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午後3時の交渉学 第5話「介護という名の交渉」


1. 深夜のコーヒー

午後11時。カフェ・フィロソフィアは、通常なら閉店時間を迎えているはずだった。

しかし、この夜は一つのテーブルだけが灯りを灯していた。榊原教授は、いつもの窓際の席でコーヒーを前に、静かにスマートフォンを見つめている。

『先生、大変申し訳ありません。 この時間にご相談させていただきたいことがあり...』

差出人は、三ヶ月前にこのカフェで昇進の相談をした佐々木だった。

『今、病院にいます。父が緊急搬送されて...』

教授は即座に返信を送った。 『カフェで待っています』

30分後、佐々木が息を切らせて駆け込んできた。スーツは昨日から着替えていないのか、疲れた様子が隠せない。

「父が...脳梗塞で」 佐々木は座り込むように椅子に崩れ落ちた。

ウェイトレスが静かにエスプレッソを運んでくる。教授は軽く会釈を返すと、佐々木に優しく声をかけた。

「まずは、深呼吸を」

窓の外では、都会の夜景が静かに瞬いていた。そして、もう一つの物語が、始まろうとしていた。

2. 重なる責任

「明日から、新規事業部の立ち上げが本格化するというのに...」

佐々木の声には、深い疲労と焦りが混じっていた。三ヶ月前の昇進話から、彼は組織改革の中核を任されることになったのだ。

「主治医の話では、リハビリに3ヶ月はかかるとのこと。でも、母は持病があって介護は難しい。妹は海外赴任中で...」

教授はゆっくりとコーヒーを啜りながら、静かに頷いた。

「会社には、どう説明するつもりかな?」

「それが...」佐々木は俯いた。「部長には『なんとか両立します』と伝えましたが、正直、どうすれば...」

その時、カフェの扉が再び開いた。

「すみません、遅くなって」 中年の女性が、申し訳なさそうに入ってくる。

「田村さん!」教授が立ち上がった。

「榊原先生のメッセージを見て」田村は息を整えながら言った。「私の経験が、お役に立てるかもしれないと思って」

教授は、佐々木に説明するように続けた。 「田村さんは、大手商社で人事部長を務めながら、5年間、御両親の介護を経験された方です」

佐々木の目が、かすかな希望の光を宿した。

「介護は、様々な『交渉』の集大成なんです」 田村は静かに席に着きながら言った。

「交渉...ですか?」

「ええ。病院との交渉、介護施設との交渉、会社との交渉、そして...」 田村は意味深に続けた。 「自分自身との交渉」

教授は、新しいコーヒーを注文しながら、穏やかに微笑んだ。 夜は、まだ長い。

3. 五つの対話

「介護との向き合い方には、五つの重要な対話があります」 田村はゆっくりとカップを手に取りながら説明を始めた。

「まず、医療機関との対話」 彼女は指を一本立てる。 「これは『情報の交渉』です。治療方針、リハビリの見通し、在宅介護の可能性...具体的な数字とデータを引き出していく」

「数字とデータ...」佐々木は必死にスマートフォンにメモを取り始めた。

「次に、介護施設との対話。これは『時間の交渉』です」 二本目の指が立つ。 「デイケア、ショートステイ、そして将来的な入所の可能性まで。時間の使い方を柔軟に考える」

教授が静かに頷く。 「選択肢を増やすことが、交渉の基本ですからね」

「三つ目が、会社との対話」 田村の表情が引き締まる。 「ここが最も難しかった。でも、私が学んだのは...」

その時、佐々木のスマートフォンが鳴った。病院からだ。

「あ、すみません」 彼は慌てて電話に出ようとする。

「待って」教授が静かに制した。「深呼吸を。そして、メモを取る準備を」

佐々木は、教授の言葉に従って深く息を吸った。 そして、ゆっくりと電話に出る。

「はい、佐々木です」

医師との会話が始まる。佐々木は、田村から学んだばかりの「情報の交渉」を意識しながら、具体的な質問を投げかけていく。

「リハビリの具体的なスケジュールは?」 「在宅介護に必要な設備は?」 「デイケアの利用は可能でしょうか?」

電話を切ると、佐々木の表情が少し変わっていた。

「先生、田村さん...」 彼の声に、わずかな希望が混じる。 「少し、見えてきました」

4. 会社との対話

「では、続きを」田村は三本目の指を立てた。「会社との対話、『役割の交渉』について」

佐々木が身を乗り出す。彼にとって最も切実な問題だった。

「私が最初に失敗したのは、『完璧な両立』を約束してしまったこと」 田村は自嘲気味に微笑んだ。 「『何も変わりません』『今まで通り仕事します』...そんな言葉は、結果的に自分を追い込むだけでした」

