阪神・淡路大震災から三十年
阪神・淡路大震災(はんしん・あわじだいしんさい)とは、1995年(平成7年)1月17日(火曜日)5時46分52秒(日本時間=UTC+9)に発生した兵庫県南部地震により引き起こされた災害のことである
私は当時一人暮らしをしていた大学生で、その二日前の15日に成人式を迎えていたが、子供の時から堅苦しい儀式が嫌いで結局成人式には行かなかった
成人式には行かなかったが夕方に母から電話があり、父が家に来るようにと言っていると言われて、仕方なく車で少し離れた実家に行った
実家に行ったところ父が出てきて「成人式に行ったのか?」と聞かれた
「行ってない」と答えたところ、「なに?」と言われた瞬間に頭を叩かれ、そのままボコボコにされた(苦笑)
人生で父親に手を挙げられたのは三度だけだが、これが三度目
ボコボコにされた後に、何十万円かを投げつけられて「帰れ!」と言って父は部屋の中に戻ったので、投げつけられた金を拾って実家を飛び出して、そのまま神戸に向かった
それであまり覚えてないけど、15日の夜から16日の夜というか17日の3時くらいまで神戸で遊んでいた。多分当時付き合っていた彼女の家にでも行ったか、友達を呼び出してクラブとか行ってたんだと思うが、貰った金を使い果たしたのだと思う
それで17日の朝3時くらいに流石に家に帰ろうと思って、神戸から一人暮らししていた西宮のマンションに阪神高速に乗って向かった
その時に高速を走りながら見る月が、異様に赤く大きく禍々しく見えたことに驚いたことを今でも鮮明に覚えている
ちょうど芦屋の海側の深江あたりだったろうか、あんな禍々しい月を見たのは初めてで、不安を感じつつ西宮に着き、近所のローソンで飲み物とピスタチオだけ買って帰宅した。3時半くらいだったか
それで流石に疲れて、そのままベッドに倒れるように寝た
深い眠りについているといきなり「ドーンッ!!!」と大きい音がして、遠くにあったテレビが飛んできたので、布団を被って防御したが、そのまま非常に激しい縦揺れが永遠に続くのではないかと思うくらいに長く続いた
ようやく揺れがおさまったところ、本棚の本は全部飛び出しているし、家の中はぐちゃぐちゃになっていた
外を見ても幸い家の周りは潰れた家も無さそうで、どれくらいの被害が出たかもよくわからない
電気もつき、テレビを繋げ直すと緊急で地震の様子を放送していた
さっきまでいた三宮のビルがあちこち倒れ、さっきまで乗っていた阪神高速がちょうど月を見た深江のあたりで全壊して倒れていた
まるでゴジラでも来たような感じだ
マジか、としか思わなかった
神戸、神の戸が開いたのか、と当時日月神示などを読み漁っていたバカな子供だった自分には、そこで描かれる天災や戦争の様子が初めて目の前に広がるように感じた
実家に電話をしたが繋がらない、電話自体がもう繋がらないのだ
仕方なくテレビを見て、地震に対する情報を得ようとしていた
当時はまだ携帯電話も今ほどは普及していなかったが、大きな被害があったのは神戸だけで大阪はほぼ無事であると、安否を心配して電話をかけてくれた大阪の友人からの電話で分かった。携帯だけは通じたのだ。
それでもうあまりのことに、どうしようもないと思ったが、眠いし、ご飯もないしと思って、ピスタチオがあったなと思ってそれを食べて、一旦寝た
私の肝の太いところはそういうところかも知れない。ともかく睡眠と食事をという本能だろうか。マンションだったからか水は出たので家にいることは問題なかった
少し眠ったところ、大阪の友人何人かに、夜に救援物資を大阪から神戸に持っていこうと思うから買ってくれと提案し、それは良いと四駆の大きい車を出してもらった
道路も崩壊しているし、神戸から被災者は大渋滞しながら車で他府県に逃げていたので、四駆じゃないと通れないと思ったのだ
そのまま夕方になるまで再度寝て、大阪の友人が来るのを待った
友人たちは水や食料を箱買いして来たので、神戸に向かった
神戸に向かう道は通れない道も多く、大きな国道などは大渋滞なので、西宮から芦屋を抜けていく裏道を通ったがそこも大渋滞で、一方通行を逆走したりして何時間もかけて神戸の三宮に入った
もうその時は夜になり真っ暗で、自分たちが毎日遊んでいた神戸の街は大惨事となり、こんなことが起きるのかと目の前の光景を信じられなかった
街はひりついた空気が流れ、崩壊したビルの瓦礫から若い女の足だけが出ていたのを見た時は黙って手を合わす以外何も出来なかった
いくら人間が頑張っても、天地自然の怒りを買えばひとたまりもなく、仏教の諸行無常というのは真理だなと痛感した
思えば人間の世界に希望を持てず、神仏の世界だけに希望が持てるようになったのはこの体験からだろう
そうしてる間にも大きな余震がきて、ビルがまた崩壊したり、同じように街中にいる人たちも慌てて逃げようとしていたが、どこにも逃げる場所はなかった
唖然としながらも、友人や恋人の家に行き、水や食料を配って、家に帰った
疲れ果ててまた眠ったのを覚えている
それからマンションの水も止まってしまったので、結局実家に戻って過ごすことにした
父は仕事に大きな影響が出たので、逆に開き直って四駆を買って仕事は部下に任せ、被災者のためにと毎日お弁当や救援物資を箱買いして、避難所を回って配っていた
私はそれを手伝うというのも父との関係もあり気恥ずかしく、手伝えなかったことを今でも後悔している
幸いに当時私が住んでいた場所は西宮でも一番大阪に近い東側だったので、復旧も早く家に帰れたも早かったが、その後も神戸は復興にとても時間がかかった
その後私は思うところがあって、大学を中退した
現世に何も期待できなくなったからであり、若さも相まって厭世観が高まって、より神仏の世界に心が動いたのだった