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午後3時の交渉学 第4話「結婚式の約束」



1. 涙のカプチーノ

「もう、限界です...」

カフェ・フィロソフィアの片隅で、若い女性が肩を震わせていた。テーブルに置かれたカプチーノには、一口も手をつけていない。

榊原教授は、いつもの窓際の席から、その光景をそっと見守っていた。土曜の午後、カフェには心地よい陽光が差し込み、穏やかな時間が流れているはずだった。

「すみません...」ウェイトレスが心配そうに教授に近づいてきた。「あのお客様、30分ほど前から...」

「ああ」教授は静かに頷いた。「私から話しかけてみましょう」

ゆっくりと立ち上がり、教授はその女性のテーブルに向かった。まだ20代後半だろうか。上品なワンピース姿だが、その表情には深い疲労の色が見える。

「このカプチーノ、冷めてしまいますよ」 教授は優しく声をかけた。

女性が驚いて顔を上げる。 「あ、すみません...私」

「榊原と申します」教授は丁寧に自己紹介した。「このカフェの常連で、時々こうして悩める人の話を聞かせてもらっています」

「私、南條と...」 南條は慌てて涙を拭おうとしたが、逆にハンカチを落としてしまう。教授がそっと拾い上げた。

「結婚式の話で、お母様と揉めているんですね」

南條は息を呑んだ。 「どうして...」

教授は微笑んで説明した。「そのハンカチ、『June Bride』の刺繍入り。それに、その指輪」教授は南條の左手を見つめた。「まだ新しい婚約指輪ですね」

2. 母の想い、娘の願い

「来月、結婚式の最終打ち合わせなのに...」南條の声が震える。「母が、突然『あんな地味な式では駄目』って」

教授は新しいカプチーノを注文しながら、静かに促した。 「詳しく聞かせてもらえますか?」

「私と婚約者の太郎は、少人数での挙式を希望していて」南條は言葉を選びながら説明する。「親族と親しい友人だけ。30名ほどで...」

「ふむ」

「でも母は、最低でも100名は呼ばないと体裁が悪いって。『親戚や会社の人たちに何て説明するの?』って...」

教授はコーヒーを運んできたウェイトレスに、軽く会釈を返しながら言った。 「お母様の年代の方には、結婚式は『社会的な儀式』という意味合いが強いんですね」

「分かっています。でも...」南條は俯いた。「私たちには、そんな大きな式の予算もないし、何より...」

その時、カフェの扉が開いた。 50代後半の女性が、少し躊躇いがちに入ってくる。

「あ...」南條の顔から血の気が引いた。

「お母様ですか?」教授が静かに尋ねる。

南條が小さく頷く。「LINE位置情報をオンにしていたの、すっかり忘れてて...」

南條の母親は、娘の姿を見つけると一瞬たじろいだように見えた。しかし、すぐに背筋を伸ばし、毅然とした様子でテーブルに近づいてきた。

「由美子、ここにいたの」 母親の声には、心配と叱責が入り混じっていた。

教授は立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。 「お母様、よろしければご一緒に」

そして、ウェイトレスに目配せする。 「アールグレイを一つ、お願いします」

母親は少し戸惑ったように教授を見つめたが、ゆっくりと席に着いた。

カフェの中に、微妙な空気が流れる。 窓の外では、春の風が桜の花びらを舞い上げていた。

3. 二つの物語

「南條由美子さん、南條美樹子様」教授は二人の名を丁寧に呼んだ。「まずは、お二人の理想とする結婚式について、お聞かせいただけますでしょうか」

場の空気が一瞬、凍りついたように感じられた。

「私からでいいですか?」美樹子が真っ直ぐな眼差しで切り出した。「結婚式は、人生で最も大切な節目です。由美子は大学を出て、一流企業に就職して...みんなが期待してくれていたのに、なぜこんな地味な式に...」

「母さん、それは」

「待って」教授が静かに手を上げた。「まずは、お母様のお話を最後まで」

美樹子は深く息を吸って続けた。 「由美子の祖父母は、もう足も弱って。親戚一同が集まれる最後の機会かもしれない。会社の上司や同僚だって、皆、由美子の成長を見守ってくれた。そんな人たちを『予算がない』の一言で...」

涙が美樹子の頬を伝い落ちる。

由美子は驚いたように母を見つめた。いつも強気な母が、こんな風に涙を見せるなんて。

「由美子さんは?」教授が優しく促す。

「私は...」由美子はハンカチを強く握りしめた。「確かに、予算の制約もあります。でも、それだけじゃないんです」

ウェイトレスが、アールグレイを運んでくる。湯気が立ち上る様子を、三人はしばらく黙って見つめていた。

「太郎との新生活を考えると、これからの方がずっと大切。無理な支出は避けたい。それに...」由美子は言葉を選びながら続けた。「私たちが望むのは、本当に大切な人たちと、心から喜びを分かち合える時間なんです」

