カナダ逃亡記#19:アンダーグラウンドで生きる決意
ハードコアな弁護士
この頃の数週間、P.R.R.A.(プラー)の準備で、家→弁護士→子供の習い事→弁護士→仕事→弁護士と、目まぐるしい日々が続いた。担当の弁護士は強面のグイディー弁護士からダニエルという僕と同じような年の白人男性にかわり、彼がまた今まで会ったこともないくらい働き者の頼りになる男だった。
ダニエル弁護士は決して弱音を吐かず、希望的・悲観的観測で物事をいわない「リアリスト」だった。日本にいたときからこの時までに5、6人の弁護士に仕事を依頼してきたが、その内の何人かは実に勉強不足なテキトーな人達だった。
「摂食障害など聞いたこともない!」という弁護士もいた。キムタクが出てたドラマの監修をしていたヤメ検が僕らの弁護士だったこともあったが、この人などはコピペで仕事を済ましていたような所もあった(我々の案件では)。誠意のない人たちだ。しかし、今度のチームはハードコアな連中だった。
ダニエルの助手だったスジャーニというインド系の女性は、本当に仕事のできる助手だった。仕事の出来る人達は、国や人種、性別に関係なく、仕事ができる。そのかわり、払う物もしっかり払わなくてはいけない。
ダニエルに事情を説明して家族でケベック旅行に行く旨を伝えると、彼は快く見送ってくれた。
「あとは僕らがやれることを精一杯やるだけだ。気をつけて行ってらっしゃい。」
家族五人と15才になるジャックラッセルテリア一匹、さらにこの春にヒナで拾ったスズメが一羽、みんなでシボレーの MINI VAN に乗り込み、いざケベックへ!
ケベックへ
トロントより北東へ500キロほどにあるケベック州モントリオール。その街からさらに東に150キロ程すすんだ「シャーブルック」という街に今晩は泊まる。楽しいドライブ。みんなで笑ったり食べたり、ひたすらまっすぐな道を行く。
しかし段々とその単調な道に飽きてきて、僕は運転に苦痛を感じはじめる。クルーズコントロールが装備されてない車だと北米の道路は結構しんどい。やがて遠くに、ポコっと平地にのせた巨大なチャーハンのような山が見えてきた。
山を見るのは本当に久しぶりだ。トロントに山はない。
僕は神奈川の丹沢山系のふもとで育ったので、山が妙になつかしく感じる。道路の標識はすっかりフランス語に代わって、自分たちがケベック州に入った事を知る。
旅行に出る前に、ケベックは食べ物が美味しいと聞いた。人もトロントとは全然違うらしい(女性が美しいとも聞いた)。
しかし旅行にケベックを選んだ理由は、実は他にもあった。
今度のプラー(カナダに残れるか否かの最後の審査)がダメだった場合、僕ら家族は必ず日本に帰らなくてはならない。しかし僕らの選択肢に「帰国」はなかった。
この時点で日本を離れて3年半。あと1年半ほど日本国外にいれば、妻の「刑の時効」は成立して、僕らは晴れて日本に帰ることもできる。
それまでの間は、アンダーグラウンドに生きる道を見つけるしかない。
アンダーグラウンドに生きるってどんなことだろう?