「でも」佐々木が困惑した表情を見せる。「それ以外の選択肢が...」

「むしろ」教授が静かに口を開いた。「正直に状況を伝え、新しい可能性を探ることです」

田村が力強く頷く。 「私の場合、上司に『介護が必要な状況』を報告した上で、『だからこそできること』を提案しました」

「できること?」

「ええ。例えば、在宅勤務を組み合わせることで、移動時間を仕事に使える。深夜や早朝の海外とのやり取りも、介護の合間に効率的にこなせる」

佐々木の目が輝きを帯びてきた。

「それに、介護経験のある社員の視点は、人事部にとって貴重な資産になりました。介護離職防止の施策立案や、新しい働き方の提案...」

「なるほど」教授が穏やかに言った。「危機は、新しい価値を生む機会にもなる」

田村はコーヒーを一口飲んで、続けた。 「大切なのは、『できないこと』と『できること』を、明確に分けて伝えること。そして...」

「そして?」

「チームの力を借りること」 田村の声が柔らかくなる。 「一人で抱え込まない。それが、介護との向き合い方の基本です」

佐々木は、新規事業部のメンバーの顔を思い浮かべていた。

5. 家族という名の交渉

「そして四つ目が、最も繊細な対話」 田村は四本目の指を立てた。 「家族との交渉です」

深夜0時を回り、カフェの外はすっかり静まり返っていた。

「私の場合、最初は母が反対しました」田村の目が遠くを見つめる。「『仕事を辞めて、介護に専念すべき』って」

「うちも...」佐々木が小さな声で言った。「母が『仕事より家族が大事でしょう』と」

教授は静かに頷きながら、ウェイトレスに目配せして新しいコーヒーを注文した。

「でも、それは『二者択一』の罠なんです」田村が続ける。「仕事か家族か、ではない。どちらも大切な価値であり、その両方を活かす方法を探すことが...」

その時、佐々木のスマートフォンが再び鳴った。今度は母からだ。

「出てみましょう」教授が促す。「今までの話を思い出しながら」

佐々木は深く息を吸い、電話に出た。

「お母さん...うん、今からすぐ病院に戻るよ。でもその前に、ちょっと話がしたいんだ」

彼の声は、さっきより少し落ち着いている。

「実は、会社の仕事と、父さんの介護のこと。どちらも投げ出したくないんだ。だから...一緒に方法を考えてもらえないかな」

電話の向こうで、母の声が柔らかくなっていく。

「お母さんにも負担をかけたくない。だから、デイケアやショートステイのことも含めて、三人で相談していけたらって...」

田村と教授は、その会話を静かに見守っていた。 窓の外では、新しい一日が始まろうとしていた。

6. 最後の交渉

「そして、五つ目の対話」 田村が最後の指を立てる。 「自分自身との交渉です」

深夜1時を回り、カフェの灯りが、より一層温かく感じられる。

「どういうことでしょうか?」佐々木が尋ねる。

「介護には『終わり』がありません」田村の声が静かに響く。「だからこそ、自分との対話が重要になる。どこまでやるべきか、何を優先すべきか...」

教授が補足するように続けた。 「完璧を求めすぎないこと。それが、持続可能な介護の秘訣なんです」

「でも」佐々木の声が震える。「それって、父への責任放棄では...」

「違います」田村が強く言った。「むしろ、自分を追い詰めないことが、長期的には父様のためになる。倒れてしまっては、何もできなくなってしまう」

ウェイトレスが、最後のコーヒーを運んでくる。

「私が学んだのは」田村が続ける。「『できること』と『できないこと』を、自分自身に正直に認めること。そして、助けを求める勇気を持つこと」

佐々木は黙ってメモを取っていた。その手が、少し落ち着きを取り戻しているように見える。

「交渉とは」教授が静かに言った。「新しい可能性を見出すこと。時には、自分の中の可能性を見出すことでもある」

窓の外で、一台の救急車がサイレンを鳴らして通り過ぎていく。

「さて」教授が立ち上がった。「もう一度、病院に戻りますか」

7. 夜明けの決意

病院に向かう車の中で、佐々木は五つの交渉をメモ帳に整理していた。

  1. 医療機関との対話:情報の交渉

  2. 介護施設との対話:時間の交渉

  3. 会社との対話:役割の交渉

  4. 家族との対話:価値の交渉

  5. 自分との対話:限界の交渉

「明日から」佐々木が言った。「いや、今日からですね。まず会社に正直に状況を説明して...」

「その前に、休息を」教授が運転しながら静かに言った。「交渉の基本は、自分の状態を整えること」

タクシーの後部座席で、田村が頷く。 「休めるときに休む。それも大切な自分との交渉です」

夜明け前の街を、車は静かに走っていく。

病院に着くと、思いがけない光景が待っていた。 新規事業部の若手メンバー、中西が、ロビーで待機していたのだ。

「部長」中西が深々と頭を下げる。「昨日のメールを見て、気になって...朝一の会議資料、僕が準備しておきます」

佐々木は、言葉を失った。

「見てください」田村が微笑む。「もう交渉は始まっているんです。チームがあなたを支えようとしている」

東の空が、少しずつ明るみを帯び始めていた。

「さて」教授が言った。「これからが本当の交渉の始まりです。一つ一つ、丁寧に」

佐々木は深く息を吸った。 父の病室に向かう廊下で、朝日が窓から差し込み始めていた。

(第5話 終わり)

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