「でも、親戚や会社の方々も、大切な...」

「違うんです」由美子の声が強くなる。「形式的な御祝儀と引き換えに、緊張した雰囲気の中で...そんなのは...」

その時、教授が静かにコーヒーカップを置いた。 カチンという小さな音が、不思議な存在感を持ってテーブルに響いた。

4. 価値の重なり

「お二人の話を聞いていて」教授はゆっくりと口を開いた。「とても興味深い『重なり』に気付きました」

母娘は同時に顔を上げた。

「重なり、ですか?」由美子が首を傾げる。

「ええ。お二人とも、『大切な人との時間』を最も重視されている。ただし、その『大切』の定義が...」

教授は、テーブルの上に白いナプキンを広げ、二つの輪を描くように折り目をつけた。

「由美子さんの『大切な人』は、日々の暮らしの中で深く結びついた方々。一方、お母様の『大切な人』には、人生の長い時間の中で関わってきた方々が含まれる」

美樹子が小さく息を呑む。

「そして」教授は二つの輪が交わる部分に指を置いた。「ここに、お二人の想いが重なる領域がある。祖父母、両親、兄弟姉妹...」

「でも」由美子が言いかけると、カフェの扉が開いた。

「あの、すみません」 若い男性が、少し緊張した様子で立っている。由美子の婚約者、山下太郎だった。

「太郎くん!」由美子が驚いて立ち上がる。

「由美子から連絡がなくて心配になって...」太郎は美樹子に深々と頭を下げた。「お母様、実は僕からも提案があります」

教授は、意味深な微笑みを浮かべながら、ウェイトレスに目配せした。

「ホットコーヒーをもう一つ」 そして母娘に向かって。 「少し、話が広がりそうですね」

窓の外では、夕暮れが近づきつつあった。

5. 婚約者からの提案

太郎は緊張した面持ちで、用意してきた資料をテーブルに広げた。

「お母様」太郎の声には、真摯な響きがあった。「実は先週から、由美子と二人で考えていたことがあって...」

それは、結婚式を二部構成にする提案だった。

「第一部は、由美子と僕たちが望む形で。親族と親しい友人だけの、アットホームな挙式と会食を」太郎は丁寧に説明を続ける。「そして第二部は...」

美樹子の目が、わずかに輝きを帯びた。

「一週間後の土曜日に、より大きな会場でのお披露目パーティーを。会社の方々や、親戚の皆様をお招きして」

「でも、予算は...」由美子が心配そうに言いかけると、太郎は優しく微笑んだ。

「うちの両親も、協力を申し出てくれたんです。それに、二次会形式なら、格式ばった披露宴よりもコストを抑えられて...」

教授は静かに頷きながら、三人のやり取りを見守っていた。

「それに」太郎は美樹子に向き直った。「お母様がおっしゃる通り、祖父母の皆様にとって、家族が集まる大切な機会です。だからこそ、ゆっくりと歓談できる時間を...」

美樹子の目から、再び涙が溢れ出した。しかし、今度はその涙に、温かな光が宿っているように見えた。

「太郎くん...」

その時、ウェイトレスが新しいコーヒーを運んできた。湯気が立ち上る香りが、テーブルの緊張を柔らかく溶かしていくようだった。

教授はそっとカップを手に取りながら、言った。 「交渉とは、時に『新しい選択肢を創造すること』なんです」

6. 記憶の重なり

「実は、もう一つ提案があります」 太郎が、スマートフォンを取り出した。

「写真立てですか?」教授が興味深そうに覗き込む。

「はい。実は、お母様の結婚式の写真を、由美子から見せてもらって...」

美樹子が息を呑む。30年前の結婚式の写真。若かりし日の彼女が、晴れやかな笑顔を浮かべている。

「この写真、本当に素敵で」太郎は真摯な眼差しで続けた。「特に、おじいちゃまやおばあちゃまと一緒に写られたショットが...」

「ああ...」美樹子の声が震えた。「あの頃は、父も母も、まだ若くて元気で...」

「だから考えたんです」太郎は写真を指さした。「第一部の挙式会場に、家族の思い出の写真コーナーを作りたいんです。お母様とお父様の結婚式の写真、由美子の成長記録、そして...」

「私たちの新しい門出」由美子が太郎の言葉を継いだ。「三世代の『幸せの瞬間』を、一つの物語として」

教授は、南條家の写真を静かに見つめながら、意味深な言葉を投げかけた。

「結婚式とは、単なる一日のイベントではない。それは、家族の歴史の中の、大切な一つの『点』なんですね」

美樹子は、ハンカチで目頭を押さえた。 「由美子...太郎くん...」

カフェの外では、夕陽が街並みを優しく染め始めていた。 教授は、テーブルの上のナプキンを見つめ直す。二つの輪は、今や美しく重なり合っているように見えた。

「さて」教授が穏やかに言った。「これからの細かい打ち合わせは、『価値の共有』という新しいステージに入りそうですね」

三人は、互いに顔を見合わせ、そっと微笑んだ。

7. 幸せの循環

「では、私たちは失礼します」 夕暮れが深まる頃、太郎と由美子が立ち上がった。

「ちょっと待って」美樹子が鞄を開け、一枚の封筒を取り出した。「実は、これを渡そうと思って...」

中から出てきたのは、一枚の古い写真。30年前の結婚式の前日、美樹子の母が娘に手紙を書いている場面が写っていた。

「私も、母から手紙をもらったの」美樹子の声が優しく響く。「『結婚式は、幸せのバトンを渡す瞬間よ』って」

由美子は思わず、母の手を握った。

「お二人とも」教授が静かに言った。「『交渉』という言葉は、時として誤解を招きます。戦いや駆け引きだと思われがちですが...」

三人が、教授の言葉に耳を傾ける。

「本当の交渉とは、『価値の探求』なんです。そして時に、それは世代を超えた『幸せの循環』を生み出す」

夕陽に照らされたカフェの窓ガラスに、母娘の姿が重なって映っていた。

「あ、そうそう」美樹子が思い出したように言う。「式の前日に、私から由美子に手紙を書いてもいいかしら?」

「お母さん...」

「私からも、由美子さんに」太郎が照れくさそうに言った。

教授は、温かな笑みを浮かべながら、最後のコーヒーを飲み干した。

一ヶ月後—。

小さな結婚式場のロビーに、一枚の写真立てが置かれていた。 30年前の結婚式の写真、幼い日の由美子、そして新郎新婦の晴れやかな笑顔。 その横には、三通の手紙が飾られている。

幸せのバトンは、確かに次の世代へと、渡されていった。

(第4話 終わり)

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