それは当局に身元を知らせることなく、完全な不法滞在で生きていく道。
生活のためには、場合によっては「イリーガル」なことも視野にいれないといけない。でないと食っていけない。
アンダーグラウンドで生きるとなった場合、トロントで暮らすのは生活費がしんどい上、当局に捕まるかもしれないというリスクがある。だったらカナダ中西部のアルバータ州や、ケベック州に移るのもいいかもしれない。特にケベックは、つい最近もカナダから独立しようとしてたほどの州なので、隣のオンタリオ州とは連携がないだろう……
、というかなり「ご都合主義的」な発想で、ケベックに住めるかどうかの視察もかねた旅行だった。
モントリオールの街、夕暮れがせまると街全体の光が薄暗くしぼられていき、ぽつぽつと、レストランの窓からもれる灯りが路面に影を落とす。必要以上に電気をつかって煌々と明るく灯すことはない。夜という暗闇をしっかりと受け入れようと、誰かが決めた町のルールなのかもしれない。
誰も知らない街に移り住むことは、楽しい時もあれば、そうじゃない時もある。僕の子供たちはどのように感じるだろう。彼らの大好きな母親がそばにいてくれれば、きっとうまくいくだろう。
父親の仕事は、妻や子供達が安心して楽しく日々を暮らせるように、家に食べ物や金を持ち帰ることだ。まだ人類が狩猟だけで洞窟に住んでいた頃から、それはあまりかわっていない。果たして、言葉も通じない、知り合いもいない、仕事もない異国の地で、僕はその父親の仕事ができるのだろうか。
こうして生きている限り、生きることの不安、家族を養っていけるかどうかの不安は、尽きることなどないのだと悟った。
夏のおわりのイベント
8月の中頃から終わりまで、ダウンタウンのコンベンションエリア(INDY CAR レースなども開催された、大きなイベントが開催されるエリア)でCNE(Canadian National Exhibition)というイベントがある。
CNEでは、その期間だけ設置される大きな観覧車やその他多くのアトラクション、食べ物屋/飲み物屋が立ち並ぶ。年に一度、夏の終わりのクライマックスなイベント、トロントの子供たちはみんな楽しみにしている。
我が家はこのイベント会場まで歩いていけるような距離にあった。
ウチの子供たちも毎日のように「行きたい行きたい」とせがむが、弁護士とのやりとりが大事な局面を迎えていたので、なかなかその時間がなかった。
7月ごろからずっと(プラー)裁判のために準備してきた。
弁護士のダニエルとそのチームは本当にいい仕事をしてくれた。期限ギリギリまで彼らは仕事をして、大きな書類箱2箱もある資料は連邦裁判所に提出された。僕と妻には、ダニエル弁護士とそのチームの誠意と親身さがよく伝わっていた。
そして運命をわける8月30日がやってきた。
この日、最終的な判決が裁判所から下される。
プラーが認められれば、この先も今までのようにトロントに暮らせる。子供たちも今までのように学校に通い、僕も同じ仕事を続けられるだろう。
逆にもしプラーが認められない場合、僕らは即日カナダを出国しなくてはならなかった。
あるいは、今の生活をすべて捨てて、またどこかで一からアンダーグラウンドの生活を始めなくてはならない。それはできることなら避けたい。もう疲れた。
僕はこの日、子供たち3人を連れ、CNEに来ていた。暑い1日だった。
日が暮れて、オンタリオ湖のほうから涼しい風がふいてくる、典型的な夏の終わりの午後だった。何も知らない子供たちはとても楽しそうだ。
もし今日がこんな日じゃなかったら、自分も子供たちと一緒に楽しんでいただろう。僕は彼らへの後ろめたさからか、顔では一生懸命笑顔をつくって、心は相当疲弊していた。今か今かとダニエル弁護士からの「結果発表」を待った。
やがて妻も僕と子ども達にジョインした。それからまもなくしてダニエルから電話があった。
「コウショウ、残念な結果になったこを伝えなくてはならない。プラーの結果はダメだった。」
湖からの心地よい風が一気に冬の凍った風に変わったかのように、「現実」が厳しく冷たく、僕の心を吹き抜けた。
アイーシャのこと
ある程度はこの結果を想定していた。いや、この結果を常に想定しようと努力していた。しかし、金も仕事もない状況で当局からさらに逃げてくらすことなど、もう想像しただけで辟易としてくる。辛くて子供にあたってしまうかもしれない。
