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月見バーガー

彼は浴室を出てタオルで体を拭い、ソファーに横になって長いあいだ何をするともなくぼんやりと天井を眺めていた。隣りの部屋では妻がアイロンをかけながらラジオから流れるビリー・ジョエルの唄にあわせてハミングしていた。閉鎖された鉄工所についての唄だ。典型的な日曜日の朝だった。アイロンの匂いとビリー・ジョエルと朝のシャワー。

『回転木馬のデッド・ヒート』村上春樹

こんな文章を書けるように、仮に、なれたとき、僕はもう少し世の中に起きるものごとの輪郭が今よりもくっきり認識できるようになっているのかもしれない、と思う。

なんてことのない出来事の描写、聴こえなくてもいい、覚えてなくてもいいラジオと妻のハミング、その歌の突き放した説明、部屋とワイシャツと私。

こんな風に、華美な装飾なく、極端に質素でもなく、少しの外連味を混ぜたようなさらっと乾いた文章を書けるようになれるならどんなに良い気分だろうと夢想する。村上春樹には村上春樹の悩みがあるのだろうけれど。

僕はあまりに多くのものごとを見落とすか忘れすぎている。いつも妻に「そんなことも覚えてないの」とあきれられる。8月の暑さはもう忘れた。「思い出は複利だ」と色んな人が言っている。思い出があるからいつまでも友と語り合えるし、本も映画もドラマもアニメも楽しめる。

今日は昼に月見バーガーを食べた。おいしかった。

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