこしている。彼も時折、平井の話に耳を傾けているようだった。

「面白いことを思い出しました」
マスターは、古いボトルを手に取った。
「このボトル、実は先週、あるお客様が置いていかれたものなんです」

ラベルには、1962年という年号が記されている。

「とても価値のあるウイスキーですね」 平井が声を潜めた。

「ええ。でも、私は何も頼んでいない」 マスターは静かに続けた。
「それなのに、このボトルを飲むたびに、私は何かお返しをしなければならないと感じるでしょうか?」

「それは...」 平井の言葉が途切れる。

『返報性の原理』という心理効果をご存知ですか?」

マスターは、ゆっくりとボトルを傾けた。
「人は何かを与えられると、必ずお返ししたくなる。それは、ビジネスでもよく使われる手法です」

カウンターの中年サラリーマンが、小さくため息をついた。
「ああ、あの手法か」

「手法、というと?」 平井の声が、わずかに震えた。

「先日、あるワイン専門店で興味深い場面を目にしました」
マスターは、グラスに映る青い光を見つめながら話し始めた。

「常連客が、店主に高級ワインを贈ろうとしていたんです。しかし店主はこう言いました」 マスターは一呼吸置いて続けた。
「『お客様の信頼こそが、私の誇りです。それ以上の贈り物はありません』と」

平井は黙ってグラスを見つめた。

「実は、この球切れにも意味があるんです」 マスターは、暗いショーケースを指さした。 「暗くすることで、残った明かりの価値が、より鮮やかに見えてくる」

三杯目:本当の価値

「そうか...」 平井の声に、新しい強さが宿り始めていた。

「昔、山下さんが助けてくれたのは」 彼女は、自分のグラスを見つめた。 「私たちの技術を信頼してくれていたから。単なる『恩義』ではなかった」

マスターは静かに頷いた。 暗いショーケースに、かすかな明かりが灯った。

「ビジネスにおける『恩義』とは、取引の一つの形に過ぎない」
マスターの声には、確かな重みがあった。
「相手が無理を聞いてくれたのは、あなたの会社に『価値』があったから。そして、その価値を信じていたからです」

中年のサラリーマンが、バーカウンターから離れようとして足を止めた。 「私も随分と、そんな『恩義』に縛られてきました」
どこか懐かしむような口調だった。

平井はスマートフォンを手に取り、メールの下書きを始めた。 その表情には、もう迷いはなかった。

「『恩』ではなく『信頼』として、改めて提案させていただきたい」
彼女は、文面を声に出してみる。
「私たちの技術力を評価してくださっているからこそ、より良い価値を提供したい。そのためには、適正な予算と時間が必要だと...」

「返報性の原理は、確かにビジネスで使われる強力な武器です」
マスターは、最後の一滴を注ぎながら言った。
「しかし、それに縛られすぎると、本当の価値を見失ってしまう」

外の風は、いつの間にか弱まっていた。 ショーケースの照明が、ふっと明るさを取り戻す。

「マスター、球切れじゃなかったんですね」 平井の声には、穏やかな笑みが混じっていた。

「ええ」 マスターはスイッチに手をかけながら答えた。

「時に、私たちは明るすぎて、本当に大切なものが見えなくなることがある」

平井は席を立った。 その背筋には、確かな強さが宿っていた。

「このお酒の名前は?」

「『Liberation』」

マスターは、古いボトルのラベルを指さした。
「解き放たれること。自由になること。そんな瞬間を表現したお酒です」

平井が去った後、中年のサラリーマンが小さくつぶやいた。
「随分と深いお話を、ありがとうございました」

マスターは黙ってグラスを磨き続けた。 その手つきには、まるで誰かの来訪を待つような、不思議な優しさが感じられた。

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