電話をきった後、ダニエルが僕に伝えたことを呆然と考え、この先どうしたものかと星の見え始めた空を仰いだ。そして、こうなることは実は殆ど想像していなかったのだと、あらためて気がつく。
子供たちは尚も楽しそうに、次はどれに乗るかを相談をしている。彼らの「パパ、今日って最高に楽しい日だね!」という言葉には返す事もできなかった。
やがてイベントは閉園し、僕たち家族はとぼとぼと、薄暗い人気のない道を帰途についた。妻も僕も、それぞれ考えることがありすぎて、夫婦で何の会話もなかった。
その時、僕の携帯電話のベルがなった。
家族ぐるみで仲のよいアイーシャだった。
「今から家にきて!」
アイーシャは長男の同級生の母親で、彼女の旦那さんは単身赴任で遠く離れたアルバータ州に住んでいた。女独りでひとり息子を育てているようなもので、しかしそいういった生活感はまるでなく、笑顔をたやさない女性だった。
彼女の父親は南アフリカ出身のインド系ムスリムで、ネルソン・マンデラと学友だったらしい。母親はロンドン育ちで、ナチスのV2ロケット爆撃を経験した過去をもつイギリス人だった。そんな両親を持つ彼女は、カナダで生まれ育った、見た目が白人の女性だった。
みんなでよくバーベキューをしながら、彼女は飲んだ事も見た事もない美味しいテキーラをふるまってくれ、博学な話に花をさかせてくれた。
そんな彼女は、だれよりも僕らの状況にシンパシーを持っていた。実際にいろいろと精神的にも助けてくれる人だった。僕らがダウンタウンでの生活を楽しく送れたのは、実に彼女のおかげだったと思う。
そんな彼女から電話があったので、僕らはその足で彼女の家に向かった。
もう遅い時間だったが子供達にはTVをみせ、僕と妻とアイーシャはこれからの事を話し合った。
本当のクライマックス
僕の腹はこの時、決まっていなかった。あくまでも妻をサポートするためにカナダに来たとはいえ、この局面にきて、この先どうするべきかわかならくなっていた。
アイーシャは言った。
「もう腹をくくって日本に帰った方がいい」
僕「そうだ、もう日本に帰ろう、これ以上はしんどいよ、2年刑務所に入ることなんてあっという間だよ。」
妻「私は帰らない、ここまできて、その選択肢はない」
話は段々と感情的になっていった。
アイーシャ「そう、2年なんてあっという間よ」
妻「あっという間だなんてなんで分かるの?何を知っているの?」
アイーシャ「私の夫が、息子が3才の時からずっと刑務所に入っているから…」
彼女は言ったあとに肩をすくめた。
僕は言葉を失った。
ああ、そうだったのか、アイーシャ、知らなかったよ。
君の旦那さんはずっと刑務所に入っていたんだね。それを誰に言うこともなく…
人生の伴侶が刑務所に何年も入っている「先の見えない生活」を誰よりも知っている彼女は、先の見える2年などあっという間だと言ったのだ。
この瞬間まで僕は、無意識的に「可哀想な俺たち」みたいな感覚を持っていた。
「今俺たちは金がなく、ステータスもなく、ひもじい思いをしている。俺たちは可哀想な家族だ。俺は可哀想なお父さんなんだ。誰か同情しておくれ。」
しかしそんな思いは彼女の一言でいっぺんに蹴落とされた。
僕は「アイーシャ、よく教えてくれたね、ありがとう」という気持ちでいっぱいになった。僕の置かれている状況よりも彼女の方がずっとずっと大変だなと思った。子供にあれこれ心配をかけないように暮らす事は思った以上に大変で、彼女の場合、自分の子供だけでなく周りの子供達までみんなまとめて楽しませるような度量があった。
僕は気持ちがすっかり入れ替わった感じがした。
この夏一番の「クライマックス」だった。
そして僕は、妻が次に何を言うかをまった。もし彼女が日本に帰ると言えば帰ることにするし、カナダに残ると言えばそれをサポートする心の準備はできていた。
妻は言った、
「日本には帰らない」
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明日は8月最後の日、あさってからは小学校が始まる。
気持ちを入れ替えていこう。
これから少なくともあと一年半、なんとか生き延びてやろう。
当局から逃れ「アンダーグラウンドに生きていく」ことは、この時決まった。
<カナダ逃亡記#20>につづく