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カナダ逃亡記#4:住む場所をみつける

カナダ逃亡記 第1話はこちら

トロント最初の一ヶ月

ダウンタウンのホテルに宿泊し始めてからおよそ一ヶ月が過ぎた。この一ヶ月の間、毎日のようにトロントを散策して、どこのエリアがどういう所かという観光をかねたリサーチを行った。2月のトロントはとても寒い。氷点下の道を西へ東へよく歩いた。

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2010年3月 トロントのダウンタウンにて

トロントはエリアによって人種や所得のデモグラフィックが大きくかわる。とりわけ小学校の質が全然違う。僕ら夫婦が最優先しているのは「子供たちをどの小学校に入れるか」ということだったので、住みたいエリアは比較的早く2,3に絞ることができた。しかし良い環境の小学校は高所得な家族が多く住むエリアになり、必然的に家賃が高い。部屋だけ貸すアパートは少なく、庭付きの家をまるごと貸すという物件が多くをしめた。

不動産屋でも通さなければなかなか良い物件は見つからない。定職も預金もなく、ビザすら持っていない僕らのような外国人は、当然家探しに困難をきわめた。
<東京に住む現在も、よく外国の家族を見かける事はあるけれど、みなさん住居やビザなどではさぞ大変な思いをしているんだろうなと、同志のような感情がわいてくる。ステータス(ビザ)がないという事は、ほんとうにやっかいな事である。>
それでもなんとか、宿泊先ホテルのマンスリー契約が切れる直前で、新たに借りる家を見つけることができた。

ウェブサイトのクラシファイド<貸します>を通して、ポーランド系ユダヤ人の一軒家の部屋を借りれることになった。2部屋借りて750ドル。キッチン・リビングなどは他の人と共有。
そして雪が降る3月の上旬、僕らはノースヨーク地区というトロントの北部にあるエリアに引っ越した。

ノースヨークに引っ越す

その家は地下室のある一軒家で、独り者のオーナーが地下に住んでいた。
平屋一階の2部屋をわが家族が借りる事になったが、この時は他に部屋を借りている人はいなかったので、実質2部屋分の家賃で平屋一階全て使わせてもらうような形になった。

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ノースヨークのパークホーム通りの借り住まい。隣りの家々よりも鬱蒼としていた。

やっと住む所がみつかった時の安堵感は計り知れないものがあった。
場所はダウンタウンの喧騒とはちがって見た目にも寒々とはしていたが、閑静で落ち着きのある住宅地だった。ただ僕らには車も自転車もなく、毎日の買い物をするのに往復3キロ以上も歩かないといけなかった。

謎の老婆

ある日、オーナーに話すことがあって地下に通じる階段を降りていくと突然皴くちゃの老婆が目の前に現れ、腰を抜かしそうになった。

この時初めて知ったことだが、この老婆はオーナーの母親で、オーナーと共に家の地下に住んでいた。そのことにしばらく経つまでまったく気が付かず、正直なんとも薄気味の悪い思いだった。しかしこの皺くちゃ老婆と話してみるとその印象も変わった。この方は御年94で、ナチスのポーランド侵攻の際に国外脱出をしたというが、彼女の何人もの兄妹が強制収容所で殺害されたと言っていた。(この半年後に佐藤家は別の場所に引っ越すことになったが、それから少し経って再び訪れてみると、老婆はすでに亡くなっていた。尋ねた人が亡くなっていたのはとても寂しく、いきたWWⅡの証言者がまたひとり亡くなってしまったという思いだった。ノースヨーク地区はユダヤ人が多く、近くにはユダヤ人専用のデイケアセンターのような施設もある。カナダで最も有名なロックバンドのひとつであるRUSHはこのノースヨーク出身で、ボーカルのゲディー・リーの両親はポーランドの強制収容所の生還者だった。カナダ社会は移民が多く、近年もコソボやソマリアなど戦災を逃れてきたバックグラウンドを持つ移民が多くいる。)

庭の垣根の向こうには広大な墓地がひろがり、そこにはキツネ、ウサギ、コヨーテ、アライグマ、たまにシカ、それと名前は判らないが、のそのそ動く大きなげっ歯類の動物を見る事ができた。僕はその墓地を「荒れ地」とよび、夜に子供を寝かしつけたい時には「荒れ地の魔女が来るよ」などと言うと、子供たちはいっぺんに目をつむって眠りにつくのであった。

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裏庭に寒々しい景色をのぞむ。垣根の向こうには広大な「荒れ地」が広がる。

老婆といい、荒れ地といい、どちらかというと暗めな印象は拭えない家ではあった。ただ、このカナダに住むことは、あくまでも最終目的地ニューヨークまでのつなぎだ。アメリカに行くまでにせいぜい楽しむことにしよう。暦は3月に入り、窓からの陽射しが徐々に春の暖かさを帯びるようになった。一ヶ月以上学校に行ってない子供たちもそろそろ時間をもてあますようになってきた。

小学校入学のために

住む場所は確かに決まったけれど、ステータスは観光ビザのままだ。子供たちを小学校に入れるのに一体どんな書類が必要なのか掴めていない。直接小学校に行って話をきくしかない。

かつて僕がアメリカに住んでいた頃(1994年から2002年まで)は本当にビザのことでは苦労した。苦労というより、結局は金が必要だった。金と時間。両方かけてもダメなときはダメな結果になってしまう人も少なからず見てきた。はたしてカナダはどうなのか?

もちろん入学できない、という結果になるかもしれない。その時はその時で別の方法をみつけよう。

楽天的に考えよう、人生どうにかなるさ!
というよりは、実際にそれしか方法がなかっただけかも知れない。それくらい色んなことがインセキュア(不安定で危うい)な状況だった。しかし頼れる人は自分たち夫婦しかいない。ましてや、子供たちには微塵も不安めいた状況を見せず、いつも頼られる存在でないといけない。

あの頃はよく酒もタバコもやらずに過ごせたな、と今思う。
2013年に日本に帰国してからは、酒もタバコもやらない日はほぼ無い。
これはあの頃過ごした禁欲レッド・アラート生活の反動なのかもしれない。

<カナダ逃亡記#5>へつづく



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