カナダ逃亡記#2:いざカナダへ
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刑の時効
時効には二つある。「公訴時効」と「刑の時効」だ。それぞれ定められた時効までの期間が異なる。
妻の場合は、「刑の言渡し」を裁判所から受けていたので、5年たてば「刑の時効」は成立した。もし裁判所からの刑の言い渡しがなく海外に逃亡した場合は、何年たっても時効にはならない。
民事裁判や弁償などはすでに全て片付いていたので、あと5年捕まらなければすべてチャラ。
妻はあらゆることを冷静沈着にリサーチし、その上で僕らはこの逃亡が可能だと判断した。幸いにして、僕が妻と海外に逃げたことでうける罪は、刑法上見当たらなかった。もし僕が何かしらの罪で起訴されるようなことがあれば、3人の子供たちは路頭に迷うことになるだろう。それは断じてできない。
「5年くらいなんとかなる!」これは勝てるゲームだと思った。
5年くらい、まあ何とかなるさ。過去を振り返っても、5年前なんてつい昨日のようだよな、と自分に言い聞かせた。
成田空港にて
しかしそうはいっても、成田空港で僕はかつてないほどの感傷にひたっていた。妻に内緒で何度か酒を飲みにいった女性のことをしきりに考えてみたり、カナダでどんな生活になるのか、検察はどういう動きをするのだろう、まさか外国まで捕まえにくるようなことはあるのか?などの事を考えてみたり。様々な「不安」が、頭の中にデパートのようにずらっと並んでいる。それをひとつひとつ眺めて調べて、また始めから繰り返す。
タバコを吸いに空港建物の出入り口に出た。カナダはタバコが高いと聞いていたので、これが最後の1本だと決める。
何も知らない我が子らの無邪気さが、いっそう僕の心を重くした。彼らはまるで遠足にいく子供達のように、この非日常を楽しんでいる。
妻は焦燥しきっていた。無理もない。未明までの夜逃げ作業、あと数時間もすれば、刑務所に出頭する時間に妻が現れない事を知った検察が動き出すだろう。
(事実、妻が出頭しなかった数時間後に、検察は僕の元勤め先や子供の幼稚園などに現れた。鹿児島のど田舎に住んでいた僕の両親のもと、妻の実家へも当然やってきた。)
ありったけのスーツケースやバカでかいバッグには家族5人分の生活道具が詰め込まれていた。3番目の子供はよちよち歩きだったので、片手で抱っこしながら、もう片方の手で荷物満載のカートを押しながら搭乗ゲートへ進む。海外逃亡は体力が命だ。
何事もなく無事に搭乗手続きをすまし、カナダ・トロント直通の飛行機に乗り込む。もう殆どつむりかけた薄目で飛行機が離陸したのを確認し、僕はどっと疲れて泥のように眠った。もうしばらく日本に帰ってくることはないだろう。そう、あと5年は。
トロント・ピアーソン国際空港
眠ったかと思ったら到着した感じだった。ピアーソン空港は平日だったせいか、または建物が大きいせいか、かなり閑散としている。
飛行機を降りて、入国ゲートに向かって歩く。窓の外に目をやると、空の色や雲の種類が2月の東京のそれとは全然違っていた。特に感動することもない景色。殺風景というか、寒々しい。
大きな不安がいま1つある。もし入国手続きで何か問題が発生したらどうしよう。僕と妻のパスポートを調べて、「ちょっとお待ちください」みたいなことになったらどうしよう。そもそも僕らにはビザも何もなく、ただの「観光」だった。この観光にふさわしくない季節に、小さい子どもを3人も連れて、大きなカバンをいくつも持っての観光。ここがアメリカであれば、徹底的に調べ上げられるだろう。「おまえらは移住を企んでいるだろう?」と。
ところがカナダは拍子抜けするくらい簡単な入国だった。
審査官は「はい次のかた〜」といった具合にパスポートに入国のスタンプを押す。この国の外国人に対する寛容さをダイレクトに見た瞬間だった。
ああ、すべてが杞憂だった。これで自由だ。フリーダムカントリーだ。
なんとなく、妻とも笑顔をかわしたと思う。
しかし、空港からダウンタウンのホテルに向かうタクシーの中、なんとも殺風景な色彩に乏しい景色を見て、やはり心は2月のトロントの空色のように暗く沈んで行った。正真正銘、ゼロからのスタート。世田谷の売りに出していた住居はもちろんまだ買手が見つからない。身内の誰にも出国先を伝えていないので、当然、検察の動きを誰かに確認することができない。
さて、これからどう生活していこうか…
<カナダ逃亡記#3>へつづく