カナダ逃亡記#5:まるで金が稼げない日々
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子供達は学校にいく
外国人がカナダの大学に留学するときは、入学まえから学生ビザや銀行の残高証明書などがいる。小学生にも必要とは思ったが、我が子らは学生ビザを持ってない。銀行の残金証明書なども必要額にはまったく達していない。これには困った。
それでも子供たちを学校にいれなくてはならない。親の都合でまだ10歳にも満たない子供を3人も日本から連れてきてしまった。彼らが教育を受ける権利を奪ってはいけない。ということで、前もってココと決めた小学校に行ってみた。
受付の担当者は、これまでに何千人もの小学生を見守ってきたような恰幅の良い中年の白人女性だった。彼女は「学生ビザなどは後でもいいから明日にでも子供を連れてきて」と笑顔で言った。この言葉にはすごく安心した。
カナダでは不法滞在者や何らかの事情で祖国を追われた人々、または外国からのクリミナルでも子供を学校に通わせることができる。というより、親の事情がどうあれ子供の事情とは切り離している。実際にそういう家庭は相当数いると思う。世界有数の移民受け入れ国家だ。全ての移民が、優秀で税金を沢山払ってくれる人々ばかりではない。
そして当局がその子供の名前から親の居場所を突き止めることは、法律で禁じられている。もちろん子供たちのために。素晴らしいことだと思う。子供の権利がしっかりと守られている。それは行政だけが監視しているわけでなく、市井の人々も十分に理解している。
全く英語など話した事のない我が子(長女と長男)らはビザはないまま、こうしてカナダの小学校に通うことになった。初めての登校を無事に終えた子供たちの晴れやかな笑顔を今も覚えている。
仕事がない日々
住む所も決まって、子供たちは小学校に通いはじめた。次は自分が仕事をみつける番だ。仕事なんてどうにかなる。今までもそうやってきた。
しかし、日がたつに連れ、状況は甘くない事がわかってきた。
観光ビザしかない僕に仕事など簡単にはみつからない。バイトすら、見つけることができない。ある日系のTV番組制作でバイトでもさせてもらおうと思い電話をすると、「ビザないの?あなたカナダでの仕事は無理ね」と、冷たくあしらわれた。自分のことは自分でやりましょう!海外にまで来て、何恥さらしてるの?とでもいいたげだった。
カナダはそもそも「就職買い手市場」なので、僕のようにビザもコネも何もない人物を雇わなくても、世界中から集まるビザもバックグラウンドもしっかりした人材がいくらでもいる。日本語が使えるという仕事でも、それこそビザのある日本人はたくさんいるので、まずチャンスはめぐってない。そもそも、ちゃんとした会社は、ビザなしの外国人を絶対に雇わない。そういう事情で僕が得られた仕事は、個人の店のウェブサイト制作や、ちょっとしたイベントの映像制作などだった。それすらも2ヶ月に一度くらいしかない。家賃代にもならない。
僕らはあくまでも最終目的地をアメリカに決めていたが、景気の悪いといわれたアメリカに仕事を探す事は、カナダで仕事を探す以上に難しかった。
働きたくても働けない日々、なけなしの貯金はなくなっていくばかり。底が見え始めていた。
その頃の僕は、行き場もなく閉塞感だけが自分たちの未来を包んでいるような、絶望的な気持ちだった。セイフティネットが全くない状態。そして、そんな生活力のない自分に対して一言も文句を言わない妻のことを思うと、気の毒でしかたなかった。
仕事がないので一日中家にいる。ある時、自分はこれほどにも稼ぐ力がなく、子供たちに満足にご飯も食べさせられなく、それなのに子供たちは純真な心を失う事なくこんな父を愛してくれていると感じ、心の底から申し訳ない気分になった。みんなが寝静まった夜中に、我が身の不甲斐なさにトイレでひとり泣いたこともあった。
またその頃、末の子が日本から持ってきた「いないいないばあっ!(NHK)」のDVDをヘビーローテーションでかけていた。
息子は毎日、何度も何度もそのDVDを再生するので、まるでその曲々が僕の「日々の気持ちのテーマソング」のようになってしまった。後にそれらの曲を聞くたびに気持ちがズシンと重く、暗く落ち込むようになった。
身動きがとれぬまま、それでも子供との生活は普通にこなし、ただひたすら状況がかわることを待っている日々だった